雨氷

 いつも決めればほとんど時間通りにやってくるトーヤが、珍しくいつまで経っても姿を見せず、連絡も寄越してこなかった。私にさえ。
 近頃友達を作って遊びはじめたという少女の迎えで多少遅れることはあったものの、今日は小学校が休みの日だし、そういう時は必ず連絡があった。拠点から離れたときだって事前に手を回していたのだ。
 一時間待って、二時間待って、どうにも妙だと捜査官たちが不安を露わにしはじめたころ、私がかけた電話に、長い呼び出しの末に応答したのは少女の声だった。

『今日は行けないわ』
「どうしたの? シュウは?」
『倒れてる』

 驚いて返事に詰まっている間に、少女は『どうにかしてくれない?』と、落ち着き払いまるで業者に頼むような声色で言い加えた。


 捜査官たちにそれを伝え、次第によってはジェイムズに指示を仰ぐように言って、慌てて拠点を出てマンションへ向かった。万が一のためと合鍵は貰っていたから、エントランスも玄関も伺い立てずに通った。
 廊下の先、契約後に部屋を整えたときとさほど変わり映えのないリビング。トーヤはまさに倒れたそのままという有様でフローリングに転がっていた。
 駆け寄って様子を見てみれぱひどい熱だった。日頃から疲労は濃かったからこうなってもおかしくはない。顔色はどちらかと言えば青白く、少女に煙たがられてやめたおかげであのタバコの匂いもしないから、なんだかこのまま死んでしまうのではないかという焦燥すら覚えてしまう。
 少女はというと、ソファに座り、拠点にいるときと何ら変わりない調子で雑誌を読んでいる。

「まさかずっと?」
「私に大の男を抱えろっていうの?」
「……シュウの部屋は?」

 そっち、と、少女は涼し気な顔で指をさした。
 確かに私でもベッドまで抱え引きずるのは一苦労だったし、少女には不可能だろうけれど。言えば扉の開閉は手伝ってくれたが、それだって面倒そうで、終わればまたすぐにソファへ戻っていく。

「食事はまだ?」
「適当に済ますわ。私はね」

 そういえば、食事は外食や出来合い、デリバリーが主で、少女が同じ卓を囲むことを嫌がるため、金を渡して好きにさせているのだと言っていた。
 キッチンを見てみたが、一通り買い揃えた調理器具は全く使われた様子がない。思えば本国にいたときだってキッチンを使っている様子なんてさっぱりなかったから、狭いワークトップにキャップスタンドを飾ったりしていたのだ。そんな彼が、少女の分の食事を作ったり出来るわけがないといえば、それもそうだ。
 何が“問題ない”よ。そんなこともできずに、ろくに眠れもせず、食事も摂れないくせに。
 ――そう、しないのじゃなく、出来ないのだ。彼一人では。懊悩するばかりでは。

「アニータちゃん」
「……なに?」
「その…………彼、あなたの事で随分思い悩んでたわ。そうは見えないかもしれないけど、ずっと気にかけていて、仕事だってあなたのために――」
「バカみたい」

 小さくポツリと零した声は嘲笑を孕んでいた。

「なんですって」

 視線は雑誌に落としたまま、少女は細い指でぺらりとページをめくる。

「邪魔になるなら拾わなければ良かったんだわ。煩わしければ忘れれば良かった。どうでもいいなら放っておけば良かった。疑いようもないくらいはっきりと告げて、振り解いて置き去れば良かったの」

 そんなことはない、と否定する私の言葉に、更に被せるよう、もし、と言う。

「もし、そうでないなら……その逆を、してくれれば良かったのよ」

 悪態をつくときと打って変わって覇気なく、自信なさげに紡がれるそれは、少女の本心からであるように思えた。

「きっと中途半端なことをするよりずっとましだった」

 どこか寂しげな色を滲ませた少女の声が、胸をやわく締め付ける。
 少女の前に跪き表情を伺えば、その瞳はわずかに揺れていた。
 元の姿だって、私よりずっと年下の女の子。唯一の身内を失い、命を狙われ、見知らぬ人間に囲まれ、自由の利かない、慣れない生活を強いられている。普通はこんな状況下でこうも気丈に振る舞えない。もっと取り乱して泣きわめいて当たり散らしたっていいのだ。それなのにこの子は、ただ皮肉げな言葉を吐くだけで、ずっと大人しく過ごしていた。

