Aegle

 体の痛みもだいぶなくなってきて、病床数不足の世の中にだいぶ長いことベッドを占領していることに罪悪感も募り、入院代も心配だしと、いい加減そろそろ退院してもいいのではと医者に打診したころだった。

 ぼろっと。

「赤井さん――」

 はじめは汗かと思ったが、そう暑くもないし体も湿ってはいない。ぼろぼろと続いてシーツを濡らすそれの軌道を辿り、視界が潤んでぼやけるのに加え、頬が濡れていることで、それが涙だと分かった。……多分、そうなんだとは思う。それ以外にここから漏れ出るこうさらさらしたしょっぱい体液もないだろう。いやなぜそんなもんが出てくるのか思い当たるフシがなさすぎてつい反射的に舐めてしまった。ペロッこれはやっぱり涙。なんだっけなこのネタ。

「……ど、どうしたんですか」
「いや……」

 それは俺が知りたいです。
 こっちのほうが食うからと差し替えを認められたおまわりさん食に今日も今日とて手を合わせ、蓋を開けて匂いを嗅いだ。直後だった。もはや俺専用となっているのだろうスープジャーの中には、クリーム色のとろりとした液体。

「シチュー、嫌いでした?」
「いや」
「じゃあ、だめになった?」
「いや……」

 小麦粉も牛乳も昨日まで普通に摂取していて、アレルギー反応なぞ起こしたこともない。何か引き金となるような要素が料理にあったとは思えない。思いの外動揺しているおまわりさんには悪いが、とんと心当たりがない。
 必死に止めようとするが止まらなかった。いい年こいて恥ずかしすぎて顔が熱くなる。強い羞恥のせいか胸まで痛くなってきて、両手で抑えるが少しもましにならない。ぼやけて滲む視界で、おまわりさんとコナン君は困ったように目を見合わせた。いやほんとにすまんな。





 というのがつい一週間前のこと。あれからしばしば謎の涙と胸痛に襲われていた俺のもとに、久方ぶりにジェイムズが見舞いに来た。その顔つきは神妙で、ただ遊びに来たというわけではなさそうだとはすぐに察せられたが。

「仕事のことは忘れて、心休まる人のそばで、傷を癒やすといい」

 要するに戦力外通告らしい。そらそうである。床に臥せって幾星霜……とまではいかないが、入院費や空きを心配する程度にはずっと働いていないし、正直これからすぐに働けるかというとはい喜んで二十四時間戦えますとパッキリは言えない。働けない人間をずっと抱えておくのは組織にとって損にしかならないのだ。
 今までここにいれたのもジェイムズやおまわりさんたちの権力と人脈、彼らの温情によるものである。それは際限なく与え続けられるようなもんじゃない。
 受けて当然の処遇だ。当たり前ではあるが、これまたいい年こいて先行きも見えないままクビになるというのはなかなかショックで切ない。三十路無職か。もう転生するまで本気出したって何も出来ないかもしれない。

「……わかりました」
「もし快復して、またきみがあのバッヂを掲げたいというのであれば、私はいつでも着けてやれるようにしておく。しかしそれも、きみの魂がそう求めるならばの話だ。――ともかく今は、きみはきみのための時間を、彼とゆっくり過ごしなさい」

 はて彼とは。それについては掘り下げることなく、ジェイムズは今後についての通告を終えると、病室を去っていった。
 いい上司だったよ。世話になった分、せめてと頭を下げた。





 おまわりさんは退院の日にも律儀に現れた。
 これが最後の晩餐か……などと若干しんみりしていたのだが、その手にはランチボックス用のトートではなく、もっと大きなボストンバッグが握られていて、もう片手には革靴が引っ提げられていた。
 今日のおまわりさんはピンクのポロシャツ姿で、靴はスニーカーである。どこかで履き替えたということだろうか。
 首を傾げていたら、おまわりさんはつかつかと俺の方に寄ってきて、ベッドに座る俺の目の前に、その革靴をぽんと置いた。つま先を自分に、履き口を俺に向け、まるで履けとでもいうように。それからボストンバッグのチャックを開け、中身を俺の膝へ置くと、床頭台の上と引き出しの中のものからクローゼットや棚の中身、そこらにあるものを物色し、あるものはそのまま戻し、あるものはそのまま引き抜きバッグへ詰めていく。新手の強盗か? あまりにも堂々としているもので呆気にとられただただ見守ってしまう。
 手を休めることなく動かしながら、おまわりさんはさらに口まで動かしはじめた。

「荷物はおおかた運び終えましたよ。まあ、工藤邸にあった分だけなので、大した量じゃありませんでしたけど。向こうのもの、家財から部屋の権利まで全部処分したんですって? まったく妙なところで思い切りがいいんですから……」
「何の話だ」
「聞いてないんですか? ブラック氏から」
「ジェイムズ? ……彼≠ニいうのは」
「僕以外に誰がいるんです?」

 子供を諭すよう、同時に、どことなく得意げに笑う。

「着替えて」

 そう言い指をさされて、膝に置かれたものが衣類であることに気づいた。しかも俺に着せるためのものらしい。シャツにスラックス。できればシャツは黒が良かったな。
 久々にぴったりとした服を着て変な感じがする。服を着るってこんな感じだったんだなあ、などとまるで裸族のような感想だがちゃんと着てました。履いてました。入院着を身につける程度のマナーはありました。
 のたのたと着替えているうちにおまわりさんは支度を終えたらしい。パンパンになったバッグの口を閉め、俺に向き直り、さあ、と掌でそれを示した。

「サイズはぴったりだと思いますよ」

 それ≠ェ何か、わかっていたはずだ。

「……赤井?」

 その名にハッとした。ぱちりと瞬いて、もう一度焦点を合わせる。
 くつだ。くつ。簡単な話だ。

「ええと、これを?」

 だというのに、なぜか、おかしなことに――俺はそれをどうすればいいかわからなかった。
 生きている、と思って。生きている自分が、服を着たように、服を着たよりももっと自覚をもって、そとへ出るための道具であるそれを我が物とすることを、自分の意志でやらなければと思うと。途端に迷子のようになってしまったのだ。
 たまにあるあれだ。息の仕方や、瞼を閉じた時眼球の置き場が妙に気になって、今までどうしていたのかわからなくなるやつ。あれだあれあれ多分あれ。いやよくあるだろおまわりさんもそろそろ三十路のアラサーだったはずである。という心中の焦りもうまく言葉に出来なかった。

「……」
「……」

 空気がしんどい。視線が痛い。
 というのは俺の被害妄想ではあるだろうが確かに感じた。我ながらなぜそんなことになっているのか理解できないのもダメージに拍車をかける。
 目を合わせていられずに逸したら、おまわりさんはすっとしゃがみ込んだ。

「――大丈夫ですよ」

 俺の足を取り、くつの穴へと導く。踵をつけると、紐を結び甲を締めた。

「出来なかったら僕がしてあげますから。いつでも」

 口端を緩め、蒼い瞳を細めて、俺を見上げてくる。

 ……ちょっとなんとなく今ふと思い出したんだが、もしかして以前言っていた部屋を探すだとか持ってきた物件のチラシやパンフだとか、飯を食うついでにしばしばそれらの資料を見ながらどれが良いかなどと聞いてきていたことだとかは、あのジェイムズのセリフや今このおまわりさんが強盗したことと関係あるのか?

 今更ながら結びついた事柄たちと、今の今まで全く結び付けられていなかった事実に、もしかしてこの脳今ちょっとだいぶやばいんじゃないか、と、恐らく客観的に見ればようやく、思い至った。


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