ゆらぎのすきま

『どうしようシュウ、一般人を轢き殺しちゃった!』

 赤井秀一の携帯へ、元恋人兼同僚の女からそんな電話があったのは、ちょうど赤井が、とある筋からの情報を得るため取引をしている最中のことだった。彼女も現在仕事中だったはずである。
 相変わらずいまいち間が悪くそそっかしい女だ。めんどうなことを。
 そう思って、とにかくその場の対処を指示しようとすれば、彼女はけろりと続けた。

『あら、生きてたわ』
「……」

 赤井は静かに電源ボタンを押し、携帯を折りたたんでポケットへ仕舞った。


 そこらにでもいそうな、至って平凡な格好をした、中肉中背の男だった。顔立ちは、その身から流れ出し塗れた血ではっきりとは分からない。それなりに整ってはいる方だろう。だがそんなことよりも、そのダメージを与えたのが己だというのが、ジョディにとっては重要で、そして問題であった。
 上司であるジェイムズを助手席に乗せ、彼の車を運転して拠点間を移動していた最中、前方に突然――本当に突然、宙から落っこちるように、男が現れたのである。
 元恋人兼同僚である赤井秀一ほどではないにしろ、彼女とて車の運転には慣れていて、スーパープレイとはいかないもののそれなりの走行ができる技術は持っているのだが、咄嗟に少しも避けることのできない距離と速度で、そのまま撥ね飛ばしてしまった。
 男の体は地に着くことなく数メートル吹っ飛び、それからピクリともしなかった。
 車を停めて降り、そのさまを見て血の気が引いた。来日中のFBI捜査官が人身事故を起こす、なんて面白みの欠片もない原稿を読み上げられ、ちょっとブサイクな証明写真を日本じゅうにばらまかれ、米国人を貶す恰好の餌になる、そんなニュースが脳裏を巡る。下手をすると捜査の事がばれ、追求を受けてしまう。
 動転して、頭部を負傷しているというのに、遅れてやってきたジェイムズが「ジョディ君」と止めるのも関わらず、そばにしゃがみこんでその上体を抱えてしまった。そうしてパッと思い浮かんだ赤井へと電話を掛けたのだ。

「んあ……」

 ジョディの腕の中、男は少し身じろいで、ふるりとまつ毛を震わせた。生きてたわ。そう漏らすとスピーカーからはすぐさまビジートーンが響いた。
 相変わらずそっけない男だ。少しは親身になって、駆けつけてくれてもいいのに。ジェイムズといることを知っているからだろうけども。
 そう思いながら、用をなくした携帯をポケットへ仕舞った。ともかくそんなことよりも、今気にすべきは死にかけの男の方だ。

「ねえ、大丈夫!? 聞こえる? 痛い? ――いえ、そりゃ痛いわよね。大丈夫なわけないわね。ごめんなさい、ええと――今救急車を――」

 慌て狼狽えるジョディを、落ち着きたまえ、とジェイムズが宥める。ジェイムズの友人がやっているという病院へ運び込めるよう手配すると言い、電話をかけはじめた。FBIはつい先日も似たようなことをした。ジョディはちらと、何かの呪いかと思う。
 男はぱちぱちと瞬いて、ジョディの顔をじっと見つめる。現状の把握ができていない様子だ。脳内麻薬でも出ているのか痛がる素振りも見せず、ゆっくりと血の垂れる口を開く。

「天使だ……」
「やだ、幻覚が見えてる!」

 それから男は、青ざめたジョディの顔から少し視線を下へと向け――腕を鈍く動かし、そこへふわりと触れた。

「おっぱい……」
「なにこのスケベ」
「こらジョディ君!」

 がつ、といい音が響いて、男の頭はアスファルトでバウンドした。


 杯戸中央病院に、“お忍び”の入院患者が増えたらしい。その情報を赤井秀一に齎したのは上司のジェイムズだ。あんな突飛な電話を寄越したのだから経過ぐらい当人が報告すれば良いものを、などと言いたい気持ちもなくはなかったが、まあしかし、どちらにせよ結果が同じであるなら誰を経由しようが構わないことでもある。
 もう一人の眠り姫の警護と監視もあるため病院へと向かえば、ちょうど廊下の先にジョディがいて、彼女は不安そうな面持ちで、赤井を見つけると駆け寄ってきた。

「どうしようシュウ、組織の人間を轢き殺したのかもしれない!」
「……生きていたんじゃなかったのか?」
「ああそうよ、ごめんなさいうっかり。生きてるスケベだったわ」

