5


 人類が引き起こした史上最悪の世界戦争──欧州戦争は、一九一四年六月、オーストリアの皇太子夫妻が当時は領地であったサラエボで、セルビア人に殺害された事件が発端であると伝えられている。しかし背景には、普仏戦争後の独仏の対立関係や英仏露の三国協商、二度にわたる戦争によるバルカン半島の均衡崩壊、オーストリアのボスニア・ヘルツェゴビナ併合による墺露の緊張状態(もともとスラヴ民族国家であるセルビア、そして汎スラヴ主義を掲げるロシアと、スラヴ人種の台頭を恐れるオーストリア=ハンガリー帝国は、バルカン半島を巡り政治的に対立していた)など、多岐に及ぶ因果があった。
 セルビア人らによる皇太子夫妻暗殺はほんの小さな契機にしか過ぎなかったが、それによりオーストリア及びドイツと、ロシア、フランス及びイギリス間の外交は冷却を極めた。そしてついに、バルカンでの勢力拡大を謀るオーストリアは強硬手段に出た。
 七月、オーストリア=ハンガリー帝国はセルビアに対し最後通牒を突き付け、二十八日に宣戦布告。セルビアを支援するロシアは総動員にうつり、これにドイツは最後通牒を下したが、ロシアの要求却下により宣戦布告、動員を開始した。
 ロシアと同盟を結んでいたフランスは八月、ドイツからの最後通牒に総動員をもって返答。ドイツはフランスに対し宣戦布告を余儀なくされたわけだが、これは「ドイツ、フランスが関わるようであれば参戦せざるを得ない」としていたイギリスの介入を必然的に招いた。
 九百万を越える戦死者と、七百万の犠牲者を生み出した争いは、こうした複雑怪奇な過程を経て火蓋が切られたのだった。

「ベルリンで200、ハレで180、ライプツィヒとイェーナでそれぞれ130です」
「その数を訓練できる将校の数は?」
「現在ざっと見積もって20余名かと」
「三日以内にあと30人探し出せ」
 目線で退室を促すと、慇懃な表情の部下は恭しく敬礼をして出て行った。そっと嘆息する。夏晴れの窓の外では、ラントヴェーア運河でカヌーを楽しむ人々の姿が眺められた。
 テオドールが今腰を落ち着けているのは、南側を運河に面した新古典主義建築であるベンドラーブロック──国防省及び戦後の陸海軍総司令部を兼ねる──の自身の執務室である。大窓からの眺望はそれ程悪くもないが、執務机に積み上げられた書類の山は、彼の碧い眼を独占するかのようにそびえ立つ。
 ちょうど部下の報告のため眼を通していた書類のリストには各名門大学の名がずらりと並ぶ。共和国軍の要請により、学長公認のもと学生らから新兵を募っているのだ。
 あくまで非公式に──。ヴェルサイユ条約の規定で、陸軍も海軍も軍人の数は制限されている。
 連合国により軍縮を強いられた一九二〇年、準軍事組織が水面下で続々と興った。もともとフライコール(義勇軍)は正規軍の下位組織で、歩哨などをする民間の集まりであったが、敗戦後は元軍人、元将校が結託し、正規軍の直接の指揮のもと活動している。
 当時より陸軍のトップであったゼークトはじめ軍上層部は、そうした秘密裏な義勇軍の設置を、つまりは将来的な武装国家再建のための蓄えとして実行したのだった。事実、隣国フランスとの交戦はいずれにせよ避けられないであろうと当時も考えられていたし、東側では、ポーランドとの国境付近での度重なる騒乱があった。そういった軍事的事案に対処するための組織を作るという事は、義勇軍設立に於いて軍内部ではまたとない口実になったのだった。
 ヴェルサイユが布かれた今、正規軍は表立ってルールへ進軍する事ができない。よって、義勇軍をフランス占領地区へ送りレジスタンスとともに占領軍と闘わせているのだが、此処へきてとある噂が波紋を呼んでいた……。

