J-8

 助手席に乗り込んできたトーヤの服は汚れていて、赤く濡れたその手は何も持ってはいなかったし、彼のあとには誰も乗り込んでくる様子がなかった。
 けれど、出してくれ、と変わらぬ声で言われて、そうじゃなくてもこれ以上その場に留まれる状況じゃなかったから、速やかにアクセルを踏んだ。

「ごめんなさい。組織の人間らしい男に襲撃を受けていたの。なんとか収束はしたし、今はピーターたちにもとりあえず離れるように言って移動してもらってるわ」

 トーヤは血を拭わぬままの手で静かにタバコを取り出して火をつけた。

「取り押さえるのには成功したのだけれど、目を離した僅かな隙に自殺されてしまって、結局情報は引き出せずじまい……」

 車内に漂うのは行きと同じ、おそらく以前、彼が潜入捜査から帰ってきたばかりの頃に嗅いだあの独特の香り。

「怪我はない? 途中から通信が切れて、心配してたのよ」

 助手席を伺うと、トーヤはじっと、掌を見つめていた。

「ねえ、何があったの」

 聞かなくてもなんとなく察せはする。そこまで鈍くはない。けれど正確なところまではわからないから。
 答えを貰えないまま適当な道取りで車を走らせていると、日本で買った私の携帯がデフォルト設定の軽快な音を立てた。
 私がハンドルを握っている最中にはよく代わりに出ていた彼だが、今はその素振りを見せないので、一応周囲を確認してから通話に応じる。
 そうしてひとしきり報告を受けたあとに、少し受話口を離して隣へ声をかけた。

「……シュウ、ウィリアム達が、まだ彼女を見つけきれないって。捜索を続けてはいるけど、これからどうする?」

 彼は静かに掌を見つめ続けていた。変だ。普段なら情報を得てから部下に指示を飛ばす際の間はさほどない。

「シュウ、シュウってば…………」

 呼びかけに応じないその姿を見て、またかけ直すわと言って切った携帯を膝の上に置いた。

「――トーヤ!」

 ようやくトーヤが、普段ではありえないほどのたりとした動作で私のほうへ顔を向けてくる。口元のタバコは灰が随分伸びていた。それをまた緩慢な手つきで引き出した灰皿に落とす。

「指示をちょうだい。今この日本ではあなたが司令塔だわ」
「あ、ああ……悪い。被害はないか」
「襲撃のとき、ピーターがびっくりして落っことしたタバコで腕を火傷したくらいよ」
「……冷やしてるって?」
「頭はね」
「ホテルに着いたら腕も冷やせと言っておけ。……今からの確保は望み薄だが、捜査自体は続けられる。幸い向こうは頭の指示で動いていたわけではないようだし、あの言い草だ、別のものに焦点を絞っていたおかげでそこまで把握してはいない。研究所の特定は出来たから、そのまま悟られない程度に関係者まで調査の範囲を広げつつ、彼女への接触については機が訪れるまで少し待とう。今日は撤収して構わない」

 足早に、平坦な声で紡がれたそれらを、再度繋いだ通話で仲間に伝え、今度はジャケットのポケットに携帯をしまう。

「私たちは? このままホテルに戻っていいかしら」

 トーヤの視線がまた掌に戻る。乗り込んできてから今までずっとそうだ。
 なんの変哲もないとは言い難い、血液が付着したそれだが、正直言ってその程度なら見慣れている。彼が急所を撃ち抜いた死体の数々のほうがもっと凄惨なものだったのに。

「なあ、ジョディ。俺の名前を呼んでくれ……」
「……トーヤ?」
「そうだ、そうだよな……」

 シートに身を沈める彼が何を思ってそう言ったかは知れぬまま、ただただ零れ落ちる深いため息を聞いた。

「回り道で頼む」
「とびっきり?」
「ああ」
「わかったわ、任せて」

 ――彼はどちらの名で呼ばれたかったのだろう。


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