命危うし忌避せよ乙女

 はじまりはその時だったように思う。
 けれどそこに一体何のトリガーがあったのかは未だに分からない。それまでは至極普通の、繰り返しとでも言って良いような、特筆するほど目新しいことなどない、いつも通りの少し退屈な日常を送っていただけなのだ。
 ただ、学校帰りにたまたまいつもと違う道を歩いていただけのこと。それだってたまにやることだったし、これと言って理由があってのことではなかった。
 細い路地を、ウキウキするわけでもなく、落ち込むわけでも怒りに沸くでもなく、特に何の感慨も持たずに歩いていた。そうして、信号も横断歩道もない、細い道路同士が交わっているだけの交差点に差し掛かったとき。
 どん、と、ぶつかったのだ。
 丁度右側から来ていたらしい人物の姿が、塀によって遮られていたために見えなかった。これも、よくあるとまではいかないが、たまにあることだろう。生きている中で、人とぶつかるなんて珍しいことではない。あってもおかしくない、現実的に可能性のあることだ。
 そこから先がおかしかった。飛び抜けて、とてつもなく。

「あ、ごめんなさ――」

 頭を下げて謝って、またこれまでのように歩き出す。それだけだったはずが、
 ――そこで体が固まった。
 比喩でもなんでもなく、本当に固まった。石膏かなにかのようにぴしりと。自分の体のはずが、頭を下げようだとか、一歩退こうだとか、その場を去ろうだとか、そういう思考から脳が飛ばす指示を全てまるっと無視して沈黙していたのだ。
 同時に視界も固まった。眼球さえも私からの指令をシャットアウトして、まるで三脚のようになった体とタッグを組み、切り取った写真のようなその光景だけを見せた。それ以外に意識を向けることは許さんとばかりに、

「こちらこそすみません、考え事をしていて……」

 そう言って困ったように眉を下げた、先程ぶつかった人物を真ん中に据えて。

 男にしては少し長めの、根本まできれいに染まった金色の髪。日に焼けたというよりも生来のものらしい、褐色の肌。整った顔立ちと体つき。シャツにパーカーにジーンズ、なぜか手には手袋。
 そこらにいくらでもいそう、とは言えないが、奇抜が過ぎるほどでもない出で立ちの男性。

「お怪我はありませんか」

 彼は柔らかな響きの声でそう言うと、申し訳無さそうに、気遣いを分かりやすくのせた表情を私に向けた。
 そこまではまだいい。まだ、体が動かないのは驚いたからという、至って常識的な理由付けで済むことだった。特におかしかったのがその次だ。
 咄嗟に上げようとした声は出ず、

大丈夫です。ごめんなさい、私もぼんやりしていて……
ちょっと、どこ見て歩いてんのよ!
運命やわ……会えるんやないかと思てました

 文字が出たのだ。視界に。男性にかぶさるかのように、ホログラムで映し出したような、透過のかかったピンク色の枠に収まる、三つの文章が。
 あたかも男性の台詞への返答のような文面が、選べと言わんばかりに。
 銃で撃たれても腹から血が出てもいないがなんじゃこりゃと叫びそうになった。抑えようと思う暇もなかったので、きっといつも通りの体なら、実際みっともなく女らしさもへったくれもなく叫んでいたはずだ。殆ど反射のその叫びすら、がちっと固まった口や喉はあげさせてくれなかった。
 ちかちかと、一番上の文章が点滅していた。その場で一番ふさわしい言葉といえば、それだろう。こういう出会い頭にぶつかったという状況で、相手に百パーセント過失があるなんてこと滅多にないはずだ。事実私も人が来ているなんて考えもせず、なんの備えもなく歩いていた。相手を叱責できる立場じゃない。三番目なんて何を言っているのか分からない。私はこの男性に会ったことなどないというのに、まるで奇跡の再会のような言い樣だ。確かに今日この時間この場所でこの男性とぶつかるなんていう出来事は運命的な確率の出来事なのかもしれないが、そういう意味ではなさそうなのは明らかだ。しかも謎の方言。私は地方出身ではあるものの、さして訛りのある言葉遣いをしない。
 思わず中身についてアレコレケチをつけたが、そもそもその文章の存在自体がおかしい。それの浮かび上がる視界もそうだし、声をかけて一向に返事がないのに不審がる様子もなく、問いかけたすぐあとの状態で固まっている眼の前の男性もおかしい。
 どこからどう突っ込めばいいのかもこれをどうすればいいのかも分からない。右に左にコテコテ傾げたいところだったが、疑問符で埋め尽くされた頭は一ミリも動いてくれない。何なんだ何なんだと、得体の知れない現象への驚愕と困惑と、それから恐怖も混じりまともな思考が出来ずにいると、一番上の文章が点滅をやめ、二番目がちかちかとしてすぐさまおさまり、三番目がちかちかとしだした。
 それから、カチリ、と。
 マウスをクリックしたような音と共に、三番目の文章の枠が凹んだ。
 その瞬間、三つの枠全てが消え――

