Good comes

 星はどこでだって煌めく。
 その光が見えるかどうかは、自分が描けるかどうか。

 心のポエム帳がまた一ページ……と悦に浸りつつ空を眺めていたら、ふと珍しい香りが鼻を掠めた。
 実際には空は狭く地は眩く僅かな星さえ見えないコンクリートジャンゴゥ、このアパートのベランダにはよそから漂ってくる余地はないため、この香りが風上から流れてくるということは、ここの一つ隣にある角部屋から以外ほとんどありえない。ありえないのだが、そのこと自体がむしろありえないというか。
 すん、と鼻を啜るようにして空気を吸い、やはりと確信を得る。思い切って柵に手をかけて首を回せば、黒い影が視界に映った。
 夜目が悪い方でもない。すぐに馴染んで、その様相がはっきりと見て取れた。体格の良い男で、ラフな黒のTシャツに黒いニット帽、夜に溶け込むようながら、白い肌が浮いて見える格好だ。どこともしれない虚空を見て、口元に咥えた煙草を指二本で挟み、そこから伸びる肘を柵につき上体を支えている。

「あのー」
「……」
「あのーー」
「…………」

 へんじがない。最早ここまで言えば定型文ではなかろうか。

「生きてます?」
「……生憎な」
「いや別に死んでたらいいななんて思ってないですよ」
「そうか」

 短く言って、男は静かに煙草の先を赤くした。おー生きてる生きてる。
 さすがにオレもその問いが失礼なことだとはわかっているし、誰にも彼にもそういう態度を取るわけではない。信じられなかったのだ。このアパートは壁が薄いので隣人の生活音はもはや同棲にも等しいほど、は言いすぎかもしれないが、結構だいぶ聞こえる。
 それなのにこの男の部屋からは、今この男の顔を見るこの時まで、うんともすんとも音がせず無音だったのだ。しかも隣室は長らく無人の状態が続いていた。

「もしかしてドロボー? 詐欺?」

 近頃世間様では詐欺で使用する物品や得た金なんかを空き部屋に送付し、あたかも住人のような顔をして受け取るというヤツの被害がよくあっているそうな。それで管理人さんはマメに見回りに来るようになったし、内覧で下見されることもあるということで鍵の置き場を変えたらしい。

「そうだとして、正直にイエスと答えると思うのか?」
「しないと思います」
「……三日前から住んでいる。列記とした住人だ。契約書を見せてやることは出来ないが、不審あらば管理人に確認を取るといい」

 ここまではっきり言い切られると大丈夫かなという気持ちになる。
 それもハッタリだったりしないだろうか。詐欺師は堂々とものを喋り人を信用させるという。だが人当たりよく見た目も親しみやすい感じが多いとも聞くから違うかもしれない。いや大変失礼ながらこの人犯罪者ですと言われたら頷けそうな顔をしているのである。
 男はオレを睨みつけた。ように見えるような視線をオレに送ってきた。失礼なこと考えてるのがバレたのかもと思いました。

「君は?」
「えっ、隣人ですけど……」
「長いのか?」
「住んでからってことですか? ええ、まあ、少なくともここに馴染むくらいにはいます」

 ホーっと興味がなさそうに小さく伸ばすと、男はさっと視線を外して、伸びた灰をベランダの向こうへパラパラ落としてから短くなった煙草を咥え直し、体を引っ込めてしまった。からり、と音がする。硝子戸を開けたのだろう。
 普通そこでやめる? これまだ話続く空気じゃなかった? 
 思わず衝立から身を乗り出して覗き込み呼び止めると、男は首を回すのみでこちらを振り返る。いかにも面倒そうな素振りだ。

「お名前は?」
「好きに」
「そんな事言ったら黒ニットとかコンビニ店員の背筋も凍るセンスの欠片もないあだ名で呼びますよ」
「どうぞ」
「まじ……? 正気……?」
「さあな。それだけか?」
「ああ、あと、灰を捨てんのはよくないです。その状態でも咥えてて部屋に戻るってことは、灰皿かそういう類のもの自体はあるんでしょう。めんどくさがらず外にも持ってきましょうよ」