 ノックの音を耳にしたテオドールは、「どうぞ」と眼は書類に落としたまま声を上げる。硝子戸が開くとほぼ同時、どこか場違いな陽気な声が投げ掛けられた。
「よう、少佐殿。相変わらず忙しくしてるな」
「……シュルツ少佐、ベルリンにいらっしゃってたんですか」
「おいおい、堅苦しいのはよしてくれ」
 軍帽を脇に提げ、金髪を刈り上げたオリバー・シュルツは薄い唇に緩く笑みを浮かべた。執務机の前まで来ると、些か高慢な態度で空いた椅子に腰を下ろす。昇進おめでとう、と笑顔で告げられ、テオドールは肩を竦めた。
「オリバー、昇進したのは去年の話だ」と、学年は違うが同じギムナジウム出身の気安さから口調は軽くなる。
「そうか、もう一年になるか。それだけ顔を合わせてなかったって事だな」
「そっちだってこの一年は多忙だったろう。特に今年は……」
「ああ、フランスの野郎共が夜も眠らせてくれんさ。フランス女達がベッドでいちいち注文をつけてくるのと同じように」
 シュルツは云いながらちらりと扉の外に一瞥をやった。硝子戸の仕切りの向こうで、軍服姿の男達が慌しく行き交っている。
「辞令が出た。移動だよ」口早に漏らされた言葉に、テオドールは僅かにうなずく。
 オリバー・シュルツはこの二年、ミュンヘンに本拠地を置く第七軍管区司令部の歩兵聯隊附であった。それまではテオドールと同じベルリン勤務(第三軍管区)で度々顔を合わせていたのだから、二人の再会には一入懐かしみが籠もったのだった。
 未だ正式な公示前ではあるが、辞令の情報は勿論テオドールの耳にも入っている。第三軍管区へ移動とは云っても形だけだ。シュルツは籍はミュンヘンにあっても、実際は、ルールに送られる義勇兵らの監督的立場にあった。今回も、彼の率いる軍団は非公式にベルリンの管理下に置かれる事となっていた。
「暫くはベルリンとキュストリンの往復生活だ。テオドール、義勇軍を存続させるためにはこれからもお前の力が必要だ。ヴェルサイユは馬鹿げている……例の噂、聴いたか?」
「ああ……」
「シュトレーゼマンは確実にルールを見捨てるぞ」
 そうなった時は、と。シュルツの声色は低く、次の言葉は聴かずとも気迫で理解できた。
 シュルツは沈黙するテオドールから視線を外すと懐から煙草を取り出し吸い始めた。そしておもむろに脇に抱えていた封筒を、目の前の執務机へ置く。
「話は変わるが、俺も表面上は第三軍管区の一員になる訳だからな、既にお達しが出ている。そのリストに載っている奴等の情報があれば教えて貰いたい」
 テオドールは封を開けると書類の束を取り出した。フランス人、フランス人、イギリス人、アメリカ人、そして日本人──。
「此の所各所で目立つ奴等だ。俺達を嗅ぎ回っている可能性がある。確証がないから手も打てない。協力してくれ。情報収集はお前の得手だろう」
 わかった、とテオドールは捲っていた書類を閉じた。
 シュルツは煙草の煙を燻らせながら、思い出したように付け加えた。
「そういえばお前、欧州戦が始まって最初は青島に行ってたよな」
「そうだが、それがどうかしたか?」
「さっきのリストに載ってた日本人も青島戦にいたらしいぞ。まだ三十半ばで大佐だ。お前、知らないか?連合国会議出てたんだろ」
「青島では知らないが、去年から日本国大使館駐在になった男だ。話した事はある」

 シュルツが退室してから、テオドールは再び書類を捲り、その頁で指を止めた。ドイツ語で「赤井秀一 大日本帝国大使館附武官及び歩兵大佐」と記されている。
 煙草を一本口に咥えた。煙を吐き出しながらその文面を眺め、そして天井を仰いだ。


