17

 己の断りなしに書類を十センチ動かされただけで怒り狂うという、元来他人の手出しを好まず、というよりも嫌い、そして神経質な男だ。
 男の神経が擦り減らされていくさまは、炙り出しの要領で綴られた白文字の日記でありありと見て取れた。わざと残された、何者かが自宅に侵入したと分かる形跡にすぐさま気づいて不快を示し、そしてその正体を捉えられないことに憤りと不安を感じ始め、それはみるみる内に亢進し、男はあっという間に精神の均衡を崩した。
 だがそれは経過を振り返ってからこそ言えることであり、最中の変化というのはそう劇的でもなく、そうして些細な違和を散りばめて目の当たりにさせ、継続して行うことで逃れられないことを理解させ、じわじわと追い詰めることが目的であったので、施した仕掛けもさほど多くはない。
 それなのにキルシュは、それについて頻繁に報告を求めた。

 ――正確に言えば、女は、だ。
 どうやら僕を呼び出したいのは女の方のようで、キルシュはあの女の望みを叶えているだけにすぎないようであった。流石に二度も三度も繰り返せば、そのくらいのことには気づく。
 せいぜい、ペンや書類を動かしてやっただの、監視カメラを器用に避けてやり、交換された鍵も難なく開けてやったことなどを語ってやり、日記のデータを渡して読み上げてやる、その程度の短いお喋り。それを聞くだけならどこでも構わないだろうに、女は毎度毎度、僕をキルシュの部屋まで呼び出し、キルシュの傍に侍って彼に酒を飲ませ、手ずからものを食べさせながらという形を取った。
 キルシュは明らかに嗜好とは違うだろうそれらを、微塵も渋い顔をせずに口にし、甘い声で美味いと、その酒やつまみを、そして女を褒めるのだ。
 常に鳴り響いていたファンの駆動音が止まった部屋。風呂を面倒がっていたのが嘘のようにいつでもソープの匂いがしそうな清潔な体に、僕が訪れていた時には一度も見せたことのないまともな服を身に纏い、それを女が乱すのを許す。女の高圧的で挑発的な物言を咎めもせずにしらと聞き流し、同調するような言葉まで紡ぐ。僕には殆ど目もくれず、女のつくりだけは美しいかんばせを愛でるように眺めている。時にはその頭を、女の腿に乗せて眠りこけることまで。緩く伸びた黒髪を弄り、生白い頬を撫でて、女が僕に、得意げで煽るような笑みを向けてくる。――やってられない。
 なんだってそんな姿を見せつけられねばならないのか。
 そもそも呼び出されたのはこちらだというのに、まるで空気の読めない邪魔な人間のようにその様をただ立ち竦んで見つめ、どちらかの――キルシュは言った試しが無いので、正確には女の――退出を促す言葉を、許可する言葉を、馬鹿みたいに待っていないといけないなんて。
 女のそれはマウンティングだ。執拗に繰り返されるそれは、己の優位を示し、劣位である僕との上下関係を浮き彫りにさせ、それを僕に理解させ、徹底的に刻み込み、揺るがず確たるものであるという事実を築こうとしているのだ。
 別にそんな事をしてくれなくとも、組織においての立ち位置さえ表してくれれば、己を下に置くことも相手を持ち上げ媚び諂うことも厭わないというのに、わざわざそうして拙く馬鹿らしい手段で行われれば辟易するし腹が立つ。
 きっとそれも女の意図するものなのだろう。試されているのだ。
 キルシュとは違い、女の行為は家畜に対する選別に近い。口枷や引き綱が無くても操縦でき、きちんと躾通りの態度を取れる従順な犬かどうかを、“あのお方”の抱える敷地内で粗相をしない、大人しく尾を振るよい犬であるかどうかを、見極めようとしている。“お利口”にしていればそのうち、良質な住居と食事を与えられ、その尊い手で引き綱を持ち、背や顎下を撫でて貰えるのだとちらつかせながら。


 いよいよもって弱った男が、引き出しに入れていた、取引に応じるとのメモ。
 それについての報告をすると、女はようやく、何の実にもならない揶揄を飛ばしたりキルシュへのじゃれ合いを見せつけたりするでもなく、僕の行動について指示を下した。承諾の言葉と共に、己の言う数字を書き込んで返事を出せと。恐らくは知られても問題のない使い捨てのものだろうが、それは女に繋がる電話番号だった。
 男は二週間ほど迷った末に電話を寄越してきた。
 ちょうど、男の様子を伺っていた僕が、再度呼び出されたタイミングで。

「――あなたが開発してるっていうシステムソフト、一年で完成させて頂戴」

 それが、女の――組織の要求だ。
 目をつけられたのは、男自身ではない。同程度の技能を持つ人間ならいくらでもいるのだ。人格的に扱いづらい分不要だと言っても良い男が付け狙われたのは、ただ、“あれ”を作ろうと思いたち、既に実現可能なレベルで組み上げているからにならなかった。
 以降の交渉や取引は、別の人間に引き継がれるという。時間も手間も費やして、不快な思いを味わわされたばかりの任務だったが、おかげで分かったことがある。

 高圧的な女の物言いが我慢ならなかったらしい、なじる男の声は、電話越しにもよく響いた。
 女がひどく愉快そうに笑う。

「We can be both of God and the devil. Since we're trying to raise the dead against the stream of time」

 ――この女は、単なるボスのお気に入りというだけでなく、何かもっと深部の、組織にとって重要なキーを握っている。
 そうして、その女の発言をさも何でもない、当たり前のことであるかのような顔をして聞いていたキルシュも。


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