 スケベ?
 それについて掘り下げるべきとはさっぱり思えなかったので、赤井は聞かなかったことにして、仕事に関係のありそうな方をつついた。

「一般人だと言っていただろう」
「でもあの男、意識を失う前に私の名前を呼んだのよ。おかしいと思わない? どう見たって日本人で、私も見覚えがないのに――メアリーやソフィーなんて名前でもないのよ? そりゃあ、とっても珍しい名前ってわけでもないけれど、はじめて私のこの顔を見て、ずばりジョディ! なんていくはずないじゃない?」

 赤井にとっては、見慣れたその女の顔は“ずばりジョディ!”であったが、そういう話でもないだろう。まあ、そうだな、と適当な相槌を打つ。混乱した様子のジョディは、論理の道をくねくねと酔っ払いのように千鳥足で歩いて行く。

「それに、この日本に来たのだって――ないと言うこともないわね――久々なのよ、久々。ほんとうに。その時だって私の名前はジョディ・スターリングだったけれど、この通り有名人でもなければ、街頭インタビューを受けてもいないし、そんなにあちこち喧伝して回ったりしてないから、パスポートや、ホテルの記帳やカードのサインを覗き見るかしなきゃ、わからないはずなのよ」
「……だろうな」
「じゃあ、もしかしたらあの男が、アメリカにいたということ? FBI捜査官として活動していれば――というか、普通に人間として生きていれば、街中を普通に歩くものね、なんて言ったかしら、“ノラえもん”? それのanywhere door、アレなんかがない限りね。見かけることもあると思うわ。でもあの男がたまたまアメリカに来ていたときに、偶然私を見かけて、ひょんなことで私の名前を知って、それをずっと覚えている――無理がないかしら?」
「あるな。国を超えたストーカーというのも、ゼロではないが」
「そう――そうね、近頃はインターネットも普及発展して、なんでもワールドワイドになってるし――そうじゃなくて、だから、“故意的に”私、あるいは私を含む集団の情報を得た、というほうが理に適ってないかしら」

 赤井はほんのちょっぴり頭が痛くなってきた。正義感の強い女である。やはり無関係かもしれない人間を撥ねてしまったというのはショックだったのだろう。平素であればここまで煩わしい喋りはしない。

「他に何か言っていたか?」
「ええ、でも――その、なんだかムニャムニャして聞き取れなかったわ。本物だとか、なんとか」
「ならば“本物”を目にしたことがないということだな。ビジュアルは知識として持てど、肉眼では捉えていなかった。その“たまたま見かけた”などというドラマチックな出来事である可能性は低い」

 じゃあやっぱり。眉根を寄せたジョディと共に病室へと入れば、スケベ男はすやすやと寝息を立てていた。


 どいつもこいつも眠りこけたまま、という赤井のつぶやきに答えたのは、高くも低くもない男の声だった。

「眠ってるって、水無怜奈がですか?」

 その言葉に、ジョディも赤井も目を見開いた。男が目を開けて二人を見ている。あの事故を知り、この病院について知らなければ、そしてFBI捜査官たちのことを知らなければ、赤井の言葉からそこまでを導くことは不可能に近い。
 ば、と大股で近寄った赤井の姿をみとめ、上体を起こした男は肩を跳ねさせ身を固まらせた。それも赤井が警戒に値すると知らなければできない反応である。

「水無怜奈? ――何の話だ?」
「いや、眠ったままって言うから、今はまだ昏睡状態なのかと」
「彼女はただ長期休暇を取っているだけでは? 何かあったのか?」
「あ、そういうアレでしたね。そうですソレです。前言撤回」

 けろりという男の声は淀みなく明朗だ。ジョディには、少なくとも男の意識ははっきりしているように見えた。それが余計に妙だった。小さな探偵の根回しは世間の目をうまく誤魔化してくれていて、今のところ彼女が昏睡状態であるなどと言う人間は誰も居ないのだ。この男以外。

「あんた、名前は?」
「ルイズ・フランソワ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール」
「ふざけるな」
「ヴァリエール公爵家への侮辱ですか?」
「お前の顔はフランス人でもなければ女でもないだろう」
「あっ元ネタご存知で。ピンクでもくぎゅでもないですしね」
「ピンク?」
「クンカクンカします?」
「何だそれは」
「カリカリモフモフ?」

 赤井に睨まれて、男はひえ、と情けなくちいさな悲鳴をあげた。

「やだこわい涙が出ちゃう、だって男の子だもん」
「ならば大人しく事実を吐いたほうがいいと思うが」
「まさかさもなくばその懐の凶器で一撃なんてないですよね? 模範的FBI捜査官はそんなことしない」

