おいで |
「本当にこんなのでいいの?」 何度めか分からない。同じ場所をまた吸ってきた。 その度に鮮やかだった唇が、本来の、薄い粘膜のレイヤーだけをかけた血管の色へと変わっていく。 「女物だよ、これ。それに売ったって大したお金にならないし。もっと素敵なの買ってあげるのに」 「いいや、それがいいんだ。貴女の時間が欲しいから」 女の顔は目に見えて喜色に染まる。腕の中で、まるで照れを隠すようにちいさく身じろぎをして、愛らしい笑みを浮かべた。 手首のそれを勿体ぶるような手付きで外し、一度口付けて、俺のジャケットの胸ポケットへと滑り込ませてくる。 「ホンモノの“時間”じゃなくて、ごめんね」 「仕方ないさ。甚だ惜しいが、美しい花を無理に摘みむざむざ枯らす愚かな真似は出来ない」 ふふ、と、女は満更でもなさそうに、むしろ当たり前とでも言うように笑い、それからまたちゅうと、先ほどと同じところにも口付けてきた。数秒そうして、肌蹴ていた俺のシャツのボタンを、一つ一つ丁寧に詰めていく。 「じゃあ、私にはこれをちょうだい」 首に掛かっていたネクタイをシュッと取り去って掲げてみせる女に、一瞬だけ考えて頷いた。女はまた頬を緩ませる。 まあいいだろう。近頃は布からも指紋採取できる技術もあるらしいが、一般的な捜査ではそこまでやらない。万が一そういう事態へ発展する場合には追加の命令が来るはずだ。 おねだりするよう突き出された血の色を一度啄んで、腕を解き、女から離れる。 「またね、諸星さん」 「ああ」 手を振る女に背を向け、その部屋を後にした。 抱きしめ撫でた女の体は、柔らかくはあったが、温かみは感じられなかった。 豊かな乳房、所謂おっぱいを押し付けてきて、果ては直に触らせてくれたのは大変嬉しかったけども。 エレベーターに乗って地下まで降り、駐車場で銀のフェアレディを探す。目立つ美人が寄りかかっていたのですぐ分かった。 「効いたでしょう? 彼女、ちょっとクサいのが好きなのよ」 近寄るとそう言って手を差し出してきたので、ポケットの中のものを摘み上げて落としてやった。 真新しい女物の時計。それ自体は五十万程度の代物だが、中にお目当てのチップが仕込まれているらしい。 どこかのおばかさんが女に貢いだせいで本来の受取人のもとへ辿り着けなかったのだという。せっかくあげたプレゼントもこんなに簡単に手放されちゃうんじゃあちょっとばかり哀れだな。 ともかく、貢がれたあの彼女はちょうど、目の前の美女のいくつかある姿のひとつである女優と友人関係であったとかで、穏便にご返却頂こうということになったのである。 「お利口だし、なかなか芸達者じゃない。飾れば見栄えも悪くはないわ。どうかしら、うちの子になる?」 美女ベルモットはそんなことを言いながら、正面から両腕を俺の肩に乗せてくる。 頭の後ろ、絡めて弄ぶ髪を襟足で結んだのは彼女だ。このスーツや革靴や香水を用意したのも。 「あら、あげちゃったの?」 「欲しいと言われた」 「もしかして好みだった?」 「断りがわからなかった」 「それも教えておけばよかったわね」 ネクタイを買ったのももちろんベルモットだった。それなりに良い物だったのだろうか。怒られなかったからまあいいか。 艶やかな笑みも、煌めく虹彩も、流れるような髪も、その肢体も、旋毛から爪先の全て、彼女のほうがより美しい。ぐっと身と顔を寄せられ、嬉しくないわけではないが、それよりも彼女の背後、駐車場の柱の影にある気配が気になってたまらなかった。 単なる好奇心の可能性もあるにしろ、見られているのには変わりない。 「なあに?」 ベルモットが首をかしげる。 「子ども」 恐らく男と女の子ども。小学生になるかならないかといったところだろうか。気配もそうだし、内緒話が下手くそさんなのか、こそこそと話しているつもりの声の片方が耳に届いてきたのである。