「運命だ……会えるんじゃないかって、思ってました……」

 なぜか私の口から、どこかで、というか直前に見たような言葉が、私の声で飛び出た。謎の方言を私が言いそうな口調に直すアレンジが入っていたが、あの凹んだ三番目の枠にあった文章ほぼそのまま。
 その直後、私と同様固まっていた男性が身動ぎをして、驚いたようにかっと目を見開いた。そりゃそうだ、ぶつかってきていきなり何言ってんだこいつって感じだろう。自分でも思う。何言ってんだこいつ。
 勿論かけらもそんなこと言おうだなんて思っていなかった。感動に打ち震えて勢い余ってとか、ついつい滑ったとかでなく本当に、口が勝手にそう動いたのだ。もしやこれが操られ妄想というやつなのか。自分でも気づかぬうちに病んでいたとでもいうのか。
 猛烈に恥ずかしくなって、急に硬直がとけた体に必死で鞭打ち、とにもかくにも一目散にその場を離れた。男性が僅かに口を開け何かを言おうとしていたような気もするが、聞かずに済んでよかった。優しく問い返されるか冷静に突っ込まれるか嫌悪を表されるか、多少の違いはあっただろうが、結果死にたくなるのにはどれも変わりない。視界の端で、男性の傍にキラキラ光る星のマークが現れたような気もしたが、最早そんなものを見ている場合ではなかった。
 その日は帰るなりベッドに飛び込み毛布にくるまってひたすらバタバタと悶え続けた。中二の頃書いた私の本当の名前や隠された出生や悲惨な過去や特殊能力を纏め綴った本を掘り出した時以来の激しいベッドローリングだった。

 それからしばらくはその時のように体が固まることもなく、奇妙なホログラムが出ることもなく、もしかするとあれは単なる白昼夢だったのかもしれないと思えるくらい、いつも通りの何事もない日常を過ごしていて、数週間も経てば、早くもそんな白昼夢のことを忘れかけていたのだけれど。
 そこにまた突然あれがやってきたのだ。

 今度はホテルだった。波土禄道という、ちょこちょこ聞いていたロックミュージシャンのライブチケットを、用事が入って行けなくなったという友人から譲り受けて、旅行がてら大阪に一泊したのだ。
 初日の深夜、喉が乾いてジュースが飲みたくなり、下の階にあった自販機まで行くかと部屋を出たところ、ちょうど隣の部屋もガチャリと扉が開いた。お隣さんはどんな人なんだろうと、何の気なしに目をやれば、黒いコートを着た険しい顔つきの男性が、長い黒髪を揺らしながらかつかつと歩いて、私のそばをすっと通り過ぎようとし――、
 そこでまた体が固まった。奇妙なことに、その黒い男性も足を少し持ち上げて次への一歩を踏み出そうとした形のまま。

(……やっぱり部屋に戻ろう)
(……火薬のような匂い? それと……)
(なんだろう、あれ。銀色の……)

 いやいやいやいやいや。問答無用でこれは一番上だろう。鼻を擽ったのは、何かが燃えた時と言うか、花火の時のような少し煙たいようなそれと、やんちゃをして怪我の多かったころによく嗅いだ、一般的に錆びたなんとかと表現されるような匂いだ。しかもなんだろうあれとわざとらしく枠の傍でキラリと光ったそれはどう考えても私の日常からは縁遠い物騒な代物だ。お触り禁止物件というやつである。志村ーッ上上ッ!
 そんな心の叫びも虚しく、カチリという音と共に凹んだのは、三番目の枠だった。
 なんでこれ選択肢のていをしているくせに私の意思をまるっとシカトするのだ。むしろ選びたくないものを選んでくれるのだ。心のうちで忌避しているものこそが実は己が最も望んでいるものなのですよってかやかましい。そんなわけあるか。

「シルバーブレット……」

 なにそれロイヤルブレッドの仲間?
 なんてボケる暇もなく、今度は喋るだけでは飽き足らず、私の体は勝手にしゃがみこんで、男性のコートから零れ落ちるようにして床に転がった、どこからどう見てもパンではない円筒形の金属を拾い上げ、男性に差し出すよう腕を伸ばした。

「いまは、真鍮みたいですけど」

 男性は今まで固まっていた反動もなく足をつけ、驚いたようにバッと振り返って、私の手からそれを素早く取り上げ懐に仕舞った。向けられた視線はそれだけで人を殺せそうなほどの鋭さと迫力がある。不可思議現象などなくても体が凍るレベル。

