こしんぼち

 赤井さんが退職を願い出たのだという。

「それに関してはまあ、保留にさせてもらったがね」

 見舞いに向かった先、いつだかの騒動を思い出す杯戸中央病院のロビーで、引き止めるよう声をかけてきたジェイムズさんは、そう言って腕を組み、眉根を寄せた。
 どうも赤井さんの様子がおかしいと。
 ビルから飛び降りた挙句に神経が断たれるほどの強さで自らの利き手を切り落とさんばかりに傷つけたのだ。前回オレが見舞いに行ったときも、俯きっぱなしでずっと黙り込んでいた。精神的に不安定、どころかひどく落ち沈んでいるようなのは明らかだったけれど。

「もっと変なのよ」

 身をかがめるジョディ先生の表情はなぜか深刻一辺倒ではない。隣に立つキャメルさんもそうだった。

「急に子供みたいに謝ったかと思えば、次の日には口説いてきたり」
「へ?」

 先生は困惑混じりに、記憶を探るよう視線を上向けて顎に手を当てる。

「あれ、口説いてたのかしら……いえ口説いてたわよね……なんか普段の十割増しくらい褒めたくられたわ……なんなのあれ……」
「自分は逆に怖がられてしまって。その、ケツだけは勘弁してくれとか何とか……」

 だいぶ失礼なこと言ってねーかそれ。
 念の為聞いてみたが、単にハグしただけらしい。それだったら以前もやっていたし、赤井さんだって普通に応えていたはずだ。
 というか赤井さんがそんなことを言う姿がさっぱり想像できない。

「ジェイムズさんにも何か?」
「いや……」

 見上げて振れば、ジェイムズさんはなんとも言えない顔をして、アーだとかうーむだとか唸り声を上げ、気を取り直すように咳払いをした。一体何を言われたんだ。

「ともかく、どうにも捨て鉢になっているようだ。手の例もあるし、注意深く見てやってくれ」



 ジェイムズさんや安室さん――もとい降谷さんの手回しにより用意された病室は、病院の端にあり、周りは空き部屋や物置であるため静かだ。
 赤井さんの病室へ誰かが来ているだろうことは廊下を歩いている時点で分かったし、扉の前に立てば中の声が聞こえてきた。

「――そんなこと言われてもな、俺だって別に吐きたくて吐いてるわけじゃない。ただもう食べるのも吐くのも疲れたんだよパトラッシュ」
「パト……? 今度は何ですか、十歳の教師? ジャングルの少年? 世紀末の戦士?」
「いいや、飼い主に寄り添う立派なワンワンだ」
「りっぱなわんわん」
「俺としてはチョビの方が好きだけども。賢くて大人しい犬は可愛いな。ゴムパッキンも愛嬌があっていい。実際のところはさておきあれのおかげで動物がみんな吹き出し外に明朝体で喋っているような気がしてくるのは誰でも一度は通る道なんじゃないか」
「ちょび……ごむぱっきん……分かりました分かりました、ワンワンは可愛いですね……」

 声は確かに赤井さんのものだ。聞き慣れているのだから間違えようもない……はずなのだが、なんだか聞き間違いであってほしいような内容だ。降谷さんの声にもどこかやけっぱちな調子を感じる。
 がらりと扉を開けて中へ入れば、パイプ椅子に座っていた降谷さんがさっと振り返った。
 それからベッドで体を起こしていた赤井さんもゆっくりとこちらへ視線を向け、「ああ、コナン君」と言って手を上げた。その腕につられて点滴のチューブが揺れる。

「ごめんね、いろいろあって来れなくって」
「リア充なんだから仕方ない。そもそもコナン君がわざわざ俺のために時間を割く必要はないんだし」
「……リア……?」
「子どもの時間はあっという間だ。三十童貞の魔法使いになって後悔と切なさ噛みしめる羽目にならんよう今のうちに死ぬほど遊んでおいたほうがいい」
「ど…………あ、あのね、ボクが赤井さんのこと心配だから来てるんだ。要不要の話じゃないんだよ」
「可愛いこと言ってくれるのは嬉しいが今おじさんこのザマだし小遣いどころかオリジナルな飴ちゃんすらあげられんぞ」

 誰と喋ってるんだっけオレ。
 軽く放心するオレに、降谷さんが苦い笑みを向けてくる。

「……落下の時頭部を怪我してたんだったよね?」
「残念ながら外傷はあったがちゃんと治癒する類のものだし、中身も検査の結果異常はないと判断されたんだよ」
「俺の頭が残念なのは今に始まったことじゃないだろう。初期値が無惨だから課金でアビリティ振り直してもどうにもならないレベル」
「ちょっと赤井さん待って」
「あっはい」

 きれいに口を引き結んで黙り込んだ赤井さんは、その姿だけ見れば、少し痩せただけで以前と変わりない。それが尚更奇妙に映る。
 降谷さんへ目配せすると待ってましたとばかりに頷き、赤井さんに「いいですか、大人しくしてるんですよ」と言い、さっとドアの方へと歩いていった。
 その後に続いて廊下へ出ると、降谷さんはオレと目線を合わせるようにしゃがみこむ。

「ずっとこうなの?」
「そう。数日前から急にね。とにかくあの調子なんだ。悪いが僕は流石にそろそろ仕事に行かなきゃいけないんだ、ちょっと見ててやっててくれないかい」
「それはいいけど……」
「FBIの連――人間もいるけれど、多分きみのほうがマシだろうから。多少ならばアッパーになるのは良い事かもしれないが、あれは如何せん行き過ぎだし妙だ。普段からかけ離れた精神状態は危険だ。またアレをやるかもしれないし、それ以上のとんでもないことしですかもしれない。そうでなくても今まで何事もなく摂っていた食事を受け付けなくなっててね」
「どうしてあんな風に」
「さあ。理由は聞いたら当人がぺらぺら喋るだろうけどね、あの有様だから正確なところは分からない」

 そう肩を竦めると降谷さんはすっと立ち上がって病室のドアを開け、室内へ「僕もう行きますからね」と声を飛ばした。
 ドアの向こうの赤井さんはいつの間にかベッドに寝っ転がって天井を見上げている。

「チーズ蒸しパンになりたい……」
「せめて生き物にしなさい」

 降谷さんは動じることなくすぱりと言い放つ。たった数日でだいぶ慣れた対応である。

「そんなに好きなら買って来てあげますから、コナン君の言う事をちゃんと聞いていい子にしてるんですよ」

 それもそれでどうなんだという降谷さんの台詞に、赤井さんはぴらりと手を上げて振った。

「わかったよママ……」

 …………なるほど“もっと変”だ。


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