1.5オンス

「どう思われますか? 降谷さん」

 ぱちぱち、と瞬いた。
 ホワイトボードの前に立つ男の人。眼鏡をかけてて、髪が短くて、ちょぴり薄い眉のお兄さん。ぼくの方を見つめている。ぼくの目を見て、ふるやさん、とまた言う。

「……ぼく?」

 人差し指を自分に向けてそう聞いて、首を傾げたら、お兄さんは戸惑いがちに頷いた。

「何の話ですか?」
「ええと……密輸グループのジョーンズが千葉での防犯カメラ映像から以降姿が見られなくなっている件ですが……斡旋をしていた田村と関係があるようには思えないかと……」
「それをぼくに聞いてるんですか?」
「は、はい」
「うーん……? よく分かんないです」
「は」

 じょーんずさん? たむらさん? みつゆ? あっせん? テロがどうとか組織がどうとか補足のように続けられても何の話だかさっぱりわからない。
 どうしてそれをぼくに言うのかもわからなくて、ちんぷんかんぷんになりながら、一体これは何なんだろうとぐるりと周りを見てみたら、思いの外部屋は広く、お兄さんのような人が他にも沢山いた。
 ぼくの座るところからいくつも繋ぐようにして続いている机があって、その向かいにも同じものがあり、それぞれにスーツを着た人が並んで座っていて、しかも皆ぼくを見ていた。なんだか誰も彼も不思議そうな顔をしている。
 あ、端っこの方、一人だけスーツじゃない人。しかも帽子も被ってる。目が合ったので笑って手を降ったら、周りの人たちが一斉に、がしゃんと大きな音を立てて立ち上がった。





 なんだかよくわからないうちに、本当にあれよあれよという間に、眉毛眼鏡のお兄さんに連れられて、病院に来ていた。
 しかもお兄さんに付き添われながら先生とお話をしていたら、記憶喪失だとか退行だとかなんとか言われてしまった。違いますよ―と否定したが信じてもらえなかった。
 でも確かに、ぼくの名前が“降谷零”で、年齢は三十歳で、警察庁で仕事をしているなんて言われてもさっぱりピンと来なかった。じゃあ逆に何ならしっくりくるのかと聞かれても全く浮かんでこない。そうだと言われれば、そうなのかー、なんて思うしか。

 先生が一旦お兄さんとだけ話がしたいとのことで待合室に追い出されて、椅子に座ってぼけっとしていたら、通りがかった人がぼくの目の前で足を止め、こちらの方を向いた。
 つっと目線を上げると、見たことのある顔。あのスーツじゃなかった人だ。すごい偶然だ、この人も病院に用事があったのか。

「こんにちは」

 笑って、もしかしたら座りたいのかなと少し右へずれたら、スーツじゃない人はぐっと眉間に皺を寄せた。

「それは俺が誰だか分かってやってるのか」
「え。もしかして偉い人だったんですか。すみません。わかんなくてやりました」

 頭を下げたら、その人の靴はさっさとそこから離れていってしまった。そうしてその人は、ぼくへ何も言うことなく、さっきまでぼくが診察を受けていた部屋に荒々しく入っていった。
 ううん、怒らせてしまったらしい。しまったな。もしかしたら警察庁の、すごく偉い人だからスーツじゃなかったのかもしれない。これもしかしてぼくクビにされちゃう?
 次は何の仕事しようかな、厩務員さんとかやってみたいなあ。そもそも警察庁って警視庁と何か違うんだろうか。それすら分かっていないのに、ぼくは本当におまわりさんだったのか?

 そんなことをちょっぴり悩んでいたら、また診察室のほうへちょいちょいと呼ばれた。

「記憶障害は一概にこうと言えないんです。眠って起きたらスッと、あるいは一週間程度で自然に戻るケースもありますし、そうでないものも。ひとまず自宅で安静にして頂いて――」
「しかしこの人には身内がいないんです。退行であれば――」
「それに先日の件もあって、あの事件からも日が浅いんだ。こんな状態で一人で置いておくのは非常に危険が――」

 先生とお兄さん、じゃない人が深刻な面持ちで、イマイチよくわからないことをもじゃもじゃと話している。
 ……なんかこう、真面目な空気の中、自分も同じステージに立って緊張感や危機感を覚えられないと、どうにも場違いな感覚がむずむずとしてくるよな。

「あはは」

 有り体に言えば面白くなってしまった。
 うっかり笑ってしまったぼくへ、三人ともばっと首を動かして視線を向けてきた。すみません、と謝ったけども、それからみんなますます鬼気迫る表情になったのがもうコントみたいで、失礼極まりないとは思いながらも笑いをこらえるのが大変でしかたない。
 人員がどうの、案件がどうの、あれこれ話をしたあと、切り上げるようにして、じゃない人がぽんとぼくの肩に手を乗せてきた。

「ともかくあんたはただでさえ彼がいない分の穴を埋める必要があるだろう」

 そうお兄さんに言うと、ぼくに「保険証は?」と聞いてくるので、手に持っていた財布の中を漁って、それっぽいものを渡した。組合員証だ、本当におまわりさんらしい。「降谷さん」とお兄さんが非難めいた声をあげるが、偉い人にはイエス長い物には巻かれるよぼくは。
 じゃない人はちらりとそれを見て、すぐに返してきた。

