「これ、どうかな?」
 安室は振り返って試着室から出て来たスーツの男を見た。やはり、とでも言うべきだろうか。既製品ではこのやけに足の長い男には裾が足りないようだ。身長は少し自分より高いくらいで、さほど変わらないというのに。相変わらず存在が嫌味な奴だ。
 安室はそうは思ったが、口を突いて出たのは素直な感想だった。
「いいんじゃないですか?あなたの肌の色に合ってますよ、その生地。強いて言うなら、ベルトはもっと明るい色にした方が今っぽい」
「そうか、わかった」
 店員に二言三言告げて、赤井はまた試着室に戻った。その後ろ姿に、安室は溜め息を零す。
 ショッピングに行こう、と安室が赤井に誘われたのはつい一時間前。ド派手な赤のマスタングで現れた赤井は、しかしいつも通りの服装をして運転席に座っていた。乗れというから断固拒否して、安室は自分の白のマツダに赤井を乗せて都心に出た。
 なんでも本国の仕事で必要になったらしい、仕立ての良いスーツを全く持っていないというのだ。本当はスーツ云々の話よりも、その仕事でアメリカに帰るという部分を詳しく聞きたかったが、安室は大人しくラジオから流れるDean MartinのSwayを赤井の低い声が辿るのを耳にして高速を走った。
「やはりプレタポルテではサイズが合わないな」
「なんでオーダーメイドしなかったんですか。あの生地、良さそうでしたけど」
「なんでって、アメリカ行きは来週だぞ」
 安室は隣を歩く赤井を見上げた。表参道の繁々とした街路樹に覆われた赤井は、顔にケヤキ並木の影を作りながら不思議そうな表情をしている。
おい、聞いていないぞ、FBI。
「どうした?零君」
「いえ……それは、急な話だと思って」
「ああ、でも、靴は買えるかな。君がよく履いているところ、この近くの店だろう」
 さりげなく、本当にさりげなく肩を押され、安室は再び歩き始めた。

 イギリスの紳士靴ブランドである店にやって来て、赤井は自分が履く靴を見繕うというよりも、安室の好みを見つける度に「君に合いそうだ」だとか「履いてみたらいい」だとか言いながら勧めてきた。
 安室も、このブランドは贔屓にしていたため、新作を試しては履き心地を吟味していた。最近はこの店舗に足を運ぶことも少なかったからか、革のソファーに腰を下ろして足元に広げた靴と睨めっこをしている。
「ああ、安室さん、いらっしゃいませ。お久しぶりですね」
 店員の女性が近付いて来て安室に話し掛ける。上お得意様に対する表情にしては色が出過ぎている、と赤井はその光景を見て感じた。成る程、零君の足が遠退くのもわかる。
 安室透、もとい降谷零は、自覚があるのかないのか、男も女も魅了してしまう一種のオーラのようなものを常から纏っていた。顔と身体、雰囲気がアンバランス過ぎるのだ。勿論、それぞれの造りは他に見ないほど整っている。しかし、それらがひとつの肉体に収まると、途端にその危うさが前面に押し出てしまう。
 浅黒い肌に垂れ気味の目。すっきりと通った鼻筋から意外に小さな唇までのパーツは、彼を実際の年齢よりも大分若く見せていた。その顔と、鍛え上げられた身体や、爽やかさの中に垣間見える妖しい雰囲気とが融合し切れていない。
完璧なのに、どこか不完全。
 そんな引っかかりを人は覚えてしまうから、安室は大勢の他者の印象に残りやすかった。
 女性店員は頬を僅かに染めながら、新作を並べては安室の顔色を窺っていた。
「それ、いいじゃないか。買ってやろうか」
 会話に割って入った赤井に、安室と店員は二人して驚いた表情を寄越した。
「は?何言って……というか、今日はあんたの靴を買いに来たんでしょうが」
「俺のも買うが、君のはそれが一番似合ってる」
 それ、包んでくれ、と店員に伝える赤井を安室は凝視した。
何を、言っているんだ、この男は。
 会計処理を済ませ靴を箱に詰めながら、店員は恐る恐るといった風に尋ねてきた。
「あの、ところでこちらの方は………」
安室は口を噤んだ。赤井を誰かに紹介したことなどなかったからだ。迷う安室に助け舟を出したのは、商品を受け取った赤井だった。
「仕事仲間ですよ」
 スッ、と、何かよくわからない感情が安室の胸に落ちた。確かに、自分達は友人同士ではない。かと言って赤の他人でもない。一番、自分達の関係性を伝えるには遠からずの適切な表現だった。
はずなのに。
「え、じゃあ、同じ介護福祉士さんなんですね」
「………介護福祉士、?」
 赤井は明らさまに、何おかしな事を言っているんだこの女、と怪訝な表情をしている。
 安室はその会話に思わず声を出して笑った。対外的には、警察官だなんて以ての外、探偵なんて特殊な職業も面倒だから伝えていない。適当に繕った嘘だったが、赤井が、あの悪魔をも一睨みで殺せそうな赤井が、介護福祉士っっ。