***


「クーノが辞任した?」
 喫煙室に駆け込んできた同僚が突如告げた、現内閣解散の報に、日野はそう驚嘆の声を挙げた。求めるようなその視線を受けながら、赤井は煙を空中に吐き出す。
 驚愕した様子もない上官の姿に、日野は恐々として訊ねた。
「……赤井大佐、もしかして、その……ご存知だったのでありましょうか」
 赤井は一瞥を投げてから、ああ、と確かに肯いた。
「昨日打電があった。新聞の公表前だったから伝達は控えていたが、流石情報が早いな」
「……次期首相は誰に、」
「ドイツ人民党のシュトレーゼマンが外務大臣と兼務するらしい」
「ルールはどうなるんでしょう。こんな時期に政権交代なんて、フランスの思う壺では、」
「新内閣の樹立を要請したのは政治家らだ。シュトレーゼマンの外交手腕は折り紙付きだからな。政府はルールの問題を解決するよりも、現状の破綻した経済を回復させようとしてるんだろう」
 赤井の言葉にその場に居合わせた数名がどよめきだす。
 もとからクーノの不信任案は議会に昇っていた。クーノが首相となったそもそもの経緯は、経済専門家として活躍し、且つ対連合国の賠償金に関わる交渉に参加していた経歴から、戦後債権国として影響を持つようになった合衆国との良好関係を期待されていたからである。
 しかしながら今年の一月、フランスとベルギーがルールを占領し、政府が工業生産機能を停止させたにもかかわらず労働者の給料を保証したためにマルクは大暴落、現在の状況に至らしめたとして、クーノは所謂『お払い箱』となった訳だが、対してシュトレーゼマンは、右派政党の一員であるとともに、かねてよりヴァイマル共和政に肯定的な姿勢を示している。いくら政府の思惑とは云え、そういった人物を国政のトップに選任した事は、その多くが帝政復古支持派である軍部にとって、看過でき得ぬ事態であるのは明々白々だった。
「ヴィルト政権の二の舞にならないでしょうか。右派のやっかみを買うと、またラーテナウ氏が殺害された時のような事が起こり得るのでは……」
 だろうな、と赤井はまるで些末事だとでも云うように肯定する。
 息を呑む部下達を他所に、赤井の視線は喫煙室の外に向けられていた。通りに停めた車に、年かさのいかない少年が近付いてくる。少年はベントレーの給油タンクを開けると手にしていた管を差し込んで、その先のポンプを押し始めた。
 駆け寄ろうと脚を踏み出した日野を制して、赤井は喫煙室の扉から直接外に出て車へ歩み寄り、少年の背後に立った。君、と。呼び掛けられ、少年は恐る恐る振り返る。
 一言二言言葉を投げてから軍服の懐から銀製の煙草のケースを取り出した。中身が入ったままのそれを少年に差し出す。迷うような態度の後で、少年はケースを受け取り、赤井を見上げてから身を翻して去って行った。
「ガソリン泥棒ですか、あんな小さな子が」
 室内へと戻った赤井に、日野が云いながら新しい煙草を一本手渡す。赤井はそれを口に咥えると、差し出される火にフィルタを近付けて息を吸った。
「戦前にこの国に来たことはあるか?」
 不意の問い掛けに、いえ、と日野は首を横に振った。返答を聞いて赤井は口を開く。
「九年前、ドル為替は幾らだったか、わかるか?ほんの4マルクだ。今朝のレートは460万を超えていた」
 赤井は穏やかな口調のまま、口を噤んでしまった日野の手から燐寸の箱を奪い、代わりに懐の内隠しから取り出したオイルライターを握らせた。象眼が施された重厚なデザインのそれは、とても一介の士官が所持できる代物ではない。
「先月と比較しても92%を超える下落率だ。切迫するのも無理はないだろう。ガソリンも売れば少しくらいは生活の足しになる」
 赤井はそこで話を終了させ、部下の肩口を軽く叩いて背を向けた。
「あ、赤井大佐、ライター……」
 日野の躊躇いがちな声色に、赤井は「どうも燐寸の方が性に合うらしい」そう答えてから喫煙室を後にした。

 午餐を摂る頃には号外が出ていた。新内閣はブルジョア保守派や中道派、社会民主党(SPD)からなる連立政権──極左である共産党と極右であるドイツ国家人民党を除く全党を与党とする──であり、各党はそれぞれの機関紙で新首相に対する自党の立場を明らかにしていた。
 共産党の立ち位置は特に明確だ。どの政党とも相入れる事は決してしない。ドイツ共産党の前身はスパルタクス団であり、そのスパルタクス団はもともと、カール・リープクネヒトやローザ・ルクセンブルクをはじめとする社会民主党の左派組織である独立社会民主党の一部メンバーで構成されていた。つまりSPDもKPDも、もとを辿るとひとつの政党だったのだが、今日では政治的に対立関係にあるという事だ。
 リープクネヒトもルクセンブルクも、党結成後の一九一九年に、社会民主党員であり当時の国防大臣グスタフ・ノスケの指示で、反革命を謳う義勇軍により逮捕・殺害されている。皮肉な事に、リープクネヒトの父はSPD創設者のひとりであった──。

