PROBATION

 反射的にれいの手を振り払った瞬間――がつりと、頭に大きな衝撃が訪れた。

 脳みそが激しく揺れて、視界が真っ暗になり、体が宙に放り出されたような感覚に陥る。天地が分からないが、恐らく立ってはいないんだろう。

「――!」
「――、――ッ!」
「――!? ――!」

 誰かの、焦ったような声が聞こえた。怒声と、それから銃声。耳までおかしくなったのか、聞き取れない大きさではないはずのそれらが、不明瞭で理解できず、どこから鳴っているのかわからない。
 俺を呼んでいる、ような気がする。
 体も揺すぶられているような気もする。
 どうなっているんだ、と問いたかったが、声にならなかった。あるいは、声になっていたのかもしれないが、自分では聞こえない。
 あたまがぐるぐると回るような心地がする。
 せめて触覚で状況を把握しようと腕を持ち上げ、そこらへ手を当てなぞろうとしたが、それすら出来ているのかわからなかった。何かが触れているような。誰かが、俺の手を握ったような。
 そこで、ぶつりと意識が途切れた。



 ぱちりと目を見開いて、明るく白い天井に首を傾げた。あの家のものとは違うし、あそこは窓が最低限小さなものしかなくあまり日当たりがいいとは言えない物件だったし、手錠の関係上れいが一人で電気をつけることは出来ないはずだ。
 そこまで考えてハッとする。
 左腕を持ち上げて見てみれば、手首にはただ痣が残るのみで、その代わり前腕には針が刺されてテープで固定され、そこから管が伸びていた。それを辿って視線を動かせば、管の先には、銀色のポールに吊られた輸液のパックがある。
 その周囲には、床頭台とテレビ、小さな冷蔵庫、白い壁、空しか見えない窓。まごうことなき病院だ。
 さらに首を回して反対側へ顔を向ければ、肩の直ぐそばに金色の何か。
 ――れい。
 その体が小さく上下に動く。同時に聞こえる、微かな呼吸音。パイプ椅子に座り、ベッドに寄りかかる形で、うつ伏せになって眠っているらしい。今更気づいたが、俺の右手は彼に握られていた。彼の腕からも俺と同様細い管が伸びていて、すぐ後ろには点滴スタンドが佇んでいる。

 暫くの間それを見つめていると、彼の背後、少し離れたところにあった扉が、からりと軽い音を立てて開いた。しかしそうして広がった空間にはただ廊下の壁が見えるだけで、誰もいない。

「――っ、赤井さん?」

 息を呑むような音と、抑え潜めた幼い声が響いた。
 視線を下ろしてようやく視界に捉えられた。扉の取手を持って立っていたのは、ぴょこぴょこと跳ねたくせ毛のような髪に、大きい眼鏡をかけ、青いジャケットを着た子供――コナン君だ。

「目が覚めたんだね」

 先ほどと同様、内緒話でもするような声でそう言い、抜き足差し足忍び足といったていでベッドに近づいてきて、れいがいるのとは反対側に回ってきた。その素振りからして、どうやられいを起こしたくないらしい。
 コナン君は、起きる気配がないのを確認するように眠るれいの姿をしばらく様子を観察したあと、表情を引き締めて俺を見上げ、ぎりぎり聞き取れるような声量で、ここに来るまでの事を語ってくれた。