「ねえ、まだ全部終わったことのように言わなくてもいいのじゃない?」

 握った手は振り払われなかった。温かな、子どもの手。なんでも仕舞い込んで抱えるには小さいわ。





 意識が戻ったとき、少女はいなかった。まさか一人で、と思ったが、居場所を確認しようと出した携帯に、ジョディから、少女を学校まで送って行ったというメールが届いていた。飛んでから優に一日以上経っていたらしい。
 しんとしたリビングを見回してみれば、テーブルの上にちぎったメモ用紙があった。
 “コンロの鍋にシチューがあるわ”
 流れるような筆跡といい文体といい、書いたのはジョディだろう。なんだかんだと彼女が冷凍やインスタントでなく作った料理というのははじめてじゃなかろうか。
 そのまま皿に取ろうとして張った膜がお玉に絡み、温めるだけでいい、という言葉を思い出して火を付けた。かき回しながらいくらか待ち、とろとろとなめらかになったものを改めて移した。

 備え付けだった四人がけのダイニングテーブルに一人で座り、小さな銀のスプーンを掴み、掬い上げて口へと運ぶ。

 一瞬、頭が真っ白になった。


 ――彼女の味だ。


 かちゃんと、いつだかの悪夢のよう高い音を立てて落ち白い海に沈んだスプーンを、うまく動かない指を叱咤しどうにか掴み、引き揚げるようにしてもう一口分を掬い咥えた。
 牛乳とバター、コンソメ、チキン、それから野菜。まろやかに混ざり纏まったやわらかな液体が、とろりと舌を包み込み、確かにじんわり染みて広がった。

 ――明美が作ってくれたものと、同じ味。

 飲み込むのがもったいなかった。ずっと味わっていたかった。しかしそれよりもこみ上げるものがあって、嚥下をするのに強く意識をして、ひどく力を入れなければならなかった。
 温めるだけで食べれるから、そうさも簡単なもののように残されていったあれを、たった数度で食べ尽くしてしまったあれを、惜しみながらもその次を期待していたあれを――もう二度と口には出来ないと望みをなくし、焦がれていたあれを。
 少女が――志保が作ったのだ。

 彩りよく入れられた具材も同じだ。ほのかに香ったスパイスも。
 きっとこれが彼女たちの味だった。彼女たちが共にいた証だった。
 何でもない料理だったはずだ。いくつも作るうちの一つ。
 それでも彼女たちを繋ぐものだった。
 それを、俺が断ち切った。

 視界が滲んでぼやけて、せっかくのそれがちゃんと見えない。

「――」

 ぽたりと、余計なものが中に混じったのは分かった。きっとそれは味に何の影響も齎さないだろう。ただ、ぽたぽたと続いて濁されたくなかったから、掌で目元を覆った。早く次を食べたいのに、なかなか止まらなかった。
 同時に喉が詰まった。呼吸が乱れて、一層狭くなった気道をこじ開け、ただ必要分の気体をやりくりするだけで一杯一杯だった。あけみ。しほ。図々しくも呼びかけたがる舌を制するので一杯一杯だった。

 ぐずりと、重く不快な感覚が胸に湧いて滲み出る。思わず小さく呻きが漏れた。
 ――痛いのだ。
 恥も知らず衝撃を受けて、傷ついてなどいる。悲しいなどと、苦しいなどと、思っている。
 脈打つよりも少し遅く、ずくりずくりと全身を苛む信号を送り出す、その元を強く抑えてみても一向に止まない。がりがりと掻いても紛らわせない。むしろ毟れば毟るほど痛みは増した。記憶にある最も深い外傷よりも更に鮮烈に。内臓を灼くように激しく。
 そんなもの持っていいものじゃない。感じていいものじゃない。俺にはその資格は欠片だってない。必要ない、全部捨てろ、消えろ、なくなれ、そんなものは端からないはずだ、知らないはずだ、わからないはずだ、そう必死に言い聞かせても引いてはくれなかった。今までそうだったはずなのに、取り除いてしまえていたはずなのに、上手く処理できていたはずなのに、どうして今、一番効いてほしい今にダメなんだ。やっぱり俺だからなのか。

