凍露

「シェリー、これが私のコードネームよ……どう? 驚いた? ――工藤新一君」

 少年探偵団の子供たちと一緒に追い逮捕へと導いたニセ札事件のあとの帰り道。
 転校生の少女が怪しげな笑みでそう言い放った直後、通りがかった黒いSUV車がオレ達の直ぐそばで停まり、運転席から男が降りてきた。

「……こんなところにいたのか」

 少女はさっと表情を無くし、黙って顔を俯けた。男に促されて、返事もなしに助手席へ回って乗り込む。それを確認すると、男はこちらを見やりもせず運転席へと戻った。
 酒の名前。全身黒ずくめの、ニット帽の男。まさか本当に、組織の人間たちなのか。

 慌ててその車のバックパネルに発信機を取り付け、後を追って探り当てた場所は、米花にある高層マンションだった。学校で少女が子どもたちに告げていた住所は本当だったらしい。
 住人と一緒にエントランスを潜り、少女が歩美たちに言っていた二十一階の四号室へと向かい、扉の前でここからどうしたものかと悩む。マヌケなことに、チャイムを押そうにも鍵をこじ開けようにも、そもそもドアノブにさえ、オレの手は届かなかった。
 いや、もちろんできれば何かしら対策を整えてから来たかったが、その間もずっとここにいるとも限らなかったし――なんて自分に言い訳をしていると、玄関が急に開いて襟首を掴まれ、中に引きずり込まれてしまった。

「――!? なっ」

 すぐさま眼前に突きつけられたのは銃口だ。精巧な造りと鈍い煌めきは玩具には見えない。
 それを握るのはさっきのニット帽の男で、厳しい顔つきでオレを睨みつけていた。

「後を尾けてきたか」

 その通りだ。けれど気圧されて言葉が出ない。

「あの子に何の用だ」
「いや……あの……」

 対抗できそうなものといえば麻酔銃くらいだと、そろそろ背後に回した腕は男に目ざとく見咎められ、襟首を掴んでいた手がパッと離れて体が床に落ちて、両腕をひとまとめに掴み抑えつけられてしまった。後頭部に硬いものが当たる。
 ――やべえ。
 ぎちりと縛り付ける手は、それなりに加減をしているようでもあるが、かなり痛い。
 続いて問い詰める言葉を紡ぐためか男が静かに息を吸い込む。
 その音をかき消すように、少女の声が響いた。

「やめて」

 ぱたぱたと小さな足音が近づいてきた。何とか顔を動かしてそちらを見やれば、学校やあの新聞社で浮かべていたものとは違う固い表情で、男へ視線を飛ばす“灰原”。

「これは」
「小学校のクラスメイトよ」
「あの一瞬で車に発信機を付けるような子どもがか」
「落ち着き無くて好奇心旺盛なの」
「……違うんだな?」
「聞いたことないでしょ? “ライ”も」

 ライ。ライ麦を原料とした、アメリカ発祥のウイスキーの名前だ。やっぱりこいつも。

「……」

 男の手と、突きつけられていた銃がすっと離れた。急いで起き上がって距離を取る。運が悪いことに、玄関は男が立ち塞いでいて、灰原の方に近寄るしかない。オレの動きを、男は一分の隙なく観察していた。

「私が教えたのよ。私が“シェリー”だって」
「なぜそんな真似を」
「彼も私と同じだから」
「同じ?」
「APTX4869で幼児化してる」

 灰原は淡々と「この子、高校生探偵の工藤新一君なのよ」と、とんでもないことをさらりと暴露しやがった。
 ――知られてしまった、組織の男に。終わった、もうダメだ。
 いよいよ覚悟もしたが、男はあっさりと「そうか」とだけ相づちを打ち、想像とは裏腹に引き金に指をかけることもなく、むしろ銃を懐に仕舞った。
 オレに話がしたいのだという灰原の言葉に頷き、灰原がオレをリビングに呼ぶのも止めず、ソファに座ったオレたちをよそに、リビングの隅で両手をポケットへ突っ込んで壁に寄りかかった。こちらを伺う様子はあるが、視線は向けてこない。
 それから灰原は、薬を飲んだ者のリストの中にオレがいたこと、死亡が確認されていなかったこと、そのため調査をしにオレの家に行ったこと、二度目に訪れた際に子供服がなくなっていたこと、死なずに幼児化したマウスと同じ結果が出たと仮定したこと、オレのデータを死亡確認に書き換えたことを語った。

