いのちだいじに

 仕事を押し付けてきた女が、不快を顕にしていたせいでもあった。
 僕に指示された行動自体は、単に足になれというだけの話だったが、それを含む作戦は人間の生死に関わることだったから、なんでもない態度を装いながらも、内心身構えていたのだ。
 予め取り決めていた倉庫裏に約束の時間より幾分早く着き、その訪れを待つこと二時間。日も落ちきり辺が闇に包まれたところでようやく響いた、コンコンとガラスを叩く音。
 窓の向こうに立っていた人間は、想像していたよりもずっと小柄で、いっそ子どもと言ったほうが正しいのではと思えるほどの体格で、浮かべているのも、どこか拗ねたような幼い表情だった。

「あなたがバーボンさん?」
「はい」
「あんまり聞いたことない」
「先日ようやくコードネームを貰いましたので」
「そうだったの。おめでと」
「ありがとうございます」

 闇夜に白のトレーナーは映えた。それに付着し、染み込むように広がる赤い液体の跡も。任務は無事に遂行したらしい。
 だが少年は、助手席のドアを開けてもすぐには乗り込んでこなかった。

「これあなたの車?」
「そうです」
「ごめん、何か拭くものない? 汚れちゃう」
「構いません。クリーニングしますから」
「ダメだよ、綺麗に見えても、一度汚れたって事実は変わらないんだ」

 そう言うと、少年はその場で服を脱ぎ始めた。何の迷いもなくトレーナーと、更にはボトムまで。華奢に見えた体つきは、顕になるとその実、きれよく引き締まって筋肉で織り上げられたものであるのが見て取れる。
 脱いだ服で肌にも飛んでいた血液を拭い、パンツ姿になった少年がビニール袋はないかと聞いてくるので、グローブボックスに入っていたそれを出してやった。そうすると、少年は袋に今しがた脱いだ衣類を詰め込んで、ようやく助手席に乗り込んでくる。
 真冬ではないとはいえ、寒さも増してきた時期に下着一つでは車内でも心もとない。流石に見ていられず、ジャケットを脱いで渡せば、少年はゆるりと笑った。

「ありがと。優しいんだ」
「いえ……普通、そうするかと」
「しないよ。誰もなんにもくれない。みーんな薄いんだ」

 情が、ということだろうか。まあそうだろう。そんなものを他人にかけていては我が身さえ危うくなるような組織だ。よほどの馬鹿か、そうしながらも尚己を守れる余裕のある人間でしか出来ない。今の僕がたまたま、その程度であれば、やっても差し支えない状態であっただけのことだ。
 しかし、少年にとっては“その程度”が随分と縁遠く、大きく、好ましいものであったらしい。
 それからというもの、少年はどうにも僕に懐いた様子で、邂逅を重ねる度それは増していった。


 おそらくはまだ免許も持てない年なのだろう。彼と任務でかち合う際には、僕は運転役であることが多かった。
 少年は毎度毎度濡れてくる上、その格好では乗ろうとしないため、着替えを持っていくのが常になった。
 また、助手席に乗れば、少年はいつも僕の上着をねだった。それが分かって以降、少年と会う際には重ね着を意識するようになっている。
 今日も少年は、助手席に乗ってシートベルトを締めると、僕にパーカーを貸してくれと言い、靴を脱いで体育座りのようなポーズを取って、正面からそれを被った。
 相変わらずぶすくれている。任務が終わってすぐはいつもそうだ。

「いやんなっちゃう」
「どうかしたんですか」
「……また殺しちゃった」
「……そういう命令だったのでは?」
「違うよ、“処分をしろ”って言われただけだ。首を締めろとも、心臓を撃ち抜けとも、脳を潰せとも言われてない」

 いくらなんでも少年も、そのオーダーが、それらの含みを一切持たずに下されているとは思っていまい。――掻い潜る道を探していたということだ。

「だから、上手にすればいいんだよって言ってあげたのに。ちゃんと教えてあげたのに」

 “処分”と、その前の“引き出し”の技術を叩き込まれ身につけた人間。そして、ある“実験”において成功例となるモルモットらしい――それが、少年の、組織における立ち位置だ。
 しかし、その言動からして、それらは当人が望んでのことではない。客観的な事実から言ってもそうだった。幼くして身寄りがなくなり、拾われた場所以外での生き方を知らず、教え込まれた道筋以外の生き方を選べず、支配する人間に従う以外の生き方を望めずにいる。

「ダメだった。なんでうまくいかないのかな。ボクのやり方がダメだった? うまくいったと思っても、いつも最後はダメになっちゃう」

 多少は頭が回るようではあれど、少年は、己に首輪をかけ綱を引き頭を踏む人間を出し抜けるほどの智慧は持ち合わせていないようだった。
 ――なにより心が屈していては、反する事など為し得ない。それも少年は分からずにいるようだった。あるいは分かっていても、その束縛を解くだけの力がなかった。
 あどけない顔を歪ませ、少年がうつむく。

