03

「見覚えは?」

 と、聞かれて、ひとまずうーんとは考えてみた。
 赤井さんが車を留めた路肩、ぼくに問いかけるため視線を移したサイドガラスの向こうに佇んでいるのは、一見なんの変哲もないマンションである。
 というか、多分本当になんの変哲もないマンションなのだと思う。どこか別の場所にでも似たものはありそうな風体で、見たことがあるようなないような、ひょっとするとあるかもしれない、なんて感じの気持ちが湧く。
 けれど、赤井さんが聞きたいのはそういうことじゃないということはさすがのぼくでもわかったので、おとなしく素直に「わかりません」と首を振る。
 赤井さんはその返答を予想していたようで、別段落胆した様子もなく「なら駐車場も分からんか」と言って、辺りをさっと見回し、マンションのエントランス横の奥にある、来客用らしきスペースにさっと車を移動させた。
 念のためというか一応といったノリで、部屋の場所は? とも聞いてくれたのだけれど、ぼくは相変わらず扇風機よりちょっと早く首を振るばかりである。
 それから何かを確認する素振りも迷う素振りもなく歩みを進めた赤井さんの背を追っていくと、ある扉の前に着いた。これまでの廊下脇にもいくつかあった、カードキーを認証させるタイプの玄関扉。
 カードキーはエントランスを潜るときにも必要だったので、財布に収まっていたそれは、もうすでに赤井さんに渡してある。赤井さんはまるで自分の家に帰宅したかのよう、あたかも住人のような自然な動きで解錠し、扉を開いた。
 中に入れ、と視線で促される。

「ほんとにここ、ぼくの家なんですかね?」

 扉の向こうに広がった光景に、あまりにも見覚えがなく馴染みがなさすぎるもので、つい不安になって聞いてしまった。

「さもなくばこの鍵では開くまい」

 赤井さんは片手で扉を支えながら、ひらひらとカードキーを揺らしてみせた。そりゃそーである。

「君がこれをどこぞの人間から盗んできただけだというなら、話は別だが」
「ひえ、窃盗犯」
「他人から掠め取った住居を我がものとして届け出てそれが受理され、更には職場や共済組合にも認められ公文書にまで記載されて、これまでなんの咎めもなくいるというのなら大したものだ」
「ほんとですねえ、なんだかスパイみたいじゃないですか?」
「……近いことはやっていただろうがな。しかし流石にちゃんとそのために手配された物件や情報でだろう」

 えっそれどういうこと? と首を傾げて、そういえばぼくはひみつ警察だったんですっけ、と言えば、赤井さんはちょっぴり気が抜けたような、呆れたような顔つきで軽く息を吐いた。

「ともあれ確実に君の――降谷零君の名義で契約されている部屋だ。裏は取ってある。だから入れ」
「あ、すみません」

 慌てて敷居を跨いだ。赤井さんはずっとぼくを待って扉を開け続けていたのである。ぼくが玄関内におさまってしまうと、赤井さんはすぐに続いてきて、さっさと扉を閉めた。

「はー、綺麗なもんですね」

 改めて見てみると、寂しいとも言えそうなすっきりとした内装だ。
 三和土に靴や傘はないし、棚の上にも鍵や郵便物が散らばっていることもなく、どころか奥の部屋まで廊下にもものが見当たらない。ぬいぐるみや観葉植物やウォールステッカーといった飾りっ気も一切ない。ただ、棚の上や廊下の隅にはちょっぴり埃が積もっている。
 中身が気になって靴箱を開けてみる。革靴、スニーカー、ブーツがそれぞれいくつか。終わり。履きはしているようだけれど、汚れは別段なく、控えめな経年劣化が多少あるのみで、ちゃんと手入れがされているのが伺える。
 なんだかどれも、ぼくのものとは思えない。ぼくがこんな場所を選んで、こんなふうにして、こんなものを買っておくだろうか?
 うーん、と首を傾げながら、革靴を一つ引っ張り出してみる。
 黒い革が上品に光る、内羽根式のストレートチップ。眺めて床に置いたところで、改めて自分も今革靴を履いているのだと気づいた。似たような形で、こちらのほうが少し使い込まれた感じがする。その紐を解いて足を抜き、新しく出したほうに差し入れてみればすぽりと入った。あとは紐を締めてしまえばおそらくぴったりだ。

「わあ、シンデレラ」

 買った覚えも見覚えもない靴が、まるでぼくのために作られたかのように足を包む。なんだか不思議な気分だ。
 面白くなってほとんど反射でスマホを取り出して、ハッとする。

「あの、赤井さん」
「ん?」
「靴の写真は大丈夫ですか?」

 赤井さんはちょっぴり目を見開き、もしかしたら彼にとってはこれが“キョトン”というものかもしれない表情をして、すぐさま戻した。

「……まあ、いいだろう」
「じゃあ、風見さんにも送っていいですか?」
「風見君に?」
「はい」
「彼なら別に問題はないだろうが……」

 脱いだ靴と履いた靴とを並べ、どの角度で撮ろうかななんていくらか迷ってパシャリ。
 そんなぼくを、赤井さんはやや不可解そうに見ていた。赤井さんはあまり友達とメッセージをやり取りしたりしないタイプの人なのだろうか。こんなにハイテクで楽ちんにおしゃべりできるようになっているのにもったいない。





 実によんどころない事情により、上司が仕事を抜けざるを得なくなった。それにより、その上司の抱える情報やノウハウを、同僚のうちでは最も多く与えられ把握していた風見は、上下ともに信頼が厚かったこともあり、ごく自然な流れで空いたポストにおさまることになった。
 潜入捜査の時分にはさておき、活動の場が主に察庁へと移ってからというもの、風見は上司のすぐ間近で、その働きぶりというのを見てきている。おかげで急場は凌げたが、長く続けば難しい。この機に少しは休んでほしいという気持ちもなくはないが、出来る限り早く復帰してほしいという気持ちのほうが、ほんのりと胃痛のはじまりを自覚した風見としては強かった。以前から分かっていたことではあったが、平時の己のやり方では到底終わりそうもない仕事の山を前にして、改めてしみじみと感じた。己と上司とでは、あらゆる処理能力においてそもそものスペックが違うのである。
 夕暮れ時、差し込む橙を横っ面に受けながらパソコンへ向かっていた風見の、ジャケットのポケットにしまわれていた端末が不意に震えた。取り出して見てみると、メッセージの着信を知らせるポップが浮かび上がっていた。

 “シンデレラ”

 綴られていたのはたった五文字だ。
 いや、正確に言えば、七文字である。カタカナ五文字の後ろには、赤いハイヒールの絵文字と、キラキラと光るエフェクトのような絵文字が並んでいた。
 メッセージと同時に画像も送られてきていた。革靴が二つ並ぶ写真。しかもどちらも右足。左側の一方からのみ足が伸びている。記憶を手繰るに足の入っていない方は、上司が今日履いていたものだ。家に着いて、左側の靴に履き替えた、ということだろうか。なんとなく状況は察せられたが、これがどういう意図でもって送られてきたかということについては、風見はなかなか確信を抱けなかった。帰宅の報告であるのか、もしやそういう、単なる世間話というか、いわゆるネタとしてのメッセージなのか。

「……」

 風見は、ゆっくりと指を動かした。





「あ、返ってきた!」

 にこにこと少年のような笑みを浮かべて、己を殺したいとまで言っていた男が、喜々として端末の画面を赤井に見せる。

 “ぴったりですね”

 そのメッセージがたどり着くまでの時間と、語尾にキラキラと光る絵文字に、男の部下の苦悩が見えた。


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