飼育

 そんなことってありますか?
 いいえ、ありえない。昨日まで使えていた定期や電子マネーが急に使えなくなって、身分証を偽造だと言われて、家も職場もなくなって、親兄弟親類友人知人全てがいなくなってしまったんです。電話はどこにも繋がらない。メールはどこにも届かない。私はそれをおかしいと思うんです。私以外誰もおかしいと思わないことを。おかしな話です、とんでもなく。

「だから、私は病気なんです。ここは私の本当の世界ではなくて、ここは私の知らない世界で、私はこの世界を知らされてるんじゃないかっていう妄想に囚われてるんです」
「ああ、君は病気だ。かわいそうに、突拍子もない妄想に囚われて、現実が分からなくなっているんだ」
「やっぱり」

 穏やかな声。それを聞くと、私の心に溜まった澱が洗い流されていくような気がする。

「ありがとう、先生。こんな変な話、誰もまともに聞いてくれない。誰も信じてくれないんです。嘘だろうって笑うどころか、聞く価値もないと思われる。仕方ないですよね、だって私もそう思う。こんなのただの時間の無駄だし、面倒なだけだって。――ああ、ごめんなさい。先生にとってもそうかもしれない。つまらないことを強いてしまってる。でも、先生が耳を傾けてくれるお陰で、私は確実に救われています」
「そうか、ならば何よりだ。なに、気にしなくともいい。君の話を聞くことは、俺にとっては苦でもなんでもない。むしろ有益ですらある」

 そんなこと、これっぽっちもないことは百も承知だ。私はそれでも嬉しい。先生は、私を慰めるためにそんなことを言ってくれるのだ。

「さて、では――君のその狂った頭では、この先どうなると出る?」
「そうですね、RDX、BMNB、ジオクチル、ポリマー。ただそれはフェイクで……くろいひとたちは、ほんとうは、目が欲しいんです。刳り貫きたいの」

 どこからか頭に湧いてくる、得体の知れない宙ぶらりんの言葉を口にするだけで、先生は楽しそうに口端を上げてくれる。

「なるほど。面白い」

 ありがとう、とまで言ってくれた。
 目線を合わせて、瞬き一つ。
 先生が胸ポケットから携帯を取り出す。ああ、もう時間なんだ。私がたくさん話してしまったから。先生が話す時間がなくなってしまった。もっとおしゃべりしたいのに残念だ。でも先生だって忙しい合間を縫って来てくれているのだ。これだけ割いてくれたことに感謝しないと。

「先生、いつ名前を教えてくれるんですか?」

 「君が己の名を思い出したら」と、いつものように短く言って、先生は部屋を出ていった。

 ガチャリと音がして、部屋は一気に静まり返る。
 途端また、変な言葉や映像たちが頭に雪崩込んでくる。そのぶん、昔持っていたはずのものがぼろりぼろりと崩れて砂になり、風に飛んでいくような心地がする。
 先生。口の中でつぶやけば、少しだけ不安な気持ちが紛れる。大丈夫、先生さえいてくれれば。

 ――ああ、でも、そういえば、私はいつ、どこで、どうやって先生と出会ったんだろう。
 私はどうしてこんな生活をしているんだっけ。
 白衣ではなく黒い服、室内でも被りっぱなしの黒い帽子、すこしウェーブした黒い髪、緑の、鋭い瞳。先生は、何の先生?
 思い出せない。失礼なことだ。失礼なことを考えると、悪い考えを持つと、頭が痛くなる。――やめよう。

 いいんだ。それでも先生は、ゆるしてくれるから。私の言うことを、私を。
 私がここに、いることを。


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