 メールなんて無視すれば良かった。家になんて入れなければ良かった。あんな安直な言葉を言わなければ良かった。もっとちゃんと耳を傾けていれば良かった。迂闊なことをしなければ良かった。もっと真剣に考えていれば良かった。あの時手を握って、腕を引いて、あの子ともども連れて帰ってしまえば良かった。いいや、そもそも始めから、あんなことしなければよかった。大丈夫だと高をくくってなぞらなければ。
 ああ、せめて、かわいい、うつくしい、おしい、できれば、そんなことを思わなければ。

 ――ましてや愛しいなんて。

 なによりも、俺でなければよかった。

 ああ、また始まる。彼女たちの言葉が、呼吸が、啜り泣きが。俺の愚かさを思い知らせるよう、耳と頭を占め、縛り、巡る。


 がちゃんと一際大きく音がして、いつの間にだか閉じていた瞼を開ければ、皿は床で形を失い、中身が無残に飛び散っていた。
 破片を拾うことさえうまくできなかった。なんとか力で無理やり握り込むのが精一杯で、拾えば拾うほど、あわい色合いだったうつくしい液体は赤く汚く染まっていった。拭き上げて捨て、新しい皿を出しても割ってしまった。何とか注いだところで、スプーンを握っていられなかった。鍋にはまだいくらも残したまま、もうそれ以上触れることは出来なかった。
 更には一度喉を通ったものだって、結局また戻ってきて、下水に混じっていってしまった。

 友人と遊んだあとジョディに迎えられて帰ってきたという少女も、きっとその鍋を見ただろう。割れた皿を見ただろう、ゴミ箱を見ただろう。
 しかし俺の部屋に怒鳴り込んでくることなどなかった。苦言を呈することも、涙を零すこともなかった。まず一度だって入ってきたことはない。
 少女はただ日常生活動作に伴う音だけを鳴らして、いつものように部屋の扉をかたく閉めるものを最後に気配を薄くした。
 その後に耳慣れない音を出したのはジョディだ。いくらかうろうろとして、随分躊躇してから俺の部屋の扉を叩いた。迷いの多い顔つきで、俺の何かを刺激しない言葉を選んでいるようだった。

「ええと、トーヤ、食事はとった? メモは読んだんでしょ?」
「……ああ、もういい。……すまない」
「…………そう」

 体調を伺う問いをいくつか繰り返してゆっくり休めと言った彼女は、俺の部屋から去ると、キッチンで洗い物をしているようだった。扉越しに水音が響く。
 なくなってしまったのだ。余り物のように、ゴミのように、必要なかったものとして、捨てられ、濯ぎ落とされて、流れていってしまったのだ。
 おそらくもう、今度こそ二度と口にできない。


 翌日またジョディと共に玄関に向かって靴を履いた少女は、それまでと変わらぬ表情と佇まいでいた。
 後を追うようにして出てきた俺のことを気にかける様子もなければ、こちらへ顔を向けようともしない。

「……ありがとう」

 振り絞ってどうにか投げかけた礼に何一つ言葉を返されず、一瞬だけ向けられた視線が冷たさのみであることに心底安堵した。すぐさま歩を進めて扉の向こうへ姿を消したのにも。

 そうでなくては、汚してしまいそうだったから。
 この薄汚い腕で、抱きすくめてしまいそうだったから。

 浅ましくも――雨に濡れ冷え切って尚じわりと生を訴えた、その温かさを求めて。




リクエスト - 宮野姉妹の手料理の味だけ分かる話 / みどりさま
ありがとうございます



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