「近頃ベルリン出張が多いのは、やはり賠償問題の委員会設置の交渉が上手くいっていないのかな?」
 馴染みのホテルの一室。永山大使はソファーに深く腰を落ち着けて問い掛ける。質問を受けて、在仏日本大使館の橋本参事官は「その通りです」とかぶりを振った。
「政権交代の影響か交渉が難航しています。まあ、フランスが委員会設置には良い顔をしないだろうというのはもともと織り込み済みではありますが。先日の中立機関設立云々の話も頓挫したままです」
「パリとベルリンの橋渡し役は大変だな。さらにアメリカも──。中立機関というのは、やはり米国で決まりなんだろう?アメリカだって今は大変な時期じゃないのか?」
「のようですね。元から病気がちだったとは云え、脳梗塞とは──」
 溜め息がちにこぼれた言葉を、橋本参事官はワイングラスを傾けるとともに飲み込んだ。本省(日本国外務省)大臣の許可なく在勤地を離れる事のできない在外大使(つまり上司である石田大使)の代理を務めるのも、大使館ナンバー2の要職だった。
 合衆国大統領ウォレン・ハーディングが急逝したのはクーノ辞職に先立つ事二週間前の八月二日。アラスカ遊説からの帰路での不遇だった。既に大統領職には、副大統領だったカルビン・クーリッジが就いている。クーリッジは、一九二〇年、共和党の大統領候補指名に於いてハーディングと争った仲であった。
「新内閣では件の移民問題が解決に向かうと良いのだが」永山大使が憂うと、橋本参事官は「どうでしょう」と案じる。
「植原大使(植原駐米日本国大使)はクーリッジも移民の制限に傾向しつつあると云っていました。カリフォルニアでは七万人もの日系人が生活しています。州の総人口のおよそ2%です。対移民問題の方向転換は致し方ないでしょうね」
 元駐米日本国大使の石田大使直属の部下である橋本参事官は、永山大使に倣い自身の葉巻に火を灯すと、君も当然吸うだろうという風にソファーの末席に座る赤井──勿論旧知の仲だった──に燐寸をよこした。

