Lattice

「うわっ」

 初日、玄関でじっと座っていた。

「うわ……」

 次の日、今度は廊下でじっと膝を抱えていた。

「わあ……」

 そのまた次の日、今度はリビングでじっと正座していた。

 今の彼はそうだ。ちいさな呼吸と瞬きがなければ、等身大の人形なのではと錯覚するほどピクリともしないのである。
 まあそれでも手を引けばすんなりと立ち上がってついてくるし、指示すれば大抵身の回りのことは自分で出来る。用意して言い付ければ食事も服薬もちゃんとする。
 連れてきてはじめの三日休みを取って様子をみた分と、それからこうして数日試した限り、大人しく留守番しているくらいは可能だろうと思ったのだが。

 さらに数日後のある日、家に帰り着くと屋内はなにやら乱れ雑然とし、キッチン、廊下、バスルームとあちこち血だらけで、滴った跡を辿れば彼がベランダで身を乗り出している真っ最中だった。
 さすがに肝が冷えた。
 彼の体には切り傷だけでなく火傷や痣が多数あって、よくもまあ半日でそう満身創痍になれると呆れてしまうほどだった。近所の人間に目撃されれば明らかに暴力的行為を受けた被害者と思われることだろう。加害者も彼であるのに。
 二度とやるなと盛大に怒鳴ってやったが、効いたようにはみえず、その日はそれらの要因の排除と隔離に費やした。包丁や風呂の栓なんかは毎日使うが、あの真っ赤に染まった浴槽や貧血で倒れ込んだ姿を思い起こせば、セキュリティボックスに仕舞う程度手間のうちにも入らない。床の血液が一部なかなか落ちなくて、拭き磨きながら証拠隠滅を図る殺人犯の気持ちになった切なさもちょっぴりある。
 それから各部屋にカメラを設置して、映像を端末へ送信しリアルタイムで確認できるようにしたが、あの一件はそれほど頻度の高いものではなかったらしく、液晶の向こうの彼は毎日ほとんど全くと言っていいほど微動だにしなかった。
 僕を見送ったあとそのまま玄関に座り込むか、少しだけ移動して固まり、昼食と最低限のトイレ以外、僕が帰るまでずっとそのままなのだ。

 アニマルセラピーというものもある。ある時、引き取り手を探している知人からそうプッシュされ、何か効果があるかもしれないと子猫を貰い受けた。
 見せてもノーリアクションではあったが、嫌いでもないのか、しばしば彼はじゃれつく子猫の相手をするようになった。腕だけの簡素でぞんざいな動きではあれど、まるでオブジェのような有様より遥かにましだろう。
 しかし動物とは難儀なもので、人間が良かれと思ってやることはさっぱり通じない。
 ワクチン接種や避妊、その他検診や診察で病院へ連れて行き、洗身に爪切り、躾、いたずらの叱りつけなんかをやっていたらすっかり嫌われてしまった。
 子猫は僕を見ては遠ざかり、干渉せず構われたい時だけ遊んでくれる彼に擦り寄ってばかりだ。なんだか釈然としない。
 逆に彼は、近頃僕に寄ってくるようになった。
 以前は見向きもしなかったのに、僕が彼に話しかけず何かをしているとその様子を眺めているし、帰宅すれば立ち上がって僕の方へ歩いてくるし、僕がソファに座れば呼ばずとも隣に座るようになった。パターンを覚えたのか、手を引いて誘導するときも自然とついてきていて、引っ張る感覚は軽くなった。
 抱きしめれば、同じ分だけ返ってくるようになった。


「気に入りました?」
「……」

 朝食と歯磨きを終え、洗濯物を干して戻ると、ソファに座る彼は、昨日あげたネックレスのトップを指先でつまみ、じっと見つめていた。
 普段新一君が何を話しかけようと全く反応しない彼が、その胸にあった同様のネックレスを珍しく注視して触ったのだという。
 一体何が彼の興味を引いたのかは分からないが、確かに気にはしているようだ。わずかに手首を動かしては、その光の反射するさまを追っているようである。彫った文字を認識しているのかは定かじゃない。まあ、期待はしてなかった。
 彼は僕が隣に座ってもその調子だった。

「今日は天気がいいですよ。散歩かドライブでもしましょうか」

 ちらりと目線のみでこちらを見てくる。行きたいというわけでもないだろうが、嫌がっているわけでもあるまい。

「ドライブかな、ちょっと寒いし」

 クローゼットまで手を引いて、コートとマフラーをつけてやる。もうすぐ春服が必要になるか。体格や顔つきが違うから服を選ぶのもそれなりに面白い。
 念のため全く使っている形跡の見えないスマホをポケットに入れてやる。おそらく彼の指紋はアラームを止めるボタン部分にしかついていない。一応データ通信も出来るプランで契約しているのだが、1KBも減らず溜まっていく一方だ。
 玄関に向かい、靴を履いて待つように言って、その間に戸締まりをする。また戻ると、なあ、と鳴き声がして、軽い足音とともに子猫が駆けてきた。