「お前は……」

 男性が言いかけたところで、エレベーターの方から人の声がした。和気あいあいと喋るそれはやや呂律が回っておらず、酔っぱらいのようである。どうやらこの時間まで外で飲んでいた人が帰ってきたらしい。男性は幾分か逡巡する素振りを見せた後、さっと踵を返して、それとは反対方向の、おそらく階段のある方へと去っていった。
 ありがとう見知らぬ酔っぱらい、あなたは神です。姿を見せたスーツのおじさんたちに心の中で五体投地した。そのままコンビニに駆け込んでウコンか液キャベでもプレゼントしたい気分だったが、シルブレお兄さんと再度エンカウントするのが怖いので、大慌てで部屋に引き返してしっかりばっちり鍵を掛けた。
 戸締まりの指差し確認を終えベッドに飛び込み布団を被っていたものの、あの匂いと視線が頭から離れず別の何かを考えることもままならない有様で、一睡もできずに差し込む朝日を拝むこととなった。基本的に睡魔と戦う気のないスタイルを貫いている私だ、徹夜なんていつぶりだっただろうか。あの男性の傍にもキラキラ光る星のマークが現れたような気がしたが、最早そんなことより一分一秒でも早く帰りたくて仕方なかった。
 結局ライブには行かずに、チェックアウトと新幹線の時間を早め速攻で家に帰って引きこもった。


 そう、その日の夜である。
 唐突に、スマホのホームに謎のウィジェットが現れたのだ。“???”の文字の横に、何を示しているんだか分からないバー。それが五つ縦に並んでいた。上二つだけ、何かの数値が僅かに溜まったように端の方の色が明るくなっている。“???”をタップすると、“???????”という項目がずらりと並ぶ一覧や、空のアルバムのようなものが表示された。
 そして、それからというもの、マップアプリに、その男性二人をデフォルメしたような顔のアイコンが、地図のあちこちにしばしば表示されるようになった。“…”だとか、“!”だとかいうフキダシと一緒に。時折、その二人よりも少ない頻度で、作りたてのSNSのような黒いシルエットだけのアイコンや、アイコンもないフキダシだけが表示されることもあった。
 試しに恐る恐るアイコンの場所へ赴き、ちらりと物陰から覗いてみたところ、地図に表示されていたあの金髪の男性がいた。つまり、まあ薄々そんな気はしていたが、あのアイコンは彼らの居場所を示しているわけだ。
 ウィジェットもマップのアイコンもどう頑張っても消せなかったし、機種変をしてもしつこく呪いのように現れた。
 これ絶対アカンやつや。
 そう思ってとにかくアイコンの場所を避けまくって生活した。たまにもろに自分の目的地とだだかぶりしていて、そういうときにはもう潔く用事を諦めた。彼らは周辺は彷徨いても、決して学校と家の中だけには来なかったので、とにかく極限までそれ以外の場所に行くことを減らし、移動は最短でなるべく徒歩をやめ、時にはタクシーまで使った。そうして、学校と家で持て余す時間を全て勉強につぎ込んでいたら、志望校よりはるかにランクが上の、東都大学に受かってしまった。そこは彼らに感謝しても良いかもしれない。しかし入学して通学を始めてもまだウィジェットやアイコンは消えなかった。
 一度、あの二人と黒いシルエットのアイコンが一箇所に集まって、“!!”とのフキダシが表示され、更にはぴこんぴこんと点滅している日があったが、死ぬほど嫌な予感がしたのでその日は家から一歩も出なかった。単位を一つ落としたが、必修ではなかったし、きっとあの場に行くよりマシだったに違いない。
 そういう“!!”のフキダシは、三年生ごろから特に増え、おかげで米花・杯戸周辺にはさっぱり近寄れなかった。イベントやフェスや、沖野ヨーコのライブや、新しく建設されたベルツリータワーや、雑誌で紹介されたポアロとかいう喫茶店、百貨店、博物館に美術館に水族館、気になる場所はあちこちあれどいけずじまい。

 そんなこんなで、行動に制限を受けながらも、いや私が勝手に逃げているだけなのだが気分的には致し方なく特定の場所を避けながらも、どうにかこうにか講義や試験を受けサークル活動をし就職活動に勤しみ、晴れて東都大を卒業、それなりの企業に就職することとなった。
 大学の卒業式の日、妙な苦労が多かった分感慨深くなって、謎の人物を阻んでくれた聖域とも言うべきキャンパスへの感謝も込めて練り歩き、一通り噛み締め終えてベンチに座りスマホを見ると、なんとウィジェットが消え、マップアプリからアイコンが消えていた。
 ようやく開放された!
 そう思った瞬間、スマホの画面がブツリと真っ暗になり、白字で“Normal End”と表示されて、視界まで暗転した。


 瞼を持ち上げ目を開ければ、先程までいたキャンパスとは似ても似つかぬ、けれど途轍もなく見覚えのある路地を歩いていて――、
 どん、とぶつかった。
 この小さな交差点に繋がる、もう一方の道からやってきたらしい人物と。

「あ、ごめんなさ――」

 顔を上げれば、これまた途轍もなく見覚えのある、整った顔立ちの男性がいて、体が固まった。

「こちらこそすみません、考え事をしていて……お怪我はありませんか」

大丈夫です。ごめんなさい、私もぼんやりしていて……
ちょっと、どこ見て歩いてんのよ!
運命やわ……会えるんやないかと思てました

 さらにまた途轍もなく見覚えのある、ピンクの枠と文章のホログラムが現れた。しかし今度は、三つ目の文章の枠が暗くなっている。

 こ、これは、まさか、ひょっとすると。


 [もしかして:二週目]


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