 江戸から明治へ元号が移ろう頃、初めて日本人労働者が移民としてハワイ島へ赴いた。以降、本土へ移り住む人口も増え、更にハワイがアメリカの属領となり本土への移民制限が緩和された事に際して、新世紀を迎える頃にはその数は1万を超えるに至った。
 やがて急速な日系人の入植は米国民に反日感情を募らせ、度々日本人を対象にした暴動が起こるようになった。そうした事態に警鐘を鳴らした連邦政府は、一九〇八年に日本政府と日米紳士協定を締結、日本に自発的に移民を制限させる代わりに、排日的な法案を制定しないよう合意した。しかしカリフォルニアやアリゾナといった各州議会は後に、外国人土地法(市民権獲得資格を有さない外国人の土地所有を許可しない法案)を施行するなど、紳士協定を反故にするような体制へ切り替えている。
 ワシントン体制を敷いたウィルソンや、日英同盟を廃止させたハーディングと異なり、クーリッジは日本人移民の排斥には消極的姿勢を示していた筈である。黄禍論的な風潮が米国内で広まっているのは歴然だった。
「今年に入ってからもワシントン州では対外国人土地法修正法により、米国籍を持つにもかかわらず日系人の二世に土地の所有を禁止したと聞きます。州レベルの法案だとは云え、日米紳士協定はもはや過去の遺物となりつつあります」
「そういえば大佐殿のお母様はシアトルのご出身だったな。幼少期を過ごした事もあったんだろう?色々と複雑な心境と思うが」
 橋本参事官が問い掛ける。赤井はフィルタに火をつけ、僅かに息を吸った。
「私は軍人です。いち個人の感情など大きな組織の中では枝葉末節に過ぎません」
「まあ、もっともだな。軍人は軍人、外交官は外交官だ。偶に思うよ、自分はどちら側の人間として此処に存在するんだろうとね」
 永山大使はグラスを傾けて白ワインを飲み干した。
 赤井は腰を上げる。窓際に近付き、ワインクーラーの前で新しいグラスを並べて冷えた白ワインを注いだ。注ぐそばから仄かに冷気が立ち昇る。
 ふと眼下の通りに、函型の車が数台停まったのが窓辺から見えた。降りてきた男達は皆、灰色の濃い緑の軍服を着用している。その集団の中に赤井は見知った金髪を見つけた。こうして眺めると改めて、一段と見事な金髪だと認められる。陽を浴びて輝くその髪の滑らかさを思い出す前に、赤井は足まで冷えたグラスを手に席へ戻った。
 テーブルの上にそれぞれのグラスを置くと、永山大使は礼を云ってから赤井に話題を振ってくる。
「そうそう、秀一君。杏樹が君に貰った鏡台をいたく気に入って、片時も離れないんだよ。気が付いたらそこで椅子に座ってうとうと眠りこけているんだ」
「鏡台?子どもにですか?」参事官が眼を瞬かせた。
「勿論子ども用のだよ」
「喜んで頂けたのでしたら、プレゼントした甲斐があります」
「大佐殿は粋な事をなさるな」
 橋本参事官が感心する一方で永山大使は「そのうち君のお嫁さんになるとか何とか云い出しかねん」と続けた。
「私があと二十若かったら考えましたが」そう諂う赤井に、大使は「いや、真剣に」と少々面持ちを正して切り出した。
「杏樹は流石に若過ぎるが、姪が先日二十一になってね。そろそろ生涯の伴侶をと姉夫婦は思っているんだ」
 今度写真を見せよう。永山大使の意気揚々とした口調に、向かい側の橋本参事官は苦笑する。
「色男ってのは大変だな。独身なんて罪作りなだけだぞ、赤井君。早く身を固めた方がいい」
 時宜よくドアがノックされ、永山大使の秘書が顔を覗かせた事で、会話はそれ以上発展しなかった。


***


 ティアガルテンを抜けて、黒のベントレーは西へ向かった。通い慣れた道を、テオドールは助手席から静かな眼差しで眺める。
 華やかなネオンの下が一層と暗鬱な事に、隅々まで目を凝らさなければ気が付かない。特にテオドールは職業上、付き合う人種が限られ、そしてそのいずれもが下層階級からは程遠い人間達だったため、意識して見聞しなければ得られない事が多くあった。もっともそれが上から求められているような軍人性であるのかどうかはわからない。軍人でありながら、軍人になりきれない自分がいるのは確かだったが、かと云って軍人以外としての生き方を彼は知らなかった。
 ユーディットを思い起こす。まだ少女のようなあどけなさの残る顔つきだが、子を宿した部分は日に日に育っていた。そういった身体を好む男も少なからずいるようだったが、彼女はあれ以来テオドールとの約束を守ってくれているようだった。けれど生計を立てる手立てを失った身には、ベルリンの風は冷たく厳しい。彼女の母親も到底働けるような健康状態ではなかった。おのずと頼みの綱は何かと世話を焼くテオドールになるのだが、それも、今隣でハンドルを握る男に云わせれば、軍人の出る幕ではないと、テオドール自身の偽善を酷薄にも暴いてくるのだが。
 ちらりと伺い見た横顔は真っ直ぐ行く道を見据えていた。見れば見る程、その造りの非東洋的な部分が浮き彫りになる。癪ではあるが整っていた。長い時間飽きる事なく眺めていられると考えられる程に。口になど決してしないけれども──。
「どうした?」
 ハンドルを扱いながら赤井が問い掛けてくる。瞳は前方を見据えたままだった。
 そんなにあからさまな視線だったろうかと、テオドールは顔を背ける。
「……ハイナーが、喜んでました。あんな装丁の本は滅多に手に取れないから」
 幾日か前、赤井はバザーで売り出されていたと云って、立派なモロッコ革で綴じられた本と地図を子ども達に与えていた。ユーディットと母親には特別に、籠に入りきらない程の果物を持って来た。マンダリン由来の柑橘で、今のベルリンでは勿論上流階級者か外国通貨を持つ者しか手に入れる事ができない。
 意外な行動だった。赤井にとっては、彼らはしょせん外国の、ともすれば一生接点を持つ事のなかったかもしれない人種であり、職務どころか救いの手を差し伸べる個人的な責務すら──赤井が云うような、偽善を振り撒く必要すらない相手なのだ。
 故に真意を計り知れない。今、こうして運転を買って出ているのも、テオドールには何故だか理解しかねる。もともと腹の中を読めない男ではあったが。年明けすぐのホテル・アドロンの夜が思い出された。──もしかすると、全て、気まぐれなのかもしれない。九年前からずっと……。
 気を取り直して取り出した煙草に、一本だけ残っていた燐寸で火をつける。すぐに葉は燃え始め、倦怠感に似た心地良さに脳が支配されていく。モルヒネを常用するテオドールにとってはむしろ足りないくらいではあるが、喫煙を再開してからはその摂取回数は減っていた。
 グリューネヴァルトの鬱蒼とした木立の群れに目を遣りながら、なんとなく思い出してしまった。そうだ、オリバーに頼まれていた──。