「こら、お前は留守番だよ」

 僕の横をすり抜けた子猫は、棒立ちする彼の足になあなあと忙しく纏わりつき、ボトムの裾をひっかく。
 いつも僕が出かけるときは姿も見せないくせに、一匹で残されるのが嫌なのか、彼を攫われると思ったのか。一丁前に彼を庇護対象と見做しているのかもしれない。
 ひとまず先に彼を外に出し、一緒に飛び出てきた子猫を廊下へ放って扉を閉めた。また嫌われただろうな。


「――最近のはすごいですね、何から何まで凝ってて。でもあれに何百万もかけるんならその金でいい家具や車でも買った方がマシだと思うんですよね。僕実はそういうのに興味ないんです。かけた時間や労力に見合うだけのリターンが得られないし、むしろ余計な揉め事の火種になったりするでしょう。無駄じゃないですか。もちろん言いませんけど」

 走り始めてからずっと、彼は流れる景色は気にも留めず、レバーを操作する僕の手元を眺めていた。
 返事は一切ないし、多分全く聞いてもいないだろうが、僕もそのつもりだから問題ない。年を取ると見栄も建前もなく話せる場というのはなくなる。内容を選ばずのちの心配もせずに喋れるのはいい。
 首都高を幾らか下って、トイレ休憩にパーキングエリアで停まった。

「タバコ吸います?」

 僕といる時であれば吸っていいと言ってはいるものの、彼が自分から吸いたがったことは一度もない。
 ゴミは出るし体に悪いし、匂いや汚れが移るし、僕は好きでもなんでもない。やらないに越したことはないけれど――彼からその匂いが消えてしまうのはどこか落ち着かない、そう思う自分がいる。
 ドアポケットに入れていた小さな箱とライターを取り出して膝に乗せ、一本口に咥えて火を付け、それを摘んで吸口を口につけてやれば、彼は小さく吸って吐いた。それだけだ。手を動かそうともしない。あれだけバカみたいに吸ってたくせに。
 取り上げてもう一度だけ吸い、すぐ灰皿に擦り付けた。苦い。

 コンビニで適当におにぎりやお茶なんかを買って食べ、彼に薬を飲ませ、またしばらく喋り倒しながら運転して、そのまま家に帰った。きっと小学生より早い帰宅時間だろう。それでも待ちわびたようにして、子猫は彼に飛びかかった。勢い余って爪が引っかかり、彼の手の甲から少し血が出た。
 叱ると不満げに威嚇してきた子猫の視線を受けながらも、ひとまず彼を着替えさせて、手を洗わせて消毒をする。元々傷跡だらけの彼の手は、子猫のお陰で細かい傷がかなり増えていた。それについて叱るのも疎まれる要因か。どちらにしろ金を出し世話をしているのは僕なのに、まったく。
 なおも遊び相手をしだす彼を視界に入れつつ、家事や仕事を一通り済ませていれば、あっという間に時間が過ぎた。
 夕食を作って食べ、薬を飲ませ、歯磨きをさせ、風呂を沸かす。二人分の着替えとタオルを用意して、沸き上がりを知らせる音楽が流れたところで、彼を脱衣所に連れていく。

「脱いで」

 片手でもだもだとやりはじめた彼の横で、僕もさっさと服を脱ぐ。
 彼は大抵のことは指示すればやるが、風呂になるとなぜか、カラスの行水ほどの早さで済ませてしまったり、逆に延々と浴び続けたりするし、温度も頓着せず、肌を真っ赤に、あるいは唇を真っ青にして出てきたりするのだ。言っても湯船に浸からない。それに片手では洗い残しも出る。なので、こればっかりはと一緒に入ることにしている。
 とりあえず出来る範囲は自分でさせて、不十分なところをやってやる。見えないから届かないからと雑にやるうしろは全部僕が。泡立てて擦って流して、なんだか芋洗いみたいだ。
 背中にも傷痕が散らばっている。僕が手当をしたものや、そのときから既にあったもの、見たことがない切り傷や銃痕も。一体どんな状況でついたんだか。ジンにやられたという火傷痕はそれだけじゃなく全身にある。
 それらを何とはなしになぞっていると、彼がかすかにもぞりと身じろぐ。

