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ママさんはすぐ翌日、今度はわたしたちが家についてから少ししてやってきた。どうやら晩ごはんを一緒に食べに来たらしい。 またなと言っていた男の人の姿はなくてちょっとホッとしたりもしたけれど、ご飯は大丈夫なんだろうか。なんとなくヤンチャそうな感じだったし、外で食べ歩いたり飲み歩いたりしているのかな……という偏見極まりない想像はそっと胸のうちに仕舞っておいた。 「×××××××に習ったそうだな。どれほどのものか見せてもらおう」 てっきり上京した息子宅にやってきたおふくろさんよろしくママさんによる煮炊きが始まるのかと思いきや、ママさんはそう言ってキッチンを軽やかにスルーし、ソファでわたしの隣に腰掛けた。 秀一さんはそんなママさんを横目で見遣りつつちゃかちゃかと調理器具を出し、さてご飯を作るぞとなった風のところで、ふと思い出したかのように吊戸棚を覗き込んだ。わたしではどう頑張っても届かない、ちゃんとは見たことがない場所だ。そこに何があったんだっけ、何やらキッチンペーパーやらを出していたことがあるような。 秀一さんは何も取り出さずにそのまま戸を閉めて、くるりと踵を返したかと思うと、わたしのそばに来て膝をついた。 「悪い、忘れ物をした」 へっ? とつい声が出かけた。 「買ってくるから、少しの間メアリーと留守番をしていてくれないか?」 「あっ、あい……」 生まれてこのかた、は言いすぎだ出会ってからこれまで、秀一さんが買い忘れなんかした試しがない。少なくともわたしの目の前ではそういう素振りを見せたことがなかったもので、ちょっぴりびっくりしてしまった。でもそんなこともあるよね、にんげんだもの。にんげんですよね? 秀一さんは、ママさんと何やら英語で短く会話し、目配せをし合ってから、財布とケータイなノリの軽装でさっと出ていってしまった。 扉や鍵の閉まる音のあと、静かになって一拍、ふ、と笑みで吹き出したようなものと溜息で吐き出したようなものとが合わさった息が、すぐそばからこぼれ落ちてきた。 キャッチした耳が反射でぴくりと動いた気がする。遅れてそのことを認識した頭のびっくりに釣られるように、体が小さく跳ねて、そこかしこの筋肉が勝手にぎゅっと縮こまってしまう。 「まったく、白々しい上強引な」 まるで扉の向こうの秀一さんに飛ばすように言ってから、ママさんはゆるりと首を曲げわたしを見下ろした。 鋭い瞳だ。つい直視を避けたくなる。 「急にこんな殆ど見知らぬ人間とふたりきりにされても困るだろうに」 「そ、そんな、めっそもない……」 まさかまさかと反射で否定したけれど、もしかしたらわたしのことじゃなくてママさんのことだったかも。時すでにおしゅし。脳内でお魚とシャリが舞う。 ママさんはぱちりと瞬いたあと、視線を宙へ浮かせて、独りごちるような、ぼやくような調子で続けた。 「……自覚がないのか、柄にもなく急いているのか……さっさと取捨を決めてしまいたいという腹づもりか」 「……?」 「子も親を試すということだ」 どういうことですか、と聞けずにいるうち、ママさんは組んでいた足をほどき、わたしに合わせるようにして背を丸めた。ふわっといい香りがする。ジェイムズさんとはもちろん、ジョディさんや他の女の人とは違う、ちょっぴりスパイシーな雰囲気の香りだ。 ママさんが、ほんの少し眉を下げる。 「今日もビュロウに行ったんでしょう」 アレッと思いながらも、そのとおりなのでうんうん頷く。 昨日のわたしもわたしならば今日のわたしもわたし、当たり前ながら急にニョキッと成長したりはしないもので、さすがにいきなりじゃあ行くのやめてお留守番ねというわけにはいかず、数日は我慢してくれと言われたのである。気持ちとしては秀一さんの言葉だけで充分だという感じなのだけれど、行ってみるとどうしても、意識とは裏腹に心も体もそわそわしてしまう。それをわたしのためにどうにかしてくれるというのだから、少しは辛抱しなくては。某お方ですら人間をやめる前にちゃんとやめますよと宣言をしてからしている。物事には追わなければならない順序や踏まなければならない段階というものがあるのだ。 ……正直、今日ママさんが来たのはそれに関わることでは、というのは、わたしにしては珍しく名推理だと思うのですが、どうでしょーか先生。お返事ください先生。寝たふりやめてください先生。 「どうだった?」 「あ、えと……つ、つつがなく……?」 「難しい言葉を知ってるのね。ともかくそれなら良かったわ」 そこでようやく、ハッと、昨日も感じた違和感の正体に行き着いた。 「あの……ことば……」 「さっきの?」 「えと、その、しゃべる、ちがう……」 えーっとえーっとと緊張であわあわするわたしを暫し見つめ、ママさんはもしかして、と言った。 「私の喋り方のこと?」 我ながら伝達能力の家出っぷりがひどいというのによく分かったなとびっくりしてしまった。そうですそうです。それである。ママさんは、秀一さんに対しては、英語がどうなのかは分からないけれど、少なくとも日本語で話しかける時、なんだか秀一さんに似た、ちょっぴりかたくて素っ気ないような言葉遣いをしていたのに、わたしに向かって喋るときはなんだか柔らかくなるのだ。 頷くわたしに、ママさんが小さく笑うように口角を上げる。 「うちには“お父さん”がいなくてね。私がその代わりをしようと思って、子どもたちにはわざとそうしてたのよ。正確に言えば途中でいなくなったのであって、どちらかといえば秀一のためというよりも、下の子たちのためになんだけれど。――でも、ありすにはちゃんといるでしょう?」 なるほど……、……なるほど……? なんだかずいぶん思い切りがいいというか、役者魂がすごいというか、その発想はあったがまさか本当にやってしまうとはというか。ひょっとすると、本当はとっても気弱な優しいお母さんで、切り替えをしないと厳しく躾けたり指導したりができなかったのかもしれない。いやママさんを見る限りめちゃくちゃ普通にできそうな気もするけれど、お父さん役をすることで得られた強さと逞しさなのかも。 何はともあれお母さんひとりで子育てするのは大変だったに違いない。しかも、“たち”、ということは、秀一さんにはあの男の人以外にも弟さんか妹さんがいるんだろうか。 くるくる考えた末に、なんとなく感嘆の息のようなもの、しか出せなかったわたしに、ママさんはほんのり目を細めた。 そのしぐさは、やっぱり秀一さんに似ている。――なんだか強張った体の筋が緩む心地がした。 |