「よし、帰るぞ、降谷君。俺が送っていく」

 そうぼくの手を引いてくる。お兄さんはどうするんだろう、と視線を向ければ、彼は仕事があるから、と言われた。なるほど、じゃない人は暇なのか。

「あ。すみません、あなたの名前、知りません」
「……赤井秀一だ」
「赤井さん」

 なかなかかっこいい名前だ。顔に合ってる。
 お兄さんは風見さんというらしい。ぼくの部下なんだって。びっくり。何かあったらすぐに連絡してくださいね、と言って、スマホに入っていた連絡先をわざわざ表示させてこれが俺ですと教えてくれた。じゃあメッセージ送っていいですか、と言ったら、いくらでも、と力強く頷いてもくれた。優しいお兄さんである。

 赤井さんに腕を引っ張られて向かった駐車場には、真っ赤な車が待っていた。

「これが赤井さんの車ですか?」
「ああ」
「なんてやつですか?」
「マスタング」
「強そう。かっこいい」
「……」

 へえ、と眺めながら左側へ行こうとしたら、赤井さんにがしりと肩を掴まれた。それからくるっと体を反転させられる。

「……助手席は右だ」
「あ、そうなんですね」

 外国の車だったのか。だからかっこいいんだな。乗り込んで改めて見回せば内装もスタイリッシュだし、シートはなかなか座り心地がいい。赤井さんがエンジンをかけると、重い響きの音がする。ちょっとわくわくしてしまうが、なんとか体を落ち着けた。いいなあ、運転してみたい。
 流れていく景色を見るのに夢中になっていて、信号停止したところではっとする。

「あの、赤井さん」
「ん?」
「ぼく、クビですか?」
「いや……そうすぐには決まらんよ。しばらくは療養休暇だろう」
「それってどれくらいなんでしょう」
「……まさか、俺にその権限があると思っているのか?」
「違うんですか?」

 赤井さんはちょっぴり黙ってぼくの顔を凝視して、信号が青に変わるとさっと前を向いた。

「あいにく、俺は君をどうこうできる立場にはいない。日本警察の人間じゃないんでね」
「でも、警察庁にいましたよね?」
「FBI捜査官だ。捜査協力で来日しているに過ぎん」
「えふびーあい」

 なんとアメリカの人。流暢な日本語だし、日本風の名前と顔立ちだったからてっきり日本人だとばかり。けれどよくよく見てみれば肌の色味が黄色人種とは少し違うし、瞳は緑色だ。
 だから一人スーツじゃなかったのか。いやFBIでもスーツは着るんじゃないかな、どうかな。あの会議室のような空間に、スーツを着た外国人もいた気がする。あんまり覚えてないな。

「……随分熱心に見つめてくれる」
「緑って珍しいんですよね」
「君のような色彩の日本人もそう多くはないだろう」
「ぼく?」

 少し背伸びをしてバックミラーを覗き込めば、やや色黒で、金色の髪に青い瞳の男がいた。首を傾げたり、髪をつまんだり、手を振ったりしてみれば、鏡の中の男もまったく同じ動きを返してくる。なんだかこれもピンとこない。

「違和感があるか」
「ちょっと……うーん、あるような、ないような……」
「俺からしてみれば、その姿は降谷零君以外の何者でもないんだがな」

 赤井さんは、親しみのような、もっと別の何かのような、不思議な色を込めてそう言った。

「あの、それなら、ぼくたちはどういう関係なんですか?」

 単に捜査に来ているというアメリカのおまわりさんが、ぼくのためにわざわざ警察病院までやってきて、こうして家まで送ってくれるとは何事なんだ。首を傾げて聞けば、赤井さんは、一度ちらりとぼくを見て、右折のためにステアリングを回しながら、心なしかゆっくりと答えた。

「そうだな、仕事仲間で――まあ、友人、といったところか」

 ともだち。この人と?
 だいぶ他人行儀なことをしてしまっていたが、今更急になーんだ早く言ってよ秀ちゃーんなんて言えないし、赤井さんも多分やだごめーんタメでオッケーだよーなんて言う人でもなさそうだ。

「そう、だったんですね。すみません」
「いや」

 赤井さんはまた黙り込んでしまった。
 それから、ステアリングを握っていた赤井さんの右手がコンソールボックスへ伸び、器用に片手だけで小さな箱の中から紙筒を取り出した。赤井さんはそれを咥えると、今度は同じくらいの大きさの箱を右手から左手へ渡し、その中の細い棒を箱に擦りつけて火を点け、それを筒の先へと当てる。たばこだ。
 ため息のように吐き出された煙が広がって、ぼくの方まで漂ってきた。
 ううん、密室でやられると煙たい。しばらくは耐えていたが、けほ、と咳が出てしまう。

「待て」
「え?」

 換気しようと思って窓を開けたら、たばこの灰がぶわりと飛び込んできた風に攫われて、塵のように細かく車内に舞ってしまった。そのうちひとかけらが目にも入ってしまってとても痛い。
 赤井さんが今度こそため息をついて、吸い始めたばかりのたばこを灰皿に押し付ける。

「……大丈夫か」
「はい……すみません……」

 せめて聞いてからにすればよかった。反省のポーズで俯いたら、ぎゅる、とお腹がなった。もちろん赤井さんのではなくぼくの。

「…………どこかで食べてから帰るか」
「はい……賛成です……」

 だいぶ恥ずかしい。でもお腹が減って仕方がなかったので、ぼくの食べたいものに合わせると言われて、焼肉が良いですと訴えた。一番近い所、全然構わない。お肉お肉とうきうきしていたら、赤井さんがほんの少しだけ、かすかに笑った。


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