The Rose

 誘ってもむだよ、と言う彼女の言葉は正しく、一緒にどうかとの問いにはサラリとノーが返された。

 しばらく私達がかかりきりだった事件がようやく収束を迎たのだ。
 それを祝し、各々の働きを労い、そして、これが捜査官としての初めての仕事だった私を囲って、チームの皆で食事の場を設けようという日だった。主催はボスのジェイムズさんであるというのに、先輩の一人は悩む素振りもなく欠席を告げて、いつものように終業時刻ぴったりに仕事をやめ、手早く身支度を済ますと、挨拶もそこそこにさかさかと帰っていってしまったのだ。
 他の先輩方は、そんな姿を咎めもせずに、むしろ早く帰れなんて声を掛けながら、和やかな態度でそれを見送った。
 “彼”はいつもそうで、そもそもが素っ気なく、特に就業時間外になると取り付くしまが一切ない。公私をきっちりと分けているタイプなのかと思えば時間にルーズで、遅刻や早退が少ないとは言えない頻度であるし、気に入らない仕事は手を付けずに他所へ回したりもするのだ。
 もともと実力があって、特に射撃技術に秀で、例の事件の捜査では初期からのメンバーであり、潜入捜査や日本行きに参加してその腕を揮ったのだという。私が見る限りでも、仕事自体はやるとなれば素早く的確で、しばしば他人のものまで肩代わりしてみせるほど。相変わらず狙撃は正確で、捜査を意外な切り口で効率よく回してくれるし、面倒な事務処理も嫌な顔せず引き受けてくれるのだという話も聞く。
 そういった点で尊重されある程度の目零しをされているのだろうか。それだけにしては、周囲の反応はどこか違うように映った。

「先輩、何かあるんですか?」
「彼、花を育ててるの」
「……は?」

 まったく仕方がない、と言った風に、先輩――ジョディさんは眉を下げて息をついた。
 ……花?

「ええと……園芸を?」
「そんなものね。ようやく目覚めたのよ、彼。その楽しさと、素晴らしさに」




 大急ぎで帰れば、二十分弱で家に着く。そりゃそうだ、わざわざそのためにそれなりの金払って職場近くに居を構えているのである。
 扉の前に立ち、キーを入力しようとしたところで、パネルに指が触れる前に内から開いた。いつもそうしてエスパーじみた出迎えを受けるせいで、そろそろ自宅のキーを忘れそうである。
 自動ドア業に余念のないそいつは、俺が敷居を跨いで玄関に入ったところで慌てたように体当りしてきて、必死の形相で俺の手を取りかちゃりと金属の輪を取り付けた。
 あの時よりも幾分か柔らかさの増した肌は触れればふわりと……はせずびしょびしょだった。今日も今日とてとんでもない泣き顔である。頬の水気を拭ってやって、両手で包むようにして少し上向けさせ、ふにりと唇同士を当てたところで、ようやくがちがちになっていた表情が緩んだ。
 ころりと一転、瞳は真っ赤ながらもにこにことご機嫌に笑む。

