*幸福への憧憬

 ぴろ、と可愛らしい電子音の後、テーブルに置いていた端末の画面が点灯し、送られてきたらしいメッセージが表示された。

 “お前のせいで二十ドル損した!”

 よくもまあ飽きもしない。思わず笑いが漏れてしまった。
 これに懲りてギャンブルはやめろ、というと、ロトだって馬券だって買ったことない、と返ってくる。なるほど、それでホイホイやってしまったわけだ。人間成功体験を根拠もなく真似るだけじゃだめだと分かったな。勉強代として大人しく支払う他ないだろう。まあまあ今度奢るからと言えばノリノリで乗ってきたから、もしかしたらはじめからそれが狙いだったのかもしれない。
 夏も中頃、街を行き交う人間はみな薄着で、俺だってそうだ。そんな中同僚たちはまたしても俺がいつまでニット帽を被っているかをネタに賭け遊びをしていたらしい。なのに早々着けなくなってしまったものだから、先程から彼以外にもぶーぶーと文句を垂れるメッセージが来まくっていたのである。
 脱いだのは彼女がやめろと言ったからだ。「ただでさえ暑いのにそんな格好で目の前にいられたらたまらない!」と。そう説明すれば誰もが納得し、そして彼女を褒めるのであった。元々の人望もあり、彼女は些細な事で評価が鰻登りするところがあるな。


 ――ニューヨーク。もう懐かしさも薄れてしまった。
 最終的に日米どころか複数ヵ国を巻き込み大規模に膨れ上がったおまわりさんギルドだったが、メインクエストであった組織の打倒解体が成功し、共同で行わなければいけない大事は済ませてしまった今、協力体制は未だ保ちつつもひとまず解散の体をなし、各々の捜査官は自国での処理に回ることとなり、あるいは本来すべき通常の仕事へと戻っていた。
 日本警察とその救世主が軸となっての行動であったものの、FBIも作戦にはそれなりに貢献出来たことだし、手柄も収穫もあり、働きとしては充分であると日本から撤退をしたのだ。それがもう半年前になる。
 今は、崩壊時のごたごたに紛れていなくなったジンとベルモットの捜索をしながら、以前と同様日々舞い込んでくる別件の捜査も並行して行っていた。本部に戻ったジェイムズからの誘いもあって、近々ここも離れることになるのかもしれないが。

 汗をかくグラスを掴み、からりと氷を回したストローに口を付け中身を吸い上げたが、相変わらずその冷たさも苦味も伺えやしない。もう片手でかぶりついたそれも、ただ食感だけを与えるに過ぎない。
 それでも、彼女がおすすめだと言ったものだから、己が選んだものよりも、他の誰かに貰ったものよりも、よっぽど満足感を得られる。
 オフィスに戻ったら礼を言おう、と思いながら、それらを胃に納めていたとき。

「あら、随分間抜けな顔」

 すぐそばで響いたのは少女の声だった。
 声の方へ軽く首を回してみれば、八歳くらいの少女が、テラス席に座る俺を見つめ目を細めていた。幼い顔立ちに似合わず、妖艶ささえ滲ませて。

「なんだか面白みのない着地点ね。まあでも――見守ってあげるわ、エンジェルとの約束通り」

 踵を返した少女が、ふわりと靡かせたのは、ゆるく波を打つプラチナブロンドの髪だった。
 ――まさか。
 グラスもサンドイッチも放るように置き、テーブルのスマホを取ってがたりと席を立った。発信して耳に当てながらその小さな背を追うが、少女は矮躯を活かして人混みを上手くくぐり、あるいは盾にしてするすると遠ざかってく。

『もしもし、どうしたの?』
「いたぞ、魔女だ」
『なんですって!? ――行くわ!』

 彼女の端末へ位置を発信するよう設定をしてから、スマホを懐に仕舞う。
 少女のプラチナブロンドは夏の陽射しに照らされてキラキラときらめき、行き交う人間の隙間から垣間見える。本当にあの体で走っているのかというくらいすばしっこい。
 それは不意に脇の路地へ入った。
 追いかけたところ、路地にはその姿が見えず、ただ関係もなさそうな人間がいるだけ。目につくのは奥の方で今しがた閉まった扉。駆け寄って開けてみればその建物は飲食店だったようで、店員らしい男が怪訝な表情でこちらを見た。

「FBIだ。今少女が来なかったか。八歳ぐらいの、プラチナブロンド」

 俺の取り出した手帳に男が目を見開き、事態が飲み込めないと言った様子までも店内を指さす。

「え、ああ、ええと、正面口使わせてくれって……」
「そうか、ありがとう」

 通り抜けて外へ出ると、先程通ってきた道と交差する道だった。人通りも多ければ車通りも多く、とてもじゃないがどこにいるともしれない小さな少女など見つけきれない。見回してみても視界にあのきらめきは捉えられない。参った。

「逃げられちゃった?」

 ヒールの音を軽快に鳴らしながら近寄ってきたジョディが、ため息をついて肩を竦めた。顔にはありあり悔しいと書いてある。

「……すまない」
「その場で即座にとっ捕まえられれば一番良かったけれどね。でも、生きてることが分かればしめたものよ。容姿は?」
「少女。十もない」
「それって――、いいわ、念のため“彼ら”にも周知しておきましょう。あの子に連絡は取れる?」
「ああ」
「そっちは頼むわね。ともかく軌道修正が必要だわ。どうせ今から闇雲に探したところで、見つかるような女じゃないでしょうし――一旦戻りましょう、トーヤ」
「分かった」

 かつりかつりと、彼女の歩みが俺を導く。その手はさらりと俺の腕を取った。
 それだけで、両足は軽やかに、彼女へ並び立つよう動く。

「ああ、そういえば、ジョディ」
「なあに」
「こないだ言ってたカフェのサンドイッチとコーヒー。良かった」
「ほんと?」

 彼女はいつも何気なく勧めたつもりで、俺がそうして感想を言うのを楽しみにしているのだ。俺もそうして、彼女が安心したよう、嬉しそうに笑うのを、心底楽しみにしている。
 お互い承知の上で、下手くそに秘めながらするそのやり取りが、擽ったくて、嬉しくて仕方ない。
 その幸福感と彼女の笑顔が、彼女の生が、俺を生かす。


 まだ飲み込めないことも、噛み砕けないことも、折り合いの付けられないことも沢山ある。
 だがこうして、彼女のために走り回るおまわりさんも、まあ、悪くない。
 ――どころかこれこそが、多分、俺が現実として望む日常だ。


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