「まあ、データを書き換えたのが組織を裏切った私だとわかれば、再び疑い始めるかもしれないけど……」
「う、裏切っただと!?」

 試作段階を勝手に人体へ投与されたことへ嫌気がさした、と言って、灰原は一度目だけで男を見遣った。

「最も大きな理由は私の姉――」

 それから浮かべたのはひどく歪んだ笑み。

「――そいつが殺したの」

 男は黙ったまま、先程と変わらない様子で、ただじっと立っていた。





 嘘つきだというのも、裏切り者だというのも事実だ。彼女を撃ったのも。
 謝罪は何にもなりはしない。俺の心情なんて関係ない。そんなもの並べ立てたところで、ただ事実を濁らせるだけだ。
 迂闊にも一度漏らしてしまった際には、少女は言葉をなくしひどく傷ついた表情を見せた。あれが脳裏に焼き付いて離れない。
 俺がこうべを垂れてしまえば、少女はもうその身に燻る激情をどこにも向けられなくなってしまうのだ。どころか、自らに向けるしかなくなる。
 俺にできることはただ、事実を認め、余計な口を叩かず、当然の謗りを受けることだけだ。


 少女が姉に送ってしまったというROMは見つけられなかった。少女を追ってきた少年が足掛かりになり南洋大学の教授を尋ねてみたものの、教授は既に何者かに殺された後だったのである。世間的にはそうであったが、自宅に残された留守電から察するに、ウォッカ、ないしあいつらが指示を下した人間がやったのだろう。
 薬の情報が得られなかったことに強く落胆したのは、どちらかといえば少年の方だ。高校生探偵だったという元の姿に戻りたいらしい。少女はそれに関して消極的だが、口では散々窘め無理だと叱りながらも、少年の意見を尊重したいようで、少年が帰った後、彼に危険が及ばないよう注意を払い助力しろとまで言ってきた。
 それが少女の望みだというのなら構わない。それにこちらの認知外で変にかき回されて少女が被害を蒙っては困る。細かいことについては後日話し合うこととなった。

 深夜、リビングで捜査資料を読んでいると、少女の部屋の方からカタリと小さな音がした。
 ――またか。
 目が覚めたか、眠れずにいたか。組織の存在を近くに感じたからかもしれない。あるいは理解を期待した少年からの非難のせいか。
 小学校に行き始めて多少減りはしたが、相変わらず追っ手に怯え、悪夢に魘され、飛び起きて自嘲し――こうして、喪失に啜り泣いているのだ。扉越しに小さく、押し殺し切れぬ嗚咽が聴こえる。

  ――おねえちゃん。

 幼い声が耳を打つ。

  ――あのこをおねがい。

 かすかな願いが、頭を渦巻く。

 ひくりとしゃくり上げる声、ひゅうひゅうと苦しげな吐息、ずっと鼻をすする音、ごろごろと湿気と粘り気を含んで絡む音。一度始まれば止まらない。纏わりついて離れない。日に日に強く刻み込まれてゆく。頭がずしりと重くなる。肩も、体も。唾液を飲むのが難しく、それだけの動作で嘔気も湧く。赤い手は震えてページを捲れなかった。

 彼女が囁く。あの子の肩に手を添えるよう、伏して俺の足首を掴むよう、おねがい、おねがい。

 わかってる、わかってる。
 ――でもどうすればいいんだ。


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