やいとをすりむく

 “どこでもいいから海に行きたい”と。
 ひとまず試しにどこか、と聞いてみたところ、彼が出した要望はそれだ。思いの外普通で拍子抜けした。その程度なら叶えてやるのは造作もない。医師に交渉して外出許可を取り、自身の休みを確保して、車で病院まで迎えに行くだけ。
 足腰萎えきった彼はもはや自力で歩くのは困難なようで車椅子が必要だったが、痩せこけた体を抱えて移乗を行うのは、ひょっとするとライフルケースを持って走り回るよりも簡単なことだった。ただ――まだ組織にいた頃、しばしば体調を崩す彼を支えて家まで送り帰してやることがあったが、それとは比べ物にならないくらいの体の軽さに――ほんの少しだけ、ぞっとした。当の彼はといえば、僕の介助が上手いだの、そこそこに珍しい経験だのと呑気な声をあげていたが。
 彼を助手席に座らせて、車椅子を後部座席に積む。それも大した手間でも苦でもなかった。彼は死体と違ってこちらに協力的で、弱いながらもそれなりに力を自分でも入れることが出来るし、近頃の車椅子というのは殊の外軽量に出来ている。この程度であればいくらでもしてやれる。

 海は、せっかくだから見栄えの良い方にしようと、近場でも夏には浴場になるような浜辺のある場所にした。
 車で一時間とちょっと、体調を見るためにも休憩を挟みつつゆっくりと移動したが、彼は大人しくシートに収まったまま、景色を眺めたり、目に入ったものからまた妙な連想ゲームじみた謎の喋りをしたりと、少なくとも調子を悪くしているようでもなかった。これなら次からは多少距離があっても大丈夫そうだ。
 時期ではないからか人の影は少ない。浜辺よりの駐車場も空いていてサッと停められた。隣接に車両がなく広々と使えるおかげで、車椅子を下ろして移乗させるのも楽なものだった。
 その上駐車場から続く、幸いアスファルトで舗装された遊歩道のようなものがあった、のだが。

「ここまで来ると足を浸けなきゃいけない気がする」

 などと彼が言い出した。なんだその謎の義務感は。
 いや、まあ、何かやりたいことがあるなら言え、そうでなくとも何でも良いから言えなどと言ったのは僕だ。希望があるのは良いことだ。それにここまで来てもう帰りたいなどと言われるよりはマシである。

「仕方ありませんね」

 さすがに砂浜を車椅子ではいけない。せっかく出したがまた後で活躍してもらうということにして、目的地が海であるからと念の為持ってきていたサンダルに履き替え、彼にも予備を履かせて背負った。すごい、力持ちだわ、なんて何キャラなのか分からない褒め方をされた。ちょっとうるさいな。
 潮水も冷たすぎるということはない。ひとまずくるぶし辺りほどまでざぶりと入り込んでから彼を下ろす。その腕を自分の肩に回して支えれば、彼はほとんどの体重を僕に掛けながらも、なんとか立つ姿勢だけは維持できた。

「どうですか」

 礼の一つでも返ってくるつもりで聞けば、彼がほんのりと眉根を寄せながら、「なんだか気持ち悪い」と言ったもので、何というか、出鼻を挫かれたというか、意気を削がれた感じがする。

「……あのね、ここまでやってもらっといてそれですか」
「いやすまん。でもなんかこう、足場が崩れてしまいそうというか、足を掬われるような感じがするだろう」
「それは、なんとなくわかりますけど」

 恐らくはこの、打ち寄せて引く波の水自体や、それに釣られて足裏のまわりをうろちょろとする砂の動きがそう思わせるんだろう。特に波が引く時には、足下の砂がずるりと抜け出ていくような感触もある。

「一わかる」
「イチって数字の?」
「そう、“わかる”を一つもらったという」

 ……。彼はしばしば小学生のようなことを言う。というか、こうなってからなかなか頻繁に言う。
 悪いことではないとは……いやどうだろう。随分慣れてきてしまったが、今でもたまに、やはりあの時の怪我でその脳のいずれかに何かしらの欠損が出来たか、あるいは心的ショックによって機能に不調をきたしているんじゃないかと疑いたくなる。むしろそうでなくばあり得ないとも思うほどだが、何度やっても検査ではそういった結果は全く出てこないのだ。実はアポトキシンを服用しており思わぬ薬効が現れたのだと言われたほうが納得出来る。

「……二わかる三わかるを期待してたりするんですか?」
「そうだな、九十くらい集まったら金の脳みそと交換してくれるか?」

 何やら物騒な単語に聞こえたが。

「なんですかそれは」
「中にメロンパンを入れたい」
「ちょっと意味がわからないんですけど……チーズ蒸しパンの次はそれですか」
「別にチーズ蒸しパンでもいいんだが」
「いいのか……あなたパンが好きなんですか?」
「いや別に」

 以前蒸しパンを買ってきた時には食ってそのまま戻してしまっていたが、本当のところどうなのか。こだわりがあるんだかないんだかさっぱり分からない。そもそもが何を言っているのか分からない。これがヤクもキメていない素面だというのだから軽く尊敬の念すら湧く。

「いやでもきみ相手にあんまりお分かりいただけただろうか出来そうにないしな……」
「さあ、どうですかね。言ってみて」

 ううん、と、すぐそばで、彼が小さく唸るような声を漏らした。
 それなりに風音も波音もするが、こうして抱えていると顔が近い分呼吸音までしっかりと聞こえる。それに皮下の筋肉や眉や瞼や眼球、口元なんかの動きも、横顔ではあれど観察できるのでいい。よくよく見てみると意外と変化があるのだ。相手が僕だから、なんて理由だったりするかは、さて置くとして。

「そこらを移動する時ついついクリアリングしようとしたり、なんでもない曲がり角や扉を開ける時でも身構えたりするよな」
「まあ、そうですね」
「フツーに分かられてしまった」
「分かられたかったんじゃなかったんですか」
「いや、多分想定してるフィールドやら武器やらが違うと思うんだが……」
「そりゃそうでしょ、日本とアメリカじゃ」
「あー、まあ……」

 国が違えば犯罪もそれに対する法執行機関のあり方も違う。似たような立場であるとはいえどもその差異は大きいだろう。という僕の捉え方は、なにやら彼が意図したものではなかったらしいが、彼は曖昧に言葉を濁すだけだった。別にいつもの調子で続けてくれて構わないのに。
 突いて引き出してやろうかと思ったが、先程よりも彼の表情に陰りがみられるし、肩にかかる重みも増してきている。足の力が抜けてきているようだ。立つだけで喋るための体力を余分に割けないほど消耗しているらしい。
 伏せられた瞼から伸びる睫毛が、ふるりと揺れた。
 そのさまを目にして、ざわざわと、胸の内のどこかがざわめく。ぼんやりとした焦燥が湧いた。
 ほんの少し思考を巡らすだけで、それを齎すものの正体に手が届きそうだったけれど――伸ばしたくない、掴みたくないと思う自分がいた。


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