「ぷ、くくっ、はは、腹いたい……」
「……もう笑わないでくれ」
「だって、あなた、そんな目付きで介護福祉の仕事って、あーーおもしろ…」
 パーキングまで向かう途中、ようやく笑いが引いてきた安室に赤井は言った。
「やっと笑ったな」
 その言葉に安室は赤井を見上げる。瞬間、赤井はふっと微笑んだ。薄い唇の角をふわりと上げて、笑った。彼に外国の血が流れているという事実を教える緑の瞳を細めて。
「………」
「ん?どうした?」
「いえ…」
 見ては、いけないものを見た気持ちだった。


 大手町に新しく出来たホテルで夕食を取ろうという話になり、赤井は自ら運転を買って出た。随分すんなりとフロントを通ったところで疑問に思った安室が尋ねる。
「まさか……予約してました?」
「ああ」
 それがどうかしたかとでも言うような顔で赤井はエレベーターのボタンを押した。
 正気かを疑ってしまう。この状況を、この男は可笑しいと思わないのだろうか。いい歳した男同士が二人きりで食事するような場所ではない。
 レストランのある33階に着いてエレベーターを降りると、安室はふうと胸を撫で下ろした。エレベーターでの沈黙が重かったのだ。 併設されたラウンジを横目にウェイターに連れてこられた席は窓際で、東京の象徴である赤い電波塔が煌々とライトアップされているのが見えた。
「食事が終わったらタワーの麓まで行かないか?俺が運転する」
「え……飲まないんですか?てっきり代行を呼ぶのかと」
「君は好きなだけ飲んでくれ。付き合ってもらってるんだから会計は俺が」
 ニット帽を脱いで、赤井はクセのある前髪を掻き上げた。昼にスーツを着ていた時も安室は思ったが、赤井のその仕草は見ている者の心臓に悪い。
「Any recommendations, tonight?」
 煙草を左手に赤井が外国人のウェイターに問い掛ける。
 ぼうっと安室がその様子を眺めていると、赤井の緑の目が不意に安室に向いた。今度は確実に、心臓が跳ねたのがわかった。

 サーブされた料理はどれも安室の舌に合った。とくに鯛と帆立のソテーが、ホワイトバルサミコ酢の酸味と相俟って絶妙な旨みと塩加減を両立していた。黙々とナイフで料理を切り分け口に運ぶ作業を続けていると、視線を感じ、正面を見る。じっと見つめてくる赤井に安室は文句をつけた。
「食べ辛い……見ないでください」
「いや、うん……小さい口だなと思って」
 そう残して赤井は自分の皿に再び取り掛かった。
……男が、そんなこと言われて、喜ぶわけないだろう。
 ナイフとフォークを持つ手が震える。宥めようとワイングラスに手を伸ばし煽ると、赤の渋味がふわりと口内に広がった。魚に白だなんて傾向の認識は赤井にとってはあくまでひとつの意見に過ぎないようだ。美味いな、このワイン。安室は少し気持ちが落ち着いてきた。
ライのくせに……
 ちくりと胸を刺す思いを、流し込んだワインで安室は消し去った。

