うたかた |
――脳まで覆うそれは、原初の恐怖を想起させる。 「なあ」 は、と口を開けた瞬間に、またばしゃりと押し付けられた。 拒む暇もなく押し入ってきた水が口内に満ち、そのままの勢いで食道や気管まで容易に蹂躙する。得られないと分かっているのに酸素を求めては唇がひとりでに藻掻いた。もがけばもがくほど失われていくというのに。痛みなど感じないはずが、鼻まで通りつんとするそれを思い出して、苦しみに鮮やかな色をつけていく。 ごぽりごぽりと、その音すら恐ろしくて、逃れようと手をばたつかせるが、それが癪に触ったらしく、余計に頭を抑えつけられた。 目を瞑れば液体や気泡が顔を撫ぜる感覚がますます強くなってしまう、真っ暗な視界はあれと同じ風景だ、しかし目を開けてぼんやりと滲む視界も何の気休めにもならず、むしろ眼球まで浸されることで新たな恐怖が植わるばかりだ。 ――記憶の彼方、俺はいつかこうして――。 意識が遠ざかりかけた瞬間に、ざぱ、と水から引き上げられた。 会厭が閉まり断ち切られた一方が重力に従って管を流れ落ちていき、残りは反射で排出される。へたくそに吐いたそれは、ぱちゃぱちゃと小さな音だけ立て、何事もなかったかのように元の場所へと落ちて混ざり合う。 ヒュウと、慌てて吸い込もうとするせいで、残滓が絡み、受け付けられずに咳き込む。吐くばかりで足りない、うまく吸えない、くるしい。 「げほッ、ハッ、はあッ」 「オレは殺れと言ったはずだぜ。聞いてなかったのか?」 「は、う、き、聞いた、……ッ」 「じゃあ何故ああピンピンしてやがる?」 「こ、ころして、ない、から」 「何故だ?」 「あ、あいつは……やりたくな」 ばしゃり。 整いかけた息があっという間に乱れる。また水が、顔を、頭を覆う。とぷりと鼓膜を叩いてくる。たったそれだけがひどい衝撃のようだ。激しく脳を揺さぶられる。 今度はすぐに引き上げられた。 「が、ひゅ、」 「てめえの意志はどうでもいい」 「だが、」 ばしゃり。 「言われた通りにしろ」 「ハッ、あ、は、やめ」 ばしゃり。 「馬鹿な犬はいらねえ」 「げふ、ぇ、ご、」 ばしゃり。 ばしゃり。 「くだらねえ情なんざ持つな」 「ァ、」 ばしゃり。 ばしゃり。 ばしゃり。 ばしゃり。 ばしゃり。 繰り返し叩きつけられる“恐怖そのもの”。 肺まで犯してくるそれに、思考がぐしゃりと踏みつけられ、塗り潰され、奪われていく。吹き飛び、あるいは溶けていく。残るのは一つだけだ。 おれは、これをしっている、この先をしっている。しっているのだ。――いやだ。 「――ッ、――!」 何度目かわからないその時、先程より上までぐいと吊られた。意地汚い体はなお醜い音を立てて吐き出そうと、取り戻そうとめちゃくちゃに動く。 後頭部で髪を掴んだままの手が恐ろしくて仕方ない。全身がぶるりと震えた。止んだはずが、視界が滲む。 「ライ」 じりじりと、また水面が近づいてくる。抗えばそれが早まるだけだ、力を入れることは出来ない。 ゆっくり、そこに映るみっともない顔を見せつけるようにして――鼻先が濡れる。 「やめ――やめろ、やめて、やめてくれ、わるかった――いやだ、も、もういやだ、ごめんなさい、いやだ、やめてくれ、いやだ、たすけて、にどめはいやだ、いやだ、いやだ、いやだ――ちゃんと――ちゃんとするから――」 嘲笑が響く。 「――いいか、“お仕置き”だ。銃は使うな。手でやれ」 そうして俺は、一人の女を絞め殺した。生暖かい首を握りつぶした。 苦しみに喘ぎながらも笑おうとする歪な顔に、ぽたりぽたりと雫が落ちたのが、妙に印象的だった。 |