「おかえりなさい、十夜」
「――ただいま、零」

 地力があるので泣き顔も悪くはないが、やはり笑顔が断然可愛い。


 一緒にいたい、連れて帰りたいという俺の言葉に、零は躊躇なく頷き、驚きの早さで退職の手続きをしてしまった。
 本心からの言葉ではあったものの、社畜のお手本にしたいぐらい清々しい辞めっぷりだったもので、少々唖然としてしまった。
 なんせ仕事が仕事、こちとらFBIでむこうは公安、俺も彼も失踪後にもちゃんと籍を確保されていたようで、そう京都へ行こうみたいなノリで辞めれんし、辞めたとしても取り扱っていた機密の類からしてお互いの元へ置いておくことを問題視する存在が少なからずあるだろうと思っていたのだ。
 しかしその点零のゆんゆん具合が功を奏したらしい。俺以外とはろくにコミュニケーションが取れないし、まともに仕事を出来る状態ではなく、先述の機密云々から言って野放しにも出来ない、親類縁者みな鬼籍に入っており他に身寄りがなく、何より俺から引き離すと何をしでかすか分からない。現にちょっぴりやらかしたもので、俺、もといFBIと取引と交渉をして押し付けたほうがマシだと判断されたらしい。元々俺たちがいなくなった後に協力関係となった間柄だし、その鎹となって二者を牽引し多大な貢献をしたコナン君の口添えもあったため、そして当人も功労者の一人であるため、かなり温情采配が利いた模様である。
 トントコトントコ話が進み、最終的にお前のふるや星人だろ何とかしろといった感じにお膳立てされて熨斗付けて飛行機に押し込まれてしまった。
 そうして二人降り立ったのがダレス。
 事後処理関係もあれば以前からそういう話が出ていたとかで、俺たち組織対策組で他支部にいた人間の多数が本部のジェイムズの元へと異動になったため、活動拠点もそちらへ移すこととなったのだ。バージニアなんてイマイチ土地勘がない中ジェイムズに助けを借りつつどうにかこうにか住居を見繕ったはいいものの、そこからがしばらく大変だった。

 慣れない環境もあってか、零はちょっと俺の姿が見えなくなるだけでひどく取り乱して探し回り、果てはどこまでも追ってくるのである。うかうか風呂もトイレも一人でいけず、いやまあそれはずっと一緒にしていたもんだからもう別に今更構わないんだが、ちょっとした外出でも仕事でも四六時中背後霊のように付き纏いどうにもならないので、はじめの内はジェイムズに頼み込みFBIにまでニコイチしていた。
 ドア越し十秒から庭先五分、近くのスーパー三十分とじわじわと離れるチャレンジを重ね、随分時間をかけてようやく就業と通勤時間分は家で待っていられるようになったのである。定時に生存報告をしないと鬼電の末に職場に乗り込んでくるが。
 更に、零は俺に他人が作ったものを食うなと言って弁当を持たせるわりに自分で作ったものは受け付けず、俺が作って食べさせなければ口に突っ込んで無理やり飲み込もうとも全部ゲロってしまう。必然的に朝夕二食と平安貴族のような食生活をしているもんだから、あまり長時間家を空けてしまうと、餓死まではしないだろうがぶっ倒れるくらいはしそうなのである。
 そういう諸々があって極力早く帰れるようにと、某アルター使いの兄貴を師と仰ぎ努めていたら、仕事をさばくのは随分早くなった。
 それでも犯罪者というのはこちらの就業時間を考慮してくれないもので、しばしば急な呼び出しやプチ出張や作戦の延長で大荒れさせ、一晩中宥め続けて朝を迎えたり、逆に延々と謝り倒されたりしてオールナイトアメリカをすることがある。
 どうにも零は以前よりもネガティブな方向に振れやすくなっていて、荒れ始めるとどちらかと言えば怒鳴って喚いてよりもめそめそと泣いて鉈使いのベレー帽女子が如くごめんなさいごめんなさいと繰り返すことの方が多くなった。自分で自分を要らないと言っておきながらショックを受けて落ち込んだりするのだ。
 精神のコントロールが効かないのが当人としても不本意なようで、それによって捨てられるんじゃないかと大層不安になるらしい。取り乱しては落ち込み、それによってまた取り乱し、めくるめく負のスパイラル。じれっ隊に入隊できそうだ。そのあたりの心配は一切要らないのだが、なかなかそれを言葉だけで拭ってやるのは難しいので、もう体を使うしかない。
 ともかく仕事は出来うる限り基本の就業時間きっちりで終われるように持ち越さず長引かせず前倒し前倒しで取り掛かってがんがん進め、時間内では行えない部類の作業や作戦は手を変え品を変えてやりくりし、効かないものはパスして投げ、代わりに別のものを振ってもらいながら、どうにかこうにかこなしていた。
 零の機嫌や体調によって遅刻早退するもんだから、なるべく普段から沢山処理しておいて、精度も高く仕上げるようには気をつけている。無能なのに変わりはないにしろ、以前よりはだいぶマシになっているはずだ。
 自身がどう思われるかなんてのは別段気にする方でもないんだが、あんまりにも顰蹙買って査定がひどすぎてクビにでもなったら、その先零と暮らしていくのが困難になりかねん。ただでさえ残念な三十路男でさしたる甲斐性もないのだ、悲しいかな転職が上手く行くとは限らないのである。
 今のところは、ジェイムズもジョディたちも事情を承知で寛容に対応してくれているのでなんとかなっている。持つべきものは理解ある上司と同僚だな。