「かわいそう」

 声色は悲哀に満ち、流す涙はひどく無垢なものだ。澄んで僅かな光を反射させる一筋は、いかにも哀れを誘う。

「どうしてみんな、すぐ“死ぬ”とか“殺せ”とか言うんだろう」
「……時には生が恐ろしいからですよ。死よりも遥かに」
「みんな、もっと大事に生きたらいいのに」

 綺麗な言葉だった。淀みなく真っ直ぐで、強く、だからこそ愚かしく無知に過ぎ、何の益にもならない言葉。
 ――誰も彼も、少年ほど心を保てはしないのだ。
 人間は快を欲する。安楽を望む。苦痛や恥辱に塗れ生を強いられるくらいならば、死してそれらを知覚しないことのほうがずっとましで、心地よいものではないのかと考えることもある。その場の苦が最上のもので、それから逃れることが第一で、そのために刹那的な行動を取りもする。全てではないにしろ、そう走らせるだけの仕組みが、脳や体のどこかに、確かに存在するのだ。種が備え、あるいは取り込んだ本能が、結果的に個体を殺す場合もあるのは人間に限ったことじゃない。
 意識の外にある本能や、そこで働く神経を理性のみで制するのは容易いことでなく、割合として言えば出来る人間こその方が少ないだろう。仕方がない。さしたるギフトもない人間に、それを求めるのは酷だ。

「ボク、あんなことしたかったわけじゃない」

 しかし、彼だって被害者だ。そうしなくては己が生きていけないから、生きるために、言われるがまま他者を屠るしかない。
 そうまでしてしがみついているものを簡単に手放す人間を目の当たりにしては、さぞ口惜しかろう。
 ――そういう人間を、しかも、場所さえ違えば、正しさを教える環境さえあれば、将来国を背負っていくはずだっただろう若く無垢な命を、ただ無下に消費されていくさまを見ているしかないのも、ひどく歯痒いものだった。

「……あまり、そういうことを言わないほうがいいですよ」
「ごめんね、あなたは、聞いてくれそうだったから。ボクのこころ」

 少年はばつが悪そうにして、僕のパーカーをもぞもぞと肩まで引き上げた。

「告げ口ならジンにしてね。嫌なんだ、ベルモットの声」
「……ええ」

 バックミラーを見遣れば、せめて己だけでもやさしくしてやりたいとでも言いたげな、愚かな男と目が合った。





「やめて……やめてくれ……」
「ほら、頑張って。諦めないで。戦わなきゃ、現実と」
「ひ、――もう殺してくれ!」
「あなたが“死にたくない”って言ったんだよ。どうしてそんなこと言うの」
「もう無理だ、できない!」
「できるよ、できる。やればできる子って言われてたでしょ? 今がやる時だよ。簡単だよ、自分を殺す人間を、退ければいいだけなんだから。それだけであなたが望む通り、あなたは生きられるんだよ」
「もういい、もうやめて、もういやなんだ!」
「まだまだ挽回のチャンスはたっぷりあるんだよ。そもそもあなたのほうが全然有利じゃない。ね、ちょっといいトコ見せてほしいな」
「殺して――殺してくれ、殺してくれ、殺してくれ」

 そんなこと言われたらまるでボクが悪者みたいだ。
 この人だって、社会からしてみればとんでもなく悪いことをしているし、結果的に苦しみ死んだ人間なら、ボクより多いくらい。それをチャラにできる方法を提示してあげているというのに。せっかく武器を与えて、チャンスを与えて、生をあげているというのに。
 銃を持ってるのはそっちだ。元々持っていたのと、ボクがあげたのと、二つも。ナイフだって置いてきた。ボクが持つものと言えば爪や歯くらいで、それだったらこの人だって同じものがあるのに、何でかボクが、まるで散弾銃や擲弾でも持っているかのような態度を取る。

「ねえ、弱い者いじめみたいだよ。ひどいよ」
「殺して、殺して、殺して」
「別にボクだって殺したいわけじゃないんだ」
「殺して、殺して、殺して」

 口以外何にも動かなくなってしまった。普通のより余計モノみたいだ。蹴っ飛ばしたらころころ転がった。ひ、ひ、と変な声を上げて。せめてちゃんとお喋りして欲しいのに、それすらダメなのか。
 弱い者いじめは好きじゃない。ただ草花や虫を踏んづけたって、そんなのなんの心も宿らないものじゃないか。
 ボクは心が聞きたいのに。ボクの心を聞いてほしいのに。通わせたいだけなのに、少し触れば逃げてって、すぐに悪くなって、萎びて枯れてしまう。何がいけないんだ、土や水がダメなのなら、それまでだってやってこれているわけないのに、ボクがいると途端にダメになるんだ。
 えい、とかかとを落としたら、元々薄っぺらだった頭はくちゃりと音を立てて潰れてしまった。それっきり、さっきまでの僅かな動きすらなくなる。鳴き声も上げなくなってしまった。ひどい。

 誰も彼もペラペラだ。白と黒の、薄い紙みたいな体しか持っていなくて、誰かに作られたような言動しかとらない。きっと皆からしたらボクもそうなんだろう。
 ただ、切ったり叩いたりして溢れる液体と、“生きたい”と言って輝かせる瞳だけが鮮やかなのだ。
 それをもっと見たい。ボクにもそれがあるのだと知りたい。きっとそれはこころなのだ。こころとこころを見せあって、寂しくないことを――この世界がペラペラじゃないことを、知りたいだけなのだ。
 簡単なことのように思えるのに、鮮やかさはすぐに色褪せる。動かなくなったり、おしゃべりが出来なくなったり、ボクの言葉が悪いと、あっという間に消えていってしまうのだ。わざわざ自分から、真っ黒のくしゃくしゃになろうとする。

 もったいない。かわいそう。
 死んだら、やり直しになってしまうのに。
 ボクみたいに。

 すん、と鼻を軽く啜ると、いい匂いがした。膝に掛けた衣類から香るものだ。彼が着るものは、いつも綺麗で、柔らかくて、いい匂いがする。ペラペラでくしゃくしゃで、生臭くて吐き気を催すものとは大違い。

 ――もしかしたら、彼なら、とびっきり鮮やかで美しいものを、見せてくれるのかも。


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