09

 帰宅を告げる連絡もなく、いつもは玄関から飛ばしてくる挨拶もなく、唐突に鳴った扉の開閉音も、その後の足音も慌ただしかった。
 なんだなんだと立ち上がって音のした方を見た瞬間。
 脱いだ靴も揃えずまっすぐ向かってきたらしい安室透は、急ぎ足の勢いのまま俺に体当たりしてきた。
 ――抱きついてきた、というのが正しいのだろうか。

「ほらね」

 正面から、まるで両腕も胴体に纏めて縛り付けるように腕を回し、がしりと背中で手を組んで、俺の肩にぐっと額を当て、安室透はくぐもった声でそう言った。ふわりと微かな匂いが香る。

「……あの、何が」
「終わったんです。あなたはもう沖矢昴をやめてもいい。ここを出てもいい」

 声には疲労が濃く乗っていた。そうだろう、安室透が最後にここを出ていったのは四日前だ。流石に寝てもいないなんてことはないと信じたいが、少なくともゆっくりとしていられる時間はなかったに違いない。

「でも――でももし、やめたり出ていくのはめんどうで、あるいは嫌で、あるいはまだここにいたっていいと――万が一、ここにいたいと思うなら、それは全然構いません。もっと広い家や、便利な設備が欲しいとか、別の場所が気になるというなら、引っ越したっていい」

 それはあたかも、居て欲しいとでも言うようだ。

「これまでで充分、わかってると思ってたんですけど――なんて、他人任せで甘ったれた言い方はするべきじゃありませんね」

 安室透はゆっくりと顔を上げた。いつになく真剣な眼差しで、射殺すように俺の瞳を見据える。腕には更に力が入ったようだった。胸が圧迫される感覚がある。

「僕はあなたのこと憎からず思ってます。わかりますか? 好きって意味ですよ」

 目をそらさず、瞬きもしないまま言い聞かせるように告げられて、思わず頷いた。

 ――“好き”。

 安室透が、俺を。

「感情に理由付けするのはナンセンスですけど、知りたいと言うなら考えますよ。理屈で整理したい気持ちは分かりますから。僕も正直そんなものは頭が足りないか自制の効かない人間の言い訳だと思っていたくらいです。これでもそれなりに悩みもしました、仕事と同じくらい。その上で言うんです。男だとか、無粋で口下手だとか、手がかかろうが厄介だろうが、そういうのは情の増減に関わりないんだ、僕の場合はね。一つ大きな転機はありますけど、それは長くなるので割愛して――」

 この彼にしてみれば随分珍しく、素直で素朴な声色だ。

「――あなたは? 何かと口や手を出し煩くて、何かにつけて自分より有能で、そんな風に傲った態度と口ぶりで、やること為すこと身勝手な男は、情をかけ、もしくは持つのには値しませんか? 強いて言えば? 僅かながらも好ましさはある?」
「……ポジティブなのかネガティブなのか、どっちなんだ」
「どっちも。それが人間ってものでしょう」

 腕の拘束が緩み、安室透の腕が背を遡るよう項へ向かい、くしゃりくしゃりと髪を混ぜ、それから頭のかたちを、顎の骨を、耳をなぞる。短く切られた爪が、軟骨の縁を軽く引っ掻いた。

「ねえ、これからあなたはどう生きたいですか? どういう人間として生きたい? どこを生きる場所にしたい?」

 小首を傾げて聞く間にも、指はゆったりと俺の顔を撫ぜる。眼差しは柔らかく解れ、告げる言葉の真実性を示し裏打つ。

「僕としては、つたなくても家の細かなことをこなしてくれて、帰りを待っていてくれる存在は貴重だ。それからおすすめは日本で暮らすことですけどね。アメリカなんかよりずっと治安が良いし、ご飯は美味しいし、なにより僕がいます。――でもそれだって、あなたにとって取るに足らないのであれば、考慮する必要はありません」

 近くでまじまじ見てみれば、それなりに長い睫毛も色素が薄い。それに囲われた青色は不思議な輝きをしていて目を逸らせなくなる。はたと、脳裏で何かが開いたのを感じた。

「何であれ、僕はあなたを肯定したい」

 俺はこいつを――

 得体の知れない既視感に襲われかけ――しかしその意識を根こそぎ持っていくかのように、安室透は急に膝から崩れ落ちた。
 なんとか脇下に手を差し込み支えはしたが、力が入らない様子で体はぐにゃぐにゃで、床につき横たわるまでの緩衝材程度にしかなれなかった。
 ――間違いない、やはり香ったのは血と硝煙の匂いだ。
 黒いシャツを着ていたもんで気づかなかったが、触れてみれば濡れていた。捲り上げ晒された腹部には銃創。こいつ病院にも行かず帰ってきたのである。恐らくこれを言うために。

 メディックメディックと反射的に電話を掛けたのはまた同じ番号だった。
 遅い時間だと言うのに、助けてくれと頼み込んだら、聖トモアキは飛んで駆けつけ、事情を濁しても構わず医院に運び込み治療をしてくれた。さすが聖人。一生拝む。

 そのさなか、安室透は一度薄っすらと目を開け、小さな声で吐き捨てた。

「――ざまあみろ、赤井秀一」


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