 またはベランダ用に買うとか。
 俺の言葉に、男はほんのり口角を上げ、

「君は割と善良なたちであるのかな?」

 それだけ言ってさっさと部屋の中へ入っていってしまった。
 なんだかとても不自然さや不完全燃焼感があるが向こうにとってはそうじゃないということか、あるいは興味がなかったか煩わしかったか。それでも普通失礼しますとはいかないまでも、どうもだとかおやすみだとか、それなりに区切りをつけたり、そういう空気を作って自然を装い会話をやめたり別れたりするものではなかろうか。
 飽きたからやーめたがまかり通るのは小学生までじゃない? だよねーキャハハと一緒に笑ってくれる友達がいなかった。
 それにしても、引っ越しの挨拶という文化はもう廃れてしまったのだろうか。時代は変わったんだなあ。女性の一人暮らしなんかは危ないからしないほうがいいとかも言うらしいしな。黒ニットさんは上から見るか下から見るか迷う余地もなく男だったけどな。




「あ」

 アパートの前、小さな紙袋を片手に歩く男。見覚えがあると思ったら、昨日の黒ニットさんだ。
 手を振ってみたものの振り返すどころかノーリアクションでエントランスへ入っていこうとするのだから相変わらずマイペースな人である。しかしそれではまるでオレが人違いで知り合いミッケ顔した間抜けみたいで恥ずかしい。

「黒ニットさーん」

 隣に並んで声をかければ、さすがの黒ニットさんでもスルーしづらかったのか、ちらりとこちらを見遣り、サングラスを外してシャツの胸元にひっかけた。
 もうほとんど陽は沈んで西日もなく薄暗く、あたりの景色はどちらかといえば夜と言っていい有様なのに、昼から掛けっぱなしだったのか完全におしゃれなのか。瞳の色素が薄いようなので、この程度でも彼には眩しいのかもしれない。オレには分からん。

「……なんだ」

 問いながらも足は止めず、黒ニットさんはさくさくと進んでいく。

「買い物ですか」
「ああ」
「へえ、何を?」

 黒ニットさんは、折り曲げた指の背でサングラスのふちを軽く叩いて見せた。なるほど。紙袋はそれのものらしい。もしや顔に似合わず買ったばかりでウキウキしちゃってたのか?
 そう広い建物ではないため、部屋まで付いていけばあっという間だった。
 鍵も簡素なもので、穴に挿してひと捻りするだけのもの。内側にU字ロックはあるがこれって外から開けられちゃうらしいな。要するにこのアパートのセキュリティはガバガバである。

「おじゃましまーす」

 といったのはいたずら心だ。一緒に扉の隙間を覗き込むポーズをしてみたところ、黒ニットさんはそれを遮るどころか、むしろ更に扉を大きく開けて、オレが入れるほどのスペースを作ってみせた。入っていい、ということらしい。そういうことをすると思わなくて二度見してしまった。
 でもいいなら遠慮なく、と体を滑り込ませる。

「別に玄関からでなくとも構わんが、君は律儀だな」

 玄関以外ってどこ? それ不審者でしかなくない?
 一体オレはどんな非常識だと思われているんだ。そんな要素疑わせるような行動別に取ってないだろ。それが黒ニットさんの常識だったらオレ付いていける自信がない。オレのことは置いていけよ、お前は高みへ行け。
 数歩入って見回す。作り自体はオレがいるところと変わりない……ということを思い出させるような内装である。そうそう、こんな壁だった、こんな床だったんだな、という。

「なにか面白いものでも?」
「いや逆になさすぎてびっくりした」

 本当に入居の手続きをしたんだろうなという疑心が再び湧いてくるような光景だ。つまり、ものが全くない。引っ越したすぐでまだ荷解きが済んでいないとかそういうレベルじゃない。そういう場合にありがちなダンボールすらも見当たらないのだ。
 部屋の隅にベッドが一つ。終わり。ホントです。
 家具らしい家具はそれだけしか見当たらない。衣類や日用品なんかはいくらか備え付けの収納に仕舞っているんだろうが、机もなければソファも棚もなく、リノベーションした小綺麗なワンルームは冷え冷えとして見えた。申し訳程度の小さな冷蔵庫にはボルビックとハーゲンダッツしか入っていないんじゃないかと思わせる。

