Drone |
朦朧とする頭でも、最低限の機能は損なわなかったらしい。教えられていた場所は一字一句諳んじられるほど明確に記憶していた。 それに、日頃の鍛錬の賜物か、ふらふらになりながらも、どうにかその場所にたどり着けるだけの体力と気力もあった。 米花の某所、高層マンション。 予め渡されていたカードキーで二重のロックを通過した先のロビー、明らかに不審な僕を見て見ぬふりをするコンシェルジュや警備員の前を、僕も会釈一つせず通り過ぎる。 カードキーをまたリーダーに翳してエレベーターを呼び、言われたとおりの順番でボタンを押し、点灯表示されない階で開いた扉をくぐってその箱から降り――そこで、力尽きた。 目覚めれば、あの、柔らかくはあれど身を預けるには向いていない床などではなく、程よく全身を安楽に保たせるマットレスの存在を伺わせるベッドで、しかし掛け布団の類はないまま、横になっていた。白い天井に生えた、三叉に分かれ垂れるシーリングライトが、やや暗めに調節された光を放っている。 静かな息遣いを感じてそちらへ目をやると、ベッドの傍に寄せられた椅子に座る男がいた。 寝癖もそのままのようなやや長くうねった黒髪、青白いとさえ言えそうな肌。明らかに鍛えられていない体は、椅子に載せた片足の膝に寄り掛かるようにするポーズのせいか、スウェットを着ているせいか、やけに気だるそうに見える。 男の手には、見覚えのあるスマートフォンがあった。――僕のだ。 反射的に拳を飛ばさずに済んだのは、そもそもなぜここへ来たのかというこの状況の成因を、命令系統的には上である男の言葉を、思い出したからだ。寝起きで多少鈍かろうと回る脳を有していたおかげである。 「悪いが、話した」 男はそう言うと、スマートフォンを僕のそばに置いた。 それをさっと取って中身の確認を始めるのを、男は咎めなかった。もともと“この”仕事用に与えられた端末で、盗られて困るようなデータは殆ど入っていないが、そういうものがありそうな場所は弄られた形跡がなかった。 男が使用したのは通話のみらしい。だが、履歴には何もない。 「きみのことを、しばらく頼むと言われた」 「……頼むって、誰にです?」 「ラム」 どきりと心臓が跳ねたのを、どうにか表情には出さずにいれた。 “あの男”が関わるくらいだから、それなりの人間だろうとは思っていたけれど。まさか、そんな名を、万全であれば五秒で倒せそうなこの男の口から聞くとまでは想定していなかったのだ。 男はなんでもない顔で、組織のNo.2の名を告げたのと同じトーンで続けた。 「それ、俺がどうにかした方がいいのか?」 「いえ……道具だけ下さい」 男が指差した先、僕の左太腿には、表皮とその反対側の表皮まで肉を抉り穴を開けた――所謂銃創があった。 男はボトムに滲む血液を見つめたかと思えば、無造作に触れてくる。顔を顰めた僕に、「痛いのか?」と心底不思議そうに首をかしげた。 痛いに決まってるだろ、馬鹿かこいつ。同じ弾はアルミや樹脂やガラスを貫通し破壊してなお心臓にたどり着き人間を死に至らしめたんだぞ――というのは、ぐっと胸中に留めておいた。 慣れない状況においても、激しい痛みの中においても、また、暴れる感情を秘めていたとしても。社会的な人間としての理性を失わないところがまた、僕の脳の優れたところの一つであった。 僕が“治療”を行う間、男は部屋の外で待機していて、終えれば動けるかと問い、僕に肩を貸し体を支えながら部屋を出て、さらに廊下を進み、玄関を出た。裸足のままの男に連れられたせいで、僕も裸足で。まず玄関に靴は並んでいなかった。 外はホテルのような様相で、すっと伸びる廊下沿いの壁に、先程男が開けたような玄関扉が幾つか並んでいた。 おそらく、途中で壁の途切れたところからも更に折れ曲がったり伸びたりして廊下が続いていて、同様の玄関扉や、僕がふらふらになりながら乗ったエレベーターがあるのだろう。 「このフロアは全部俺のだから、好きな部屋を使っていい。一番奥の、俺が使ってる部屋以外は。ただ、鍵は掛けれても俺がマスターを持ってる。それは了承してくれ」 「え、ええ……」 「基本的に勝手に入り込むようなことはしない。来られて困る時には事前に言ってくれれば配慮する。持ち込みは雑誌から家具までご自由に。だがドラッグなんかは控えてくれると助かる。その有様だし、もし必要なものがあるというなら、代わりに用意する程度はやろう」 「それは……ありがとうございます……」 「きみは好きに出入りしていいが、ラムの紹介のない“おともだち”や“ストーカー”を連れ込むのは勘弁してくれ。ここや俺のことを他人に吹聴するのも」 「はい」 「出ていくときは特に何もしなくていい。鍵は返してくれたほうがいいが、どのみちその後はシステムごと交換するし、捨ててくれても構わない。解析にかけても何も出てこないから、まあ、よほど暇じゃなければしないほうがいい。清掃なんかは業者を入れるからいらない」 「……分かりました」 さらさらと淀みなく言うさまには慣れを感じた。 「あの……こういうこと、よく?」 「たまにな。それで、“お礼”をもらうんだ。それが俺の、一つの仕事みたいなもの……かもしれない」 なるほど、組織にはそういう“役割”もいるわけだ。 きっと体を休め追手を逃れ身を隠すためだけが目的ではあるまい。それならば自前で調達させても良かったはずだ。僕の行動はこいつに監視され、組織の深部にも伝わると考えるべきだろう。 ひるがえせば大きなチャンスだ。こいつはそこへ確実に繋がる糸と言える。可能であればよく調べておきたい。ここについても、彼についても、“知って”おくべきだろう。 そう考える僕の瞳を、男は覗き込むようにしてじっと見つめてきた。大事なことだが、と前置きをして、言葉を重ねる。 「――きみを泊めるのはラムを信用してるからだ。それを覚えておいて欲しい」 それは、組織の大半の人間にとっては、強烈な釘であるに違いない。 |