「零」
 停車したと思うと不意に呼ばれ、テオドールはほぼ反射的に振り返った。そして──心臓の止まる思いをした。
 秀美な顔が近付いてきていた。そっと顎先を支えられ、煙草の先端同士が触れ合った。
 指先は存外あたたかかった。赤井は軽く眉をひそめて、「吸ってくれ」と薄い唇で僅かに囁く。
 覚束なく息を吸った。テオドールに合わせるように、赤井も吸い込む。赤く燃え上がるように火は迸り、融けるように一瞬で消えた。快楽に似た感覚を覚えた。
 火のついた煙草を咥えて、赤井は運転席から降りる。同じく降車したテオドールは、玄関先で、微かな笑みを浮かべて視線を寄越してくる赤井に気が付いた。
「なんですか」
「今、欲情しただろう」
「……Idiot.」
 赤井の眼差しは責めるようなものでも、ましてや揶揄するようなものでもなかった。まるで小さい子どもに覚え知らせるような、深さがあった。これから性欲を交わすだけの相手にしてみせるには不釣り合いの、どこか情念のこもった態度に、テオドールは思えた。

 買ってきた湯に浸かった後で、グラスを傾ける手間も惜しんで、寝室へ向かった。身体が疼いて仕方なかった。最初に家に通してから何度かこの男を寝室に入れたが、酒を入れずに交接しようとするのは初めてだった。
 赤井は燭台の蝋燭を灯すと、寝台に腰を下ろし、壁際に背を預けた。テオドールは赤井に近寄り、おもむろにその膝車に跨る。
 この男を見下すのは気分が良かった。所属は違えど自分は少佐の身で、この男は大佐だ。しかもまだ若い。有望株なのだ。女にも不自由ないであろう男に乗って、こうして冷然と澄ました顔を上から眺めるのは、一種の優越感を彼に感じさせるのだった。──こんな男が、欲望を満たすために、同じ男である自分を抱くのだと。
 甘美であり背徳的でもあった。同性間の情欲は宗教上、あるべき性の逸脱とされている。 男女間の性交と違い、子を成さないからだ。神がアダムとエヴァを作ったのは人間を繁栄させるためであり、とすると同じ男に抱かれて快楽を得る自分は、神に背く存在なのだ──。
 容を覚えるような手付きで触れる。赤井はされるがままテオドールの愛撫を受け入れていた。唇を重ねる。舌を絡ませて、咥内の湿った感触を愉しむ。
 イギリス煙草の味がした。テオドールはそっと手を下ろし、赤井の頸筋から胸許、臍下までを戯れるように撫でた。筋肉量が程良く、固い皮膚は触れていても快然としたものだった。肉体すらも隙のない風貌のこの男に対して、実のところ、テオドールはただ享楽の相手としてよりも、もっと意識的で、複雑な感情を抱いていた。それは同じ戦場を体験したというある種の身内意識からくるものかもしれなかったし、一方で、あの少雨の日に、初めて言葉を交わした瞬間から抱く感情かもしれないと、ただ漠然と感じるだけなのだが。