 生来のものか事故の衝撃でかはさておき、本格的に言語的コミュニケーションが行えない人間なのではとの烙印を押そうとしていた赤井だったが、その言葉に緩みかけた空気を引き締めた。

「……俺がFBIだと?」
「え、違うんですか。まさかFBI入りしていない世界線なんですか? 博士はついに電話レンジ作ってしまったのか」

 電話とレンジが世界の何?
 赤井の後ろで目を白黒させながら、ジョディはこの元恋人兼同僚がみるみる機嫌を降下させていくのが手に取るように分かった。赤井は尋問も得意としよく請け負おうとするが、それは知能的な闘いを好むからであり、頭の病気やシャブ中なんかは他人に回し気味だ。元来知性のない生き物の相手をやりたがらない男なのである。

「ジョディさん助けて、ヘルプミー」

 なぜか男は拳を小さく振りながらジョディの名を呼んだ。

「どうして私? ……あのね、聞かれたことにちゃんと答えてちょうだい。そうすれば、この人だって理不尽な真似はしないわ。私もね」
「やっぱり天使だ」
「は?」

 ちょうどその時、がらりと戸が開いて、部下が姿を見せた。どうやらジェイムズが赤井を呼んでいるらしい。この男のことも報告しなければならないし、と軽くため息をついた赤井は、男をひと睨みして部下とともに退室していった。ジョディに、絶対に目を離すな、逃がすなと釘を差してから。


「……ねえねえ、ジョディさん」

 赤井が去ってから若干肩の力を抜いたらしい男は、相変わらず馴れ馴れしくジョディに話しかけてきた。不快に思わないわけでもないが、そうしてぺろりと話してくれるのならば、と頭の中で生理と実利を天秤にかける。

「……なに?」
「水無怜奈ってCIAだよ」

 とんだ爆弾だった。
 ジョディの名を知っていたことといい、水無怜奈の状態について漏らしたことといい、赤井らをFBIだと断言したことといい、たわ言であると看過し流すことはできない。

「どういうことかしら?」
「CIAの諜報員として組織に入ってるんだよ。イーサン本堂は彼女の父親だ」
「――それは……」
「ジョディさん、他に何が知りたい? 教えるよ」

 男はまるで秘密を自慢をする子どものようにキラキラとした瞳でそう言い、ジョディが近寄るとにこにこ笑った。それから「この世界線で役に立つことかは知らないけれど」と言って、聞かれもしないことまでペラペラと喋る。そのどれも突拍子もない言葉たちを脳にとどめ咀嚼するのに一杯で、ジョディには真偽について追求する隙もなかった。

「どうして私にそんなことを? 一体なにが目的なの? あなたの要求は?」

 一段落ついたところでジョディが尋ねると、男はすっと手を挙げた。視線をまたジョディの豊かなそこへ向けて。

「お願い、もう一回だけ」
「あなたね!」

 うっかりその手をバシンと叩くと、男の体がよろめいた。しまった、とジョディが思ったときには、重力に引っ張られ床にぶつかる寸前で――支えようと伸ばした手が宙をかき、男の体はぱっと消えてしまった。車の前にやってきたときと同じように、忽然と。

「…………え?」

 呆けている間に戻ってきた赤井に逃したのかと問い詰められ、消えたと言っても信じてもらえなかったが、捜査官数人で探し回っても男の姿は見当たらなかった。足が折れているだとかでそうすぐさま遠くまでは行けなかったはずなのにだ。
 しかも奇妙なことに、その後、あの男が告げたことが次々とFBIを襲った。水無怜奈そっくりの男の子が現れ、病院に組織のスパイが入り込み、それを小さな探偵が暴き出し、入院患者の情報を得たスパイの男が死に、杯戸で火事や異臭騒ぎが起き、病院に大量の爆弾が送られ、水無怜奈の身柄は移送中組織の手に渡ってしまい――それから、赤井秀一が死んだ。
 警視庁からの帰り道、涙は出なかった。もはやジョディは信じていた。

“赤井秀一さんは死んだふりをして、米花町で潜伏することになるよ”

 男のその予言を。
 もう一回ぐらい触らせてあげればよかったかもしれない。一瞬だけそう考えて、秒で切り捨てた。やっぱりないわ。絶対イヤだわ。男のそれはなんだか感触を確かめるような手つきで、まるで極上の毛布に出会ったかのようだった。まったく人をなんだと思っているんだか。
 ジョディは心持ちぷりぷりとしてエンジンをかける。その様を、後部座席のジェイムズが不思議そうに見ていた。


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