「ああ、美味しかったですね……イタリアンは久しぶりでした」
「口に合ったようでよかった」
 エレベーターを待ちながら赤井は笑った。今日は赤井はよく笑う。その意味が安室にはわからなかった。わからない、というと、少し違うかもしれない。
 赤井が安室を名前で呼ぶ理由、ショッピングに誘って物を贈る理由、高級ホテルで食事する理由ーーー。ひとつひとつの訳はほんの小さなものかもしれないが、線にして繋げると見えてくる可能性が、安室には到底、理解し得ないものだったのだ。
「零君?来たぞエレベーター」
「あ……」
 惚けていた安室の肩を、赤井は昼よりも強い力で押した。ドクン、とまたしても安室の心臓が跳ねる。くそ、いちいち驚くな、心臓。こんな些細な赤井の仕草で、動揺するな。
 エレベーターの中ではやっぱり赤井は無言だった。安室は地上約80mから眺める景色をじっと見つめて、動揺を鎮めようと努めた。にもかかわらず、地上に近付くに連れ、鼓動は速くなる。もう酒の力は借りられない。不意に沈黙を破ったのも赤井の方だった。
「今日はやけに静かだな」
「……酔ったんですよ」
「ワインでか?珍しい」
 薄暗いエレベーターの中だからか、腕を組んで窓の外に顔を向ける安室にはわかった。窓に反射した赤井の顔は、じっと、安室に向けられている。

 和田倉濠を正面に臨んで左折し日比谷通りを進む。助手席から日比谷公園を横目に見ていると、どうしても赤井が運転している姿が視界に入ってきてしまう。視線を外して、明治初期に創業した老舗のホテルに安室は目を向けた。何度か潜入捜査中に利用したホテルだ。ああ、そういえば、今横で運転している男がまだライと名乗っていた頃にも、ここで一緒に仕事した事があった。その時は、スコッチもいた……
「オフィスには行ってるのか?」
「…え?」
「警察庁は向こうの通りだろう?」
「ああ……」
 昔の記憶を追いやって、安室は前方を見据えた。信号は黄色だった。
停止線ちょうどで赤井は緩やかに停車した。信号が赤に変わる。
「…最近は、警察庁には行ってません。必要な情報は逐一部下に送ってもらっているので」
「まあ、俺も似たようなものだな。ビュローにはしばらく戻ってない……」
「でも来週戻るんでしょう?」
「淋しいか?」
「フン、面白い冗談だ」
「俺は淋しいよ」
 青になったと同時に車は発進する。いつだったか、安室が赤井とカーチェイスを繰り広げた場所もすぐそこだ。お互いに酷い運転だったが、今日の赤井はびっくりするくらい、運転が荒くない。
 区画整理の名残を横断するように新橋を過ぎて御成門まで来た。もうタワーは目と鼻の先だ。オレンジにライトアップされたそれは夜空によく映えて、それだけで感傷的になる。タワーの名前が付いた交差点を右折すると、麓だ。安室は訳もわからず泣きたくなっていた。
「着いたぞ……降りるか?」
「なんで、今日、僕を誘ったんですか?」
 車の中から赤とオレンジのタワーを見上げて問い掛ける。平日だからかタワー下の人はまばらだった。
「答えなくていいです……知りたくもない」
「…零君、」
「それ。名前も……下の名前で呼んでいいだなんて許可、出した覚えはないぞ赤井」
「……拒否された覚えもないから、好きにさせてもらっていた」
 減らず口が、安室はそう零して腕を組んだ。癖なのだ。自衛の本能がふとした時に出てきてしまう。
 赤井が煙草に火を点けた気配を感じる。車内で喫煙を許した覚えも無かったが、安室は放っておいた。タワーのオレンジが、下からゆっくりと赤に変わっていく。煙たさが充満してきた頃、赤井は重低音で、静かに語り始めた。
「''The aperture through which the sand runs is so tiny that first it seems as if the level in the upper glass never changes.
To our eyes it appears that the sand runs out only at the end... and until it does, it's not worth thinking about... 'til the last moment when there's no more time left to think about it.''」
 安室は思わず振り返って赤井を注視してしまった。まさか英語で話されるとは思ってもいなかったため、最初の数単語を聞き逃してしまう。
 どこかで聞いた事のある台詞だった。安室は頭を捻って考えてみるが、どうにも思い出せない。
Sand……砂時計のことか?
「''Death in Venice''……映画の中で出てくる台詞だ」
 助け舟を出されて、安室はようやく思い至ったように声を出す。
「ああ……主人公がヴェネチアに到着した日、友人に語った言葉ですね…」
「『砂がなくなっている事に気付くのはおしまいの頃だ…
時間が過ぎて気が付いた頃には、全て終わってしまっている──』」
 赤井は煙を吐き出して一呼吸置き、再び始めた。
「こう見えて臆病でね。何度も、砂が落ち切ってから気が付く事があった……その度に後悔してきた。
勘が働く方だと自負してはいるが、どうやら人を選ぶらしい。可笑しいだろう?こんな歳にもなってまだ失う事を恐れている」
「……なんで、そんな話僕に」
「気付かないフリはもうよしてくれ、零。仕事仲間だと本心から言った訳じゃない」
 心臓の音が大きくなる。赤井に聞こえてしまうんじゃないかと思う程、大きく。安室は赤井の緑の瞳から視線を逸らそうとしたが、できなかった。金縛りにあったように、顔を逸らす事もできなかった。頬に近付いてくる赤井の手も、抵抗する余裕もなく受け入れてしまう。
「アドリア海の色だな……」
 呟くように言ってから、赤井は更に距離を詰めてきた。安室は自分が泣いていると、目尻に触れた赤井の唇でようやくわかった。