「茶でも出すべきか?」
「いやおかまいなく……」
「こんなつまらん所でよければ、飽きるまでいるといい」

 そう言うと、黒ニットさんは部屋の隅に無造作に積まれていた本のうち一冊を引き抜き、そのそばに腰を下ろし壁に凭れて読み出してしまった。洋書かそれ。本当に読んでるのかそれ。上下逆さまだったりしないか。しないか。
 ケツが痛くなりそうだ。座布団くらいは買ったほうがいいんじゃないか。オレがそう話しかけると、検討しておく、と短い言葉が返ってきた。




 黒ニットさんはニンジャもびっくりなほど音を立てずに生活しているようだが、流石に扉の開閉音だけは微かに聞こえる。それから察するに、基本的にはずっと家にいる様子である。
 朝にシャワーを浴び、その後か夕方どちらかに外出して、食料と日用品、それから新聞や本を買って帰ってくる。それ以外の時間は、食事や喫煙のほか、ずっと読書をするというのが、彼の日常であるようだ。
 弁明しておくが、決してオレはストーカーではない。あれからというもの、オレはしばしば黒ニットさんのお宅にお邪魔しているのだ。ちょっと好奇心で訪れてみたところ普通に迎え、てはいないかもしれないが入れてくれて、何度か行っても拒まれなかった。その調子で繰り返している間に、頻度と時間は伸びた。当人の認める範疇で、自然と生活サイクルを把握できたのである。
 彼から訪ねてくることはないが、オレが訪ねれば、彼はごく自然に扉を開けてくれる。
 そうして上がり込んだガランとした部屋の中、ポツポツ話をしたり、黒ニットさんが喫煙や読書をしているさまを眺めていたり、何もせずに寝っ転がっていたり。
 なんだか友人のようだなあと思っているのは俺だけかも知れない可能性はわりと高い。

「黒ニットさんさ」
「……」
「漫画とかは読まないの?」

 てっきり今回の投球はスルーかと思いきや、黒ニットさんはほんの少しだけ本から顔を上げ、「ああ」と言った。

「……あまり、馴染みがない。子供のものを流し読みしたことならあるが」

 一切読んでません、みたいな回答を予想していたもので、意外だった。子供が読んでいたものを見たことがあるということは、身近に子どもがいたということである。

「まさか子持ち?」
「いいや。結婚もしていない」

 そうだよなあと、まっさらで跡もない左手を見てなんとなくホッとした。漫画も読めるような子供が要るのにも関わらずこんなところに一人で移り住んでくるなんて明らかにワケありである。聞いたくせになんだが、そんなワケを話されたところでオレでは処理出来ないし良いリアクションは出来ない。

「じゃあさ、おすすめの漫画教えようか。ファンタジーとか好き?」

 本を見る限りミステリー好きかななんて推理をして、それ系に加えて個人的に好きなファンタジー漫画も混ぜ入れてプチプレゼンをしたものの、黒ニットさんは「なるほど」と言いながらついぞ買ってくることがなかった。

 その後の部屋の出入りからして完全に往復程度の時間しかないので、漫画喫茶に行っているとか古本屋で立ち見しているということでもなさそうだ。本人曰く「売っていなかった」ということらしいが、まあ食指が動かないのだろう。オレもそこまで読め読めと押し付けがましいオタクではない。ひとまず名前を知ってくれれば充分。あとは思い出して気が向いたときに、できれば作者が生きている間に、ふっと読んでくれればいいのだ。その時はよろしくな。いやでもせめてもふもふの良さだけは分かって欲しい気もする。

「んなぁー」
「……なんだ?」
「いやなんでも……」

 思ったより気持ち悪い仕上がりの声になってしまった。これは一生封じよう。



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