K-6 |
ぱち、と姿を見せた瞳はみどりいろ。 ガラス越しよりこっちがいい。 そのみどりはそろりと少しだけ彷徨って、オレを真っ直ぐ見据えた。 「きみは……」 「快斗。いーかげん覚えてよ」 「かいとくん……」 ぼんやりとした表情をされると、また掻き消えそうで不安になる。そうして慣れないように呼ばれるだけでも、そのこころにオレがいないことを思い知らされてしまうのに。 小説家・工藤優作の家に住まわせてもらっている理由は教えてもらえていない。炎上したシボレーのことも、あの時何があったのかも。それらは正確には覚えていないのだろう。 色々聞いてみたけれど、大抵は知らないとか覚えていないとか、自分ひとりの判断で言っていいことじゃないとかで、ちゃんとした回答がもらえたことは少ない。 自分だけが目的なら構わない、家主とその親族には大恩があるので極力迷惑がかからないようにしてほしい。 近衛さんはオレにそう言った。自分の存在を言い触らさないでくれとも。 オレも他の人に――特にここへよく通っている名探偵に――知られると厄介だから、それを告げ、もともとあまり来客が多くはないようであるにしろ、この人ひとりなのを見計らってこうしてこっそりとやって来ている。 「今日はどうしたんだ」 「さみしいかなと思って」 そうでもないと言おうとしたのか、近衛さんは口を開きかけてやめた。たぶんまたオレに気を使って。 近衛さんは、オレがしょげたり落ち込んだりすると、狼狽えたり、居心地悪そうにする。以前はそこまででもなかったのに、やっぱり記憶がないことで不安定になっているのかもしれない。 訪れるたび、近衛さんの状態は様々だ。普通にテレビや本なんかを見ているときもあれば、熱心に掃除をしていたり、身の入らないへたくそなバイオリンを弾いていたり、何をしていいのかわからないといった風に立ちすくんでいたり――今日みたいに、廊下で倒れるように眠っていたり。 前より少し痩せたとはいえ、それなりに上背があるこの人を抱えて二階にまで行くのは手こずりそうだったから、とりあえずリビングのソファまで連れてきたけれど、近衛さんはそれに関して何も触れなかった。眠る前のことを全く覚えていないとでも言うみたいだ。 「……おやつ、いるか」 「食べる。今日は何?」 「シュークリームがある……」 「やった」 のそりと起き上がってキッチンへ向かう近衛さんの後をついていく。 驚いたことに、この人は料理もするしお菓子も作れるのだ。あんなに食に関心が薄いようだったのにと不思議に思って訊いてみたら、ここの家主の奥さん――元女優の工藤有希子さんに勧められて教わったんだそうだ。素直に習ってやっているというのもなんだか変な感じ。 近衛さんの作るお菓子は、日によって出来の上下はあるものの、大抵そこそこ美味しい。ジュースはないし、買ってきてくれることもないけれど、いつもお菓子と一緒に紅茶やコーヒーを淹れてくれる。 単に消費できないから処分につき合わせているつもりらしいが、そうして出されたものをオレがうまいと言うと、近衛さんは柔らかく目を細めるのだ。一緒に食事をとっていたあの時と同じ――むしろそれよりも温かく。 「シュークリームのこの皮ってさ、あんまり膨らまないこともあるって聞くけど、やっぱコツとかあんの?」 「さあ……手順通りに作っているだけだからな」 「じゃあレシピがいいんだ」 「そうなる」 「自分で考えたりとかはやんねーの? アレンジとか」 「しない」 「料理好きな人って、なんかそーいうのもやってさーっと作れちゃうイメージだけど」 「好きなわけでもない」 「そーなの?」 シンクとくっついたみたいなダイニングテーブルで、近衛さんが皿に盛って出してくれたシュークリームは、少しさっくりとしつつもふわふわとした皮の中に、とろりと濃厚なクリームがたっぷり入っていて、なかなかにいいものだった。 近衛さんはシンクに手をついて立ったまま、向かいで座って頬張るオレの姿を眺めて表情を緩めている。 「オレは好きなんだけどな、近衛さんの作るもん。だから食えるの嬉しいよ。あんたはそうじゃない? 食わせんのもイヤ?」 わざとらしーし、ちょっと卑怯な言い方だ。でもこの人はこのくらいやったほうがいいみたいなんだ。 「…………うまそうに食べてくれるのは、まあ、嬉しいが」 ほら。少し躊躇ったように、困ったようにではあるものの、ちゃんと返してくれる。 料理をして、掃除をして、テレビを見たり本を読んだり、筋トレやお絵かきをしたり、楽器を弾いたりしながら、たまに来る子どもたちと遊び、時々近所の手助けなんかをしながら過ごす。見た限りでは、それと聞いた限りでは、今の近衛さんの毎日はそんな感じらしい。 フツーの人間からしたら羨ましいような生活だけれど、近衛さんにとってはひどく落ち着かないもののようだ。 ――やりたいことも、やるべきこともない。なくなってしまった。どうしていいかわからない。ただ他にないからそうしている。 なぜここにいるのか、どうしてこうなっているのか、あれこれと手を変え品を変え聞いていたときに、合間合間で何でもないかのように零された言葉。 それらがずっと、ちりちりと胸のあたりに残っている。 |