 なんとあの捜査官、組織構成員のスパイだったのだという。なおかつ俺に個人的な恨みがあって、わざわざ組織の崩壊時もじっとその身を潜め、ジェイムズたちが俺を捜しに行くと言い出したところで憧れていたからだの何だのと適当な理由を見繕い名乗りをあげて参加したのだそうだ。なかなかの執念である。なんでも、俺が射殺した犯罪者の中のひとりに身内がいたんだとか。メイソン・ガードナー。どこかで聞いたことがある響きだと思ったら、いつだかれいが告げた名のうちのひとつだ。まさかそこまで知っていてのことだったのか。
 あの時、ガードナーは俺を撃ったのだ。弾丸を食らった俺がぶっ倒れた後、れいは怒り狂ってガードナーに飛びかかり、鼻も歯もバキバキに折れるほどボコスカ殴りつけた挙句、奪い取った銃を脳天めがけて発砲しかけたのだという。すんでのところでキャメルとジェイムズ二人がかりで引き剥がしたと。なんというバーサーカー。痩せた体でよくぞまあそこまで踏ん張れたものである。火事場の馬鹿力というやつか。
 それかられいは死ぬほどごねて喚いて譲らず搬送も手術中もずっと俺のそばにいて、せめて休めだとか風呂に入れだとか飯を食えだとか言うジェイムズたちの言葉を一ミリも耳に入れず、一週間超点滴のみで飲まず食わずのままこのパイプ椅子を陣取り続けて今に至ると。コナン君がこうも慎重に寄ってきたのは、下手に俺に近寄れば医者だろうが看護師だろうが敵意むき出しに攻撃しようとするからなのだそうだ。手術も処置も全部ワンアクション毎にれいのゆんゆんチェックが入っているらしい。こりゃ後で多方面に土下座行脚しないといかん。

「あの……安室さんって、どうしてこんなに?」

 これがあの家にいたときならば、知らない、と答えたところだったが。
 ――思い出したのだ。
 全てとはいかないまでも、彼のその、行動原理の一端と言えるだろうものを。
 俺の回答に、コナン君は唖然として、それからゆるりと、呆れたように、どこか安堵したように笑った。


 れいが目を覚ましたのは、コナン君が退室してから随分後だった。
 やはり元々弱っていた上にずっとまともに横にもならずにいたから、疲労が溜まっていたんだろう。さすが病院というか点滴サマサマというか、飯を食っていないわりにはそう痩せこけたわけでもないというのが救いか。
 焦ったようにがばりと起き上がったれいは、俺の姿をみとめて、ぼろぼろと涙をこぼした。そこは相変わらずだ。止めどなくという表現が似合いそうなそれを拭っていくと、あっという間に袖口はじっとりと濡れそぼった。

「……悪い。きみの言葉を、もっとちゃんと聞いていればよかった」
「そう、そうでしょう、だから言ったんだ。ばか、ばかな人だ……」
「本当だ。その通りだ。俺がばかだった」
「また、まただめだったのかと、思いました……」

 ぐずりぐずりと、鼻水まで垂れ始めている。せっかくのイケメンが台無しだ。台無しにしているのは俺か。
 その瞳を見れば、脳裏に蘇ったそれが、間違いではないと確信を持てた。

 “僕はあなたのこと憎からず思ってます。わかりますか?”

 いつからか、いつだか耳に響いていたあれは、確かに彼が、俺に言った言葉だった。

「思い知った、ようやく。ありがとう、れい。いいや――」

 零。
 俺がそう言うと、彼は目を見開いて、更に雫を溢れさせる。眉を下げ、口元を歪めて、はは、と笑った。

「……遅い、遅いんだ、お前は……」

 そう呟くように言って、俺の左手を取り、元々握っていたものと一緒に、褐色の手で包みこんだ。
 ずいぶん細くなった。皮の下にはすぐ骨があるのじゃないか。そうしたのは俺だ。巻かれた包帯は恐らく、そんな有様で人間を殴ったから。筋肉も骨も向こうのほうが丈夫だっただろうに。何から何まで俺のせいだ。

「僕だって知ってるんですよ。ずっと呼べなかった。呼んで、応えてくれないのが恐ろしかった。でも、もういいです。きっと“あなた”は、もう大丈夫だから。ここまで来たら、きっと生きていける。だってもうあなたの命日はないんです。僕がいなくなっても平気だ。僕は、多分もう要らないから」

 くしゃりと、下手くそな笑み。

「だから、一度だけ、呼ばせてください。
 ――十夜」

 それが、愛おしくてたまらなかった。


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