K-2

 近衛さんはオレの顔を見て、どうしてかビクリと震えた。いつもはこんなことしない。違いがあるとすれば――沖矢昴の顔?
 慌てて片手でマスクを剥いで、それから改めて両手を握る。

「オレのことわかる? 今は聞こえる?」
「……快斗くん」
「そうだよ」

 近衛さんには“聞こえない”時があるのだ。そして、いつもオレとは違うものが見えている。あの小さな医院で鍵をつけ仕舞われていた“近衛十夜”のカルテに書いてあったことが、本当なら。
 おそらくFBIに協力しているだとか、懇意にしている医者なんだろう、近衛十夜と沖矢昴、どちらも最低限の記録しか残されていなかったし、FBI捜査官としての名前だという“赤井秀一”については、覚えているかぎり全くなかった。だからオレが知り得たのは、初回に訴えたという、この人の耳と手に残る“恋人”について、そしてそれが今なお変わらないこと。思い返せば初めて会った時から、時々返答がなかったり遅れたり、やたら手を見つめていたりと、そんな素振りがあった。

「近衛さん」
「……」

 薄暗い部屋の中、液晶画面は煌煌と輝いていて、自然とその中身は目に入ってしまう。もともとそーいうのも得意なせいで余計。見ようによっては感動的なほどの文章だけれど、この人にはこれが辛いものだったんだ。

「オレにとって、あんたは近衛十夜さんだ」

 そして、きっとこれは少なくともこの人に届いた。
 ほんの小さな力でオレの手を握り返してくる。たったそれだけを、ひどく難しいことのようにする、この人のこころに。

「あんたの仲間が来てるよ。“敵”を倒すために話し合いするんだって」
「……仲間」
「FBIを呼ぶっつってた」

 そうか、と短い返事。
 聞いた限り、近衛さんたちFBIは“敵”を追っていて、しかもそれはなかなか手ごわいらしい。事態が進展して協力者が増えるのは良いことだろうに、その声色はどこか苦さを含んでいる。

「なあ、近衛さん。キッドはあんたに協力できないぜ。怪盗だから」
「……構わない。はじめから当てにしているわけじゃない」
「……全くアテにされてねーってのは、それはそれで癪っつーか……あの列車のときはあんなに手間掛けてオレを誘ったくせに」
「あの子が、きみがいいと言うから」
「……それも癪だな……」

 いちいち出てくる名探偵に物申したいところはあるけど、ひとまず今はそっちじゃない。
 ぐ、と手に力を込める。

「――でもさ、快斗は違う。あんたの手を取ることができるし、あんたのためになることを選べる。選びたいと思う。あんたと一緒だよ。あんただって、赤井秀一じゃない、近衛十夜だから、オレを助けてくれたし、オレのことかわいがってくれたんだろ」
「……」

 近衛さんが、ぱちりと目を瞬かせた。

「オレの思い違い?」

 首を傾げてやれば、さらにぱちぱちと。
 記憶がないことなのは承知の上だけど。

「いや……そう…………そう、なんだろうか……」
「そうなんだよ」
「そう、なのか……」
「そうそう。今だってあんた、オレに甘いじゃん」
「……かもしれない……」

 人に忘れられることは結構ショックだ。嫌というほど味わった。それは自分を認めてもらえないのと変わらない。――だから分かる。
 思い出すきっかけになるかもしれないし、そうでなくても、それが本当だと信じてくれたらいい。少なくとも確かに“近衛さん”はいるし、いていいんだということを、わかってくれたら。
 ちょっとした期待を持ちながら、考え込むようにする近衛さんの反応を待っていれば、不意に、近衛さんは心底不思議そうに、なぜだろう、と零した。

 それから、まるで独り言のように、

「きみがいると、気が緩む……」

 ぽつりと言って――ずいぶん柔らかい声で言って、小さく笑うもんだから。
 ずいぶん柔らかい目をして、オレをとろりと見るもんだから。

「えっ――、あっ、そ、そう? ほ、ほらな? やっぱりそうなんじゃん? えーとアレだ、あんたオレがスキなんだ」

 なんだか一瞬頭の中がぱんと破裂したような感じがして、それから口が変な動きをしてしまった。
 そりゃあの、オレがふっかけたけども。急にやるもんだから。その、今までとはどこか違う、はじめてするようなもんだったから。ちょっとびっくりしてしまった。するだろ誰でも。
 さらに真面目な顔してそうなのかと悩まれるのも恥ずかしい。でも言ってしまったものはしょーがない。

「と、とにかく、オレ、今日は帰るよ。あんたはこれからあの人たちのとこに行かなきゃ。そんで近衛さんは、また一緒に飯食おうぜ。はい約束」
「ああ……」

 指切りの真似事をすると、近衛さんはまた表情をほころばせる。少し前までとは違う意味で変だ。おかしい。大丈夫なのかこれ。
 そうは思いながらも、誰かが階段を登ってくる微かな音がしたから、慌てて窓から飛び出す。なんだかむずむずして、うっかり庭に落ちかけた。


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