「くすぐったかったですか?」

 相変わらず返事はない。ひとまずもう一度お湯を掛けて、湯船に浸かるよう手を引く。彼もその時だけは若干渋々といった風に動くのが、少し面白くもあった。
 ざばりと溢れはしたものの、浴槽は二人で入ったって狭苦しいというほどでもない。もともと僕は湯に浸かるのが好きな方だ。それで広めなのを選んだのが幸いした。だが彼はどうにも早く出たそうである。触れる水も自分にも温かみがないと気味の悪い感覚なのかもしれない。
 彼が立ち上がるのを合図に、僕も腰を上げて栓を抜く。ちょっともったいない。

 風呂上がり、昨日とは違うコメディ風味のドラマを流してみたが、彼はぴくりとも笑わずぼんやり眺めるだけだった。
 本もゲームも、本人の手がいるような娯楽は持たせたって一ミリも動かないから、視界に入れるだけのDVD鑑賞をやっているが、どうもイマイチのようだ。しまいにはまたネックレスのトップを見つめはじめた。まあ、僕は楽しいからいいか。
 観終われば他にやることもないからさっさと寝ることにした。晩酌しようにも、彼は薬があるから酒を飲むのはよろしくないし、そもそも今は飲みたがることもない。以前は飲み過ぎなほどだったというのに。

 眠前の薬を飲ませて寝室まで連れ、布団を開けてやればするりと潜り込んできた。その体を軽く抱く。近頃は魘されたり暴れたりすることは減ったが、そうしていれば彼に異変があれば気づくから。
 やっぱり動かないで相応の食事しか摂らないせいか、筋肉が落ちたし体も細くなっている。一緒に筋トレでもしたほうがいいんだろうか。

「おやすみなさい、十夜」

 それは彼の同僚と、掛かっていた医者から聞いた、彼が名乗ったという名だ。
 “よくない”眠りのとき、ライ、赤井、沖矢、どれで声をかけてもひどくなるが、十夜と呼べば驚くほど静かになり縋ってくる。起きているときに呼びかけたってさしたる反応は見られないから、夜の間だけの魔法の呪文だ。
 実際のところその名が何なのか、彼は誰にも語らなかったようだから、一体それが“誰”であるのかは謎のまま。

 横になれば自然と瞼が落ちてくる。彼と違って動き回り、あの子猫と違って昼寝もしていないんだから当然だ。
 しかし目を閉じるときはいつも少し緊張する。
 僕が寝入った素振りを見せると、彼は僕の髪をいじったり、頬に触れたりすることがある。そして、まれに、

「…………ふるや、れい」

 こうして、僕の名を呼んだりもするのだ。



 自分でもどうしてこんなことをしているのか、というのは、明確には分からない。
 少なくとも身投げし手首を切った姿には衝撃を受けたが、それが契機かというと違う気がする。
 ――ただ、同僚も上司も家族もことごとく拒絶し追い出した彼が、僕にだけはそれをしなかった。
 仕事が忙しくてなかなか行けなかったから、単にもはや拒む気力をなくした頃合いだったのだろうとは思う。
 コナン君に対してはまた違ったらしかったけれど、あの子は元の姿でだってまだ未成年だ。彼は拾うにはちょっと重すぎる。
 その点、僕はちょうど現場から退くような昇進の話が来ていたし、これまでも、これから先も一般に言う家庭を持つ気はなかったから。それだけの蓄えも能力も余裕もあって、僕には出来ると思ったから――かもしれない。

 実際、手を引くのは引き金を引くよりも容易く、二人分の衣類や食器を洗うのは目標の情報を洗い出すより簡単で、毎食栄養を考えて食事を作るのはどうすれば欺けるかを考えながら死体を作るより楽だった。
 荒れる夜だって、ヒステリックで悪癖を持つ女の相手よりましだ。掃除は“たまに”大変だが、普段は殆ど汚れるようなこともない。

 様子を見て、行動を把握して、対処を決めさえしてしまえば、彼は下手な人間よりも扱いやすいものだった。
 長く喋ったのは不愉快な台詞一度きり。何を考えているかなんて分からないが、それは誰だって同じことだ。社会から断絶された彼に対してはしがらみがない分妙な気を揉まずに済む。

 このくらいどうってことない。いっそ悪くない。
 愛着や情が湧いているのかもしれない。それでもよかった。

 いってきます、ただいまと言って抱きしめる体の温かみが、返してくるその腕の力が、それなりに気に入っている。
 眠る僕の髪の毛を、そっと梳くその指も。



リクエスト - cage降谷零視点 / さやさやさま
ありがとうございます



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