 赤井の行動、言葉ひとつひとつ、線にして繋げてみた時に見えたのは安室にとってとても信じられないもので、同時に震えるような甘美さを感じて呆然とした。
 赤井秀一はスコッチの仇だったはずだ。何度も追い掛けて、何度も殴り合って、それでも安室の気持ちは晴れなかった。
 彼の事はすまなかった、と言われた。
 憤慨した。お前にあいつの何がわかると、安室は罵った。
 やがてはたと疲れてしまった。虚ろな日々の中で、スコッチが語り掛けてきた気がした。何を言っていたのかは安室にはわからなかった。だが、夢の中のスコッチは悔いのなさそうな笑顔を浮かべていた。彼が死んでからあの夜以外の彼の夢を見るなんて、初めてだった。
 ──それが、全てのような気がした。





「……『ヴェニスに死す』って、最後は主人公死んでしまうんですよね。そんな不吉な映画引き合いに出して口説かれたんですか僕は」
「口説かれた自覚はあるんだな」
「………」
「まあいい。俺が帰ってくるまでには明確な返事を頼むよ」
「……は?」
 安室は目を見開いて赤井を見た。珍しくニット帽ではなく黒のキャップを被っている赤井は、ん?と訝しげに首を傾げた。
「……帰って、くるんですか?日本に?」
「何を言ってるんだ。アメリカに帰るのはほんの1週間だぞ」
 機械的なアナウンスが、NY行き直行便の搭乗開始を告げる。ぞろぞろと人の波が向かい合って立ち尽くす安室と赤井を追い越して行った。
おい、聞いていないぞ、FBI。
「聞かれなかったからな、悲しいことに」
「おい!心の中を読むな!……っ」
 腕を引かれたと思ったら、あろう事か赤井は安室の怒号を飛ばす唇を塞いできた。一瞬で離れたそれは、しかし安室の思考を奪うには十分過ぎる衝撃で、赤井は破顔させて声を大に笑った。前方から「シュウー!Hurry, hurry!」と女性の急ぐ声が聞こえる。
「See you soon, Rei. Don't get a cold.」
「僕は……あんたの子供ですかっ?!」
 搭乗ゲートに消えていく広い肩幅に安室は悪態を吐いて、そして、少しだけ名残惜しそうに笑った。




pixiv掲載/16.07.18

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