その身を巡る緋に訊け

 痛みも忘れるほどの歓喜と希望を胸に、逸る気持ちを抑えきれずに走って駆け寄り、勢い良く開けた扉の先。
 立ち込めていたのはいつもの出汁や洗剤の匂いでも、甘いタバコの匂いでもなかった。

 ――そいつは、床に転がっていた。
 薄気味悪い暗がりの中、独特な香りを放つ液体に塗れ、あの耳障りな呼吸すらせずに。


「――安室さん、大丈夫ですか?」

 己を呼ぶ、柔らかな女性の声ではっとする。
 可愛らしい先輩ウエイトレスは、心配そうにこちらの顔色を伺っていた。
 指さされた手元を見れば、コーヒーが溢れてワークトップに広がっている。まるであの液体のように。漂うのは豆の香ばしい香りだ。
 それらを認識した途端心臓がどくどくと忙しなく跳ねはじめ、全身からぶわりと汗が吹き出すのを感じた。
 あれこそが白昼夢だったのか、という気楽な思考は持てなかった。
 それから間もなくして、来客を告げる音とともに扉が開き、あの男が姿を見せたのだ。また。





 ――何度やったって駄目だった。

 飼い主に任せてみても、その親や隣家の少女に預けてみても、公安で保護しても、アメリカに帰しても。
 逃げ延びた艶やかな女が、取り逃した冷酷な男が、復讐に駆られた狙撃手が、ときには公安やFBIに入り込んでいたスパイが、あいつに向かって引き金を引き、その身に弾丸を埋め込むのだ。何度も何度も。
 あいつはそれをおとなしく受け入れる。守る者がいればその場は凌いでも、いずれ未練なく瞼を閉じる。守られる立場なんて解っちゃいない。引き換えにするのが己が身一つであれば、簡単にそれを明け渡してしまう。どれだけ言い含めても足掻いちゃくれない。

 それは僕がどうあったって変わらなかった。
 和やかに友人として接してみても、優しく家族のように振る舞ってみても、甘く恋人のように抱擁してみても、嫌悪を顕に敵の顔をしてみせても、いっそ何も知らぬ他人として縁を断っても、どの僕だってあいつの生への指標になれない。
 どうやったってその死を見届け、あるいは知ってしまう。
 そして次の瞬間、“ポアロの安室透”になるのだ。


 死は鶏の腐肉にも似た匂いを醸す。
 あいつの匂いは、それと鉄錆と、苦い煙草。
 繰り返せば繰り返すほど、それは濃く深く染み込んだ。連鎖的に自身が散々撒き散らした吐物のにおいも蘇り、混ぜ練り込まれた醜悪な香りは舌まで痺れさせ、あれだけ得意だった料理も、もはや記憶を頼りにしかできなくなっていた。

 僕を嘲笑う声がする。
 残念だったわね、バーボン。遅かったじゃねえか、バーボン。地獄へ落ちろ。しぶとい野郎だ。見てみろこれが。すみません降谷さん。悪いなフルヤ。あっけないもんだ。さしたる脅威でもなかった。鬱陶しい。余計なことを。聞いてレイ、彼が。あの人が。どうしてなの。うそだ。何であんなことを。愚かな男。ひでえ男だ。目覚めが恐ろしいの。ざまあない。エンジェルがいるのよ。バーボン。降谷くん。安室さん。もう充分だ。その頭蓋を大事に。無様に羽ばたく羽虫は。大丈夫だったか。悩みなんて程度の差はあれど。抗えない不条理や理不尽はいくらでも。ろくなもんじゃない。ありがとう。一体何の用だ。食欲がありませんか。おかえりなさい。安室さん。降谷くん。バーボン。ぷつぷつ、ひゅうひゅう、ごろごろ、げほげほ。一秒たりと休ませてくれない。
 四六時中付き纏って脳を這いずり、不甲斐ないおれをせせら笑う。 


 押し倒して馬乗りになり胸ぐらを掴んでもされるがまま。
 それだけ好きにさせているくせに。
 口内を犯されようが服を剥がれようが、何処を触られようが何をされようが拒みもしない。
 そうまで許すくせに。

 どうして手を離した途端に消える。
 どうしてすぐすり抜けていく。
 どうして掴み返してくれない。
 どうして僕の元にいてくれない。
 どうして僕の、おれのものにならないんだ。

「どうして僕の努力を踏み躙るんだ、どうして僕のなす事を無駄にするんだ、どうして僕の邪魔をする、何でも、全部、いつも、いつもいつもいつも。お願いだ、安寧をくれ。平穏をくれ。楽にしてくれ。思い通りにさせてくれ。幸せにさせてくれよ。――苦しい。おれはお前のせいで苦しい……」

 思い切り泣きついたのは初めての試みだった。
 もしかしたらこいつも、そこまでやれば絆されてはくれないかと。その運命の輪を抜け出るほど、僕に傾いてはくれないかと。
 悲しげに、痛ましげに、まるきり同情のようにして僕を見る、あるいは愛情なのではと錯覚するほど、今までで一番人間らしいその顔を見ればますます期待は膨らんだ。
 なのに。

「……すまない」

 ばん、と。

 今回はとびきり近くで鳴って、とびきり生々しさを残した。

 いつの間にか取られていたのだ。いつの間にか安全装置を外していた。それにも気付かなかった。聞こえなかったから。こいつの目しか見えなかったから。
 だらだらと頭から血を流す、自分にもあっさりと引き金を引いた、最期まで逸らさなかった、こいつの目しか。
 みどりの、光を失った、これから濁っていく、これから炎に包まれる、その目しか。


 ――ああ、また僕はあいつを迎え入れないといけない。

 いらっしゃいと言って、カルボナーラを作って、コーヒーを淹れて――笑ってやらないといけないのか。


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