 ――しかし、こうして何かのために働くのはいい。
 何かをしたいと思って動き、誰かに会いたくて気が急き、そして、帰りたいと思う場所に帰れるのは。
 疲労さえも心地よく、出来たことの一つ一つが、充足感や幸福感にかわって降り積もっていく。


 食事を済ませ、風呂に入り、あれから最早裸族に片足を突っ込んだかのようお決まりとなったパンイチ姿で、二人でベッドに飛び込む。
 零が寝る前の儀式を始める。さわさわと俺の全身をまさぐって、脈を測り、瞳孔を観察して、呼吸を見て、心臓の音を聞いて、俺がゾンビでないか確認するのである。俺が昨日までと、零の思う俺と変わりないか。生きているか。
 左手が、零の手の動きに合わせてかしゃかしゃと鳴る鎖に引き摺られ、シーツや俺の腹を這い、あるいはぷらぷらと宙に吊られる。

「どこも怪我してないし悪くない。ほら」
「うん……うん……」

 まるでトトロにするかのように体の上に乗りぺったりと胸に耳をつけ、零はちいさくぶつぶつと何かを繰り返す。その頭を撫でてやって、体を少し引き上げ、ぐっと抱きしめた。零の吐息が首筋に掛かり、微かに鼓動が感じられる。
 ごろりと転がって、今度は俺が零に伸し掛かるように、覆いかぶさるようにしてその顔の横に肘を付き、半端に開いた口を啄む。

「大丈夫だ、零」

 唇の隙間から入り込んで、更に内側も撫でてやると、零はゆるりと目を細めた。零の腕が、首裏に、背に回る。背骨をなぞる指の感触に、心が震える。
 人間とは不思議なもので、一度自覚をしてしまうとその思いは確たるものとなり、更には時を経るごとにますます強まるのだ。
 ――率直に言えば、可愛くてしょうがないのである。
 参ったことに、その挙動一つ一つ余さずすべて。
 零の笑顔が。それだけでなく涙も、怒りも、怯えも、不安も。目の前にあって、俺に向けられて、俺に降り注がれていく。それが嬉しい。

 これほどまでに俺の生にしがみつく、俺しか見ていない、俺のことしか考えていない、俺の手無くば生きられないいきものが。
 これほどまでに“俺”に固執してくれるのが、そばにいてくれるのが、嬉しいのだ。
 他の何者でもない、俺自身に。

「生きてる、生きてる、生きてる……」

 そうだ、俺は生きている。

「よかった……」

 くるまった毛布の中、鎖とともに俺の手首を握り、足を絡めて擦り寄り、零がやわりと微笑む。

「ねえ、寂しくないですか」
「ああ、おかげさまで」

 俺は生きている。
 ――零とともに。




「――それは、人生という庭を豊かに彩るために、そして枯らさず絶やさず保つために、とても重要なことだわ」

 そういうものでしょ? と、ジョディさんは得意げな調子で言い切って笑った。

「……私には、よく分かりません」
「あら。まだ芽吹く前なのね」
「いつも思いますけど……ジョディ先輩って、結構言い回しがクサいですよね」
「こういうのも大事なのよ、ひよっこちゃん」

 さあ、行きましょ、と促し笑うジョディさんに腕を引かれ、不貞腐れながらオフィスを後にする。
 “ひよっこ”、それが先輩たちから付けられた、私の呼び名である。はじめての作戦で緊張して、配置の違う“彼”の後をついて回ってしまったからだ。不名誉だ。早く次の仕事を上手くこなして挽回し、もうそんな間の抜けた名など呼ばせないようにしてやる。心中でひっそり意気込んだ。

 ――そういえば、あの時ばかりは“彼”も、なんだか困ったような笑みを浮かべていた、ような気がする。
 まるで私に、誰かを重ねるようにして。

 いつか機会があれば、“種”について、聞いてみたいものである。


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