 不意に腰の辺りを撫で摩られる。ひとつ触れるごとに快感を蓄積させるような手付きだった。大きな掌で下腹を揉みしだかれ、もどかしさから唇を離すと熱い吐息が融け合う。肘を力強く掴まれ、塞ぐように再び噛み付かれた。
 負けじと赤井の下半身を覆うバスローブの中に手を滑らせ、僅かに熱を持った部分を扱き上げる。膨張し始めた一物は次第に獰猛なまでに育ち、愛撫するテオドールの手に馴染むほどになった。
 どうにもたまらなくなったところで、股間に顔を寄せるため赤井の膝から降りようとした、ちょうどその時。浮かせた右脚の膝裏を取られ、更に圧し掛かるように肩を小突かれ、テオドールは頓狂な声を挙げながら背中からシーツに倒れ込んだ。
 突然のことにいささか抗議めいた視線を送ると、赤井は悪怯れもせずに、どこか状況を愉しむような表情をしてテオドールにのし掛かってきた。
 バスローブの腰紐をやけに勿体ぶった動作で解かれる。裾を払い、露出した股座を見下ろされて、テオドールは確かに羞恥を感じていた。翻って、薄い皮膚をくすぐるように触られ、肝心の部分が主張するように切なく震える様子にさえ、興奮を募らせてしまう。
 もう挿れてほしいとすら思う。今夜の愛撫はどこかいつもと違った。挿入のための愛撫を平素とするなら、今夜の赤井の触り方は、快感を引きずり出すための愛撫のように感じられた。正直、テオドールはこれまでの性生活で生ぬるい愛撫など必要としてこなかった。素質があったからか、男を知ってからずっと、前戯は程々に早々と交接するのを好んできた。無論、挿入前の前戯でこれ程までに──皮膚の内側からとめどなく零れ出るような快感を、感じたこともなかった。
 だからこそ、挿入されるのを待ち望んでいた。赤井との関係は、前戯に時間をかけるようなものでも、終わった後に甘い言葉を交わすようなものでもない。そもそもが互いの利を追求した相補的成因から始まった関係なのだから、愛人同士が親愛の情を表すためにするような行為を、この男との間に持ち出す事は、許されてもいないのだ。
 なのに──、赤井の指先はいつになく、語りかけるようにテオドールに触れる。意固地な彼にとっては度し難く、為す術もない。そんな心象を見抜くかのように、赤井はそっと、いじらしく雫を漏らす先端に唇を寄せてきた。言下に驚愕の意を込めて、テオドールは赤井を見遣る。蝋燭の心許ない灯りの中で、その顔は、静謐なまでの翳りを携えながら、ひどく淫靡に微笑んだ。
「……ぁ、ふぅ……あっ、……あ、あッ」
 普段、高慢なほど躊躇のない言葉を発する唇に、口付けの度に熱く舐られる舌に、下半身を愛撫されているのだと思うと、腰が甘く痺れて、声が漏れ出るのを止められなかった。挿れられてもいないのに朦朧としてくる。強く吸われ、かと思えば敏感な処をもどかしく舐め取られ、譫言のように喘いでしまう。