今も「やべえ」とかなんとか言っている。 「――構わないわ。放っておいて」 「……」 単なるおませさんでもなさそうだとグローブボックスのものを取るため動きかけたが、抱きついてくる体に阻まれた。ベルモットはすっと目を細めて、俺の髪を結び目から毛先までするりと梳く。 「命令は何だった?」 「“あの女の言う事を聞け”」 「帰りましょ、ワンちゃん」 「わかった」 意外と子どもには優しいのかね。女性だし、幼い彼らに思うところがあるのかもしれない。 帰り際、何やら事件があったのだと引き止めてくる警備員を、ベルモットがお得意の演技と話術で軽やかに躱し丸め込み、難なく道を拓いた。 ベルモットを送り届けてから戻ったのは、ホテルではない、ジンの塒のひとつだ。 ここが家というわけでもなければ、そう頻繁にも来ないし、長く留まることもないので、ホテルと違うのは私物をいくらか置いているという程度である。 ある意味ノマドワーカーで転勤族なジンさんには帰りたいと言えるほどの待っていてくれるあったかい我が家がないのだ。おかげで犬を飼えない悲しみを俺にぶつける始末。 戻ってきた俺を見て、ジンはおかえりもなくお風呂にするかご飯にするかも聞いてくれず、立ち上がって近寄ると、俺のシャツの首元をばっと広げた。まさかのそれともアタシ。ちゃんとボタンを外さないからぶちりと嫌な音がした。買ってもらったその日にネクタイもシャツもダメにするとは小町に書かれて炎上しそうな事案だ。 ち、と舌打ち。 ――したかと思えば、ジンは持っていたタバコを押し付けてきた。 鎖骨の下辺り、時計を貢がれた彼女が執拗に吸い付いていた部分だ。 「風呂」 俺に吸い殻を握らせ、途端興味を失ったように踵を返して言う。入るから入れろってね。 灰皿したいならわざわざこんなところじゃなくていいだろうに、相変わらずの気分屋さんだ。 風呂からあがり、ジンの髪にドライヤーをかけてやった。それが終われば、今度はジンが俺の髪を乾かしてくれる。 三十分近くかかるし面倒がりそうなもんなのに、若干雑ながらもこれは必ずやるのだ。やっぱり長毛種が好きなんだろう。 「Come」 寝支度を整えベッドに乗ったジンが、小さく布団を開けてくる。今日は床でなく上で寝ろということらしい。 機嫌がいい時なのか悪い時なのかは定かじゃないものの、ちょくちょくこういうことがある。寒がりなのか、寂しがりなのか、犬恋しさを拗らせているのか。そもそも寝ないから別に必要ないというのはそっと心の中に仕舞っておいて、隙間に潜り込んだ。 ジンも寝転がるかと思いきや、仰向けになるよう俺の肩を押して、太もも辺りで跨り、顔の両わきに手を付いてきた。 長い銀髪が重力に従って垂れ下がり暖簾みたいになっている。大将やってる? なんてやりたい気持ちもちょっぴり湧く。やったらめちゃくちゃ怒りそうだ。 「……」 ジンはしばらくじっと目を見つめた後、肘をつき、俺の首筋へ顔を埋めてきて、がり、と噛んだ。 えらく強く噛んで血が出たらしく、それを舐める、ざらりとした舌の感触もした。 不意にぴりっと鳴った枕元の携帯を、ジンはほとんど体勢を変えずに掴んで、そのまま通話に応じた。髪の毛で首元がわしゃわしゃする。 漏れ聞こえる声からして、相手はベルモットのようだ。向こうはなんだかつらつら喋っているが、ジンの返事はどれも短い。報告か世間話の類だろうか。 「――犬には向かねえ仕事だ。次から他に回せ。でなければもう貸さねえ」 くすくすと楽しげな笑みが響く。何気によく会うし仲良しさんだよな。 手持ち無沙汰で銀髪を弄っていたら、うざったかったのかがりっともう一発噛まれた。 |
リクエスト - ジンの猟犬ルート続き / サウザー@十字陵さま、べるさま ありがとうございます |