喫水

 見慣れたジプトーン。
 そうだと認識した瞬間に、ぷつりと途絶え堰き止められていた意識や記憶といった情報が、どっと頭に雪崩込んでくる。まるでwi-fiに接続した途端同期更新しだす端末のようである。
 ともあれそばにいた人間のおかげで現状の把握に苦労はしなかった。やや驚いたように俺を見下ろす柔和なつくりの顔は、紛れもなく俺たちの救世主聖トモアキのものだからである。貴き御方にみなさん叩頭礼を。
 流石に土下座はドン引きされるだろうがお辞儀くらいはしておこうと上体を起こして首を動かしたら具合が悪いのかと聞かれてしまった。そういうのは本田さんとこのおじいちゃんやナントカジョーンズさんのコントではなかったのか。
 首を振って答えれば、先生は俺の手を取って、手首のあたりを軽く掴んだ。そのまましばらくの間じっと真剣な眼差しで俺を見つめ、数十秒だか一分だか経つとふっと表情を和らげる。
 審議タイムは終わったらしい。相変わらず俺の言動に関する信頼度は低い。

「どうしますか、また休みます? それとも、もう目が覚めてしまいました?」
「おれは、どれくらい……」
「まだ二十分ほどでしたよ」
「……ずいぶん、ながかった気でいました」

 またもやセーブポイントが恋しくなってトモえもーんと駆け込み、快諾してくれたのをいいことに医院のベッドの一つを陣取り横になっていたのだが、瞼を閉じたらいつの間にか意識が飛んでいたのだ。

「まあ、その……少し、魘されていたようですから」
「そうなんですか」

 毎度毎度ブツブツと脳の機能が止まっているのではと思うような感覚なもんで、そういう記憶もないし、携帯で時計を確認してもなんだかしっくりこない。
 特に時間を気にしなければならない用事があったわけではないが、コナン君へ特に何も言わずに来てしまったのでもし何か起きていたらいざというときに使えない湿ったマッチの誹りを免れないとこだった。
 今のところ連絡は来ていない。この際だからちょっと買い物中ですとでも言っておこう。
 適当に簡単な文面をメールして顔を上げると、そのさまを見守っていたらしい先生と目が合った。

「あ、すみません、先生……」

 なんと先程から立たせっぱなしである。貴き御方とか言っておいて何をやってるんだ俺は。
 いえ、と軽く笑って、先生は思い立ったように俺を呼んだ。

「まだ起きてらっしゃるなら、一緒にお茶でもどうですか?」
「……先生さえ、良ければ」

 そりゃモチのロンってなばかりに頷いて、先生はパイプ椅子とキャスター付きのベッドテーブルを俺のいるベッドの横へしゃかしゃかと動かし、医院の方からか母屋の方からかは分からないが、茶と菓子を持ってきてくれた。
 ちなみに手伝いは申し出たものの、いらんことをするなとばかりに安静にしていろと言われてしまったので、その間俺がやったことといえばそっとシーツのシワを伸ばしたくらいである。ワンカロリーも消費していないかもしれない。
 やや小ぶりで細長いテーブルに、ソーサーつきのカップと、可愛らしい小皿が並ぶ。その食器や見た目的には飲み物は紅茶で、菓子はブラウニーのようである。
 わりと手間のかかってそうなものなのでイッキはまずかろうと、とりあえず先生の様子を伺いつつ、似たタイミングでちびっと一口飲み、一口齧った。

「どうですか?」
「口当たりはいいです」

 俺にコメント出来るのはそのくらいである。食レポなんぞやろうものならシェフもワイプの芸人も白けさせる自信しかない。
 先生の眉尻が、ゆるりと下がる。

「あの」
「はい」
「実は、先日いただいたお菓子、ひかるさんにもわけてしまいました」
「はい?」

 なんつーことを。そう大したこともないように言うので実際何事もなかったのかもしれないが、一歩間違えれば修羅場に発展した可能性も、いやこれ渡した俺が言うこっちゃないんだが。

「……すみません」
「どうして赤井さんが謝るんですか? ひかるさん、美味しいと言ってましたよ」

 世辞まで言わせてしまったらしい。
 あの子のお墨付きではあるが、それは可食性であって味の良さではないのだ。人間が口に入れても大丈夫ですよというだけの話。クレヨンなんかと一緒。出来たから見て見て先生〜とクレヨンがお似合いの幼児さながら持ってきただけなのである。調理も含め家事を生業にしているお手伝いさんである彼女の舌にクレヨンだかコンテだかチョークだか分からんもんを味わわせてしまうとは。
 今度からもっと慎重になろうと脳内一人反省会を繰り広げていたら、先生がほんのちょっぴり声色を変えた。

「これは、ひかるさんが作ったものなんです。お礼にと」
「礼、ですか」
「あなたに」

 見た目はまるで店売りのもののようだったが、まさか手作りだったとは恐れ入る。さすがは家事のプロ。
 先生は、摘んだ食べかけのブラウニーを、少し掲げるように持ち上げてから、側面を覗き込むかのように小さく手首を回した。

「……先程、口当たりは、とおっしゃったように、料理や飲み物は味だけではありません。咀嚼や嚥下の感触、匂い、見た目、食器、口へ運ぶ方法、卓に並ぶまでの過程、食材や調理法の歴史、場所、時間。なにより、作った人間と、共にする人間。どんな人間で、何を語らうか。数多の道筋を辿って、様々な要素が絡み合って“美味しい”が編み上げられる――のでは、と、僕は思います」
「それは……わかります」

 肯定の言葉は自然に口をついて出た。一般的に言われている事でもあるし、なにより、そう実感を持ったことがあるのだという思いが、知らぬ間に脳の隅にひっそりといたから。それが顔を出したからだ。
 誰かとそう過ごす時間を、大切に、もしかするとかけがえないとさえ。――それが誰なのか。脳裏に浮かぶ人影は、ひどく朧げで不安定に揺れ、判然としない。
 うろうろと彷徨いはじめた手に、すっとカップが差し出される。
 受け取って中身を啜り、飲み込めば、喉や胸のあたりで渦巻き始めた何かまで、一緒に流されたような心地がした。

「あなたと嗜むこのお茶やお菓子、僕は、美味しいと感じます」

 ゆるく笑み、柔らかな声で、先生が言う。

「……俺もです」

 出来ればその顔は、この人は、忘れたくないと思う。
 その思いを抱いていれば、己を保っていられるような気がするのだ。


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