 いつのまにか全身汗に塗れていた。鈴口を舌先で抉じ開けられ、撫でられると、テオドールは堪え切れずに腰を揺らした。──刹那、はたと、物狂おしい愛撫が止んだ。
「あっ……あ……は、……なに、」
 発散しきれず、強制的に溜め込まれた快感に肌が粟立つ。無意識のうちに涙を零していた。赤井はテオドールの股座から顔を上げると、確かな声色で、「気持ちいいか?」と問い掛けてきた。思いがけない質問に答えあぐねていると、重ねるように呼ばれる。
「零」
「……あ……、」
 先走りとともに侵入してきた指が、遠慮もなく前立腺を探り当てて、テオドールを追い詰める。そこをやられると駄目だった。急速に蘇る射精感に喉を痙攣らせ、頭を振り乱して快楽の渦に沈んでいく。
 乱されるままに精を解放させられる。射精が済むと、息つく暇もなく後ろに穿たれた。女のような嬌声を挙げてしまい、テオドールは僅かに残っていたらしい羞恥を感じるも、内部で擦り付けるように動かれると、もはや恥じ入る隙もなく、ただ赤井の律動を受け止めるしかできなくなった。
「あぁっ、ァ、あッ……は、ぁっ、ぁんっ、」
 口を閉じていられなかった。皮膚の内側どころか、まるで骨の髄から溢れ出てくるような性悦に、思考まで支配されていく。──気持ちいい、気持ちいい、きもちいい……。
 いつもは揺さぶられながらも、どこか快感に浸り切れない自身がいた。なのに、少し赤井にやさしく触られただけで、こうも我を忘れてしまうとは──。
 零、と。囁かれると自分でも赤井を締め付けてしまうのがわかる。大切だった人が、ラインハルトの頭を取って親称した名前だった。赤井の染み渡るような声で呼ばれるとどうも胸がさざめいた。
 不意に頬を撫ぜられて、テオドールはそっと赤井と視線を合わせた。あの眼差しだった。深く、情念のこもった、緑色の──。
「Tiefer.(もっと)」と、悦びの言葉が驚くほど自然と口を突いて出た。緑の眼差しが僅かに細められる。不意に膝裏を高く持ち上げられ、ぐっと、赤井の腰が押し付けられた。あえかな声を漏らして、テオドールは眼を瞑ぐ。もう、あとほんの少しでも距離を詰められると届いてしまいそうな程、深かった。ひどい圧迫感だった。同時に、信じられない程の性悦の予感に、恐怖心すら覚える。
 ずる、と引き抜かれ、浅い呼吸の隙間にまた突き入れられた。
「あ、」

深いTief……

 視界がぱちぱちと弾ける感覚とともに再度吐精を迎えた。自分で吐いたというのに、腹の上が精液塗れで気持ちが悪い。ぐ、ぐ、となおも忍び込もうとする赤井の一物は傲慢な程で、テオドールは眼を見開いて、ひたすらに、もはや嬌声よりもはるかに反射的な咆哮を挙げながら犯されていた。焦点が定まらないまま視界が揺れる。恍惚に舌がしまえなかった。腸を突き破られそうなのに、脳髄はどろどろに融けてしまったように痛覚を消し去る。
──こんなに奥で、他人を感じた事などない。
 隙間なく繋がりながら、赤井から口付けを受け取った。息が詰まる程濃密だった。辺りを花の匂いが包む。今、自分の身体のなかにいる男が、自分と同じ匂いをさせている事に、テオドールは切ない絶頂に身を灼きながら、ようやく気が付いた。


***


 秋の夜長のベルンブルガー通りに、オーケストラの壮大なシンフォニーが響き渡る。故マーラーの交響曲第二番、指揮はブルーノ・ヴァルターだった。一八九五年、作曲家自身の指揮でここベルリン・フィルで初演され、一九一一年に没した後は、親交の厚かったヴァルターによって公演が重ねられてきた。
 ブルーノ・ヴァルターはフルトヴェングラーと並ぶ偉大な指揮者だ。そしてユダヤ系だった。昨年、長くベルリン・フィルの常任指揮者だったニキシュが亡くなり、その後任に据えられたのはフルトヴェングラーであったが、ベルリン・フィル内で自身の演奏会を持っていたヴァルターを常任にとの呼び声も高かった。
 か細く震えるトレモロに、チェロの重い低弦が連なる。熱を秘めたような主題の旋律は、深めるようなトロンボーンやチューバの木管楽器と、オーボエやファゴットの金管を巻き込み、解放され、そして新たにヴァイオリンの伸びやかな音色が鳴り響いた。
 テオドールはそっと視線を舞台から外した。中央の後方列に座すテオドールの、向かって右側前方、より舞台に近い席に、永山日本国大使夫妻と陸軍大佐──赤井秀一が、座っていた。
 なぜ、今日、会ってしまったのか。確かにベルンブルガー通りは日本大使館のあるヒルデブラント通りとも、ドイツ軍総司令部のあるベンドラー通りとも目と鼻の先だった。だからと云って、なぜ今日……。
 久し振りに顔を見た気がするが、最後に会ってからまだひと月も経っていなかった。それ程までに、あの赤井という男が、己の心中深くに根を下ろしてしまったのかと思うと実に不本意であり、同時にそれも仕方のない事だと諦めるように云い聞かせた。事実、現状のところ、テオドールが性を交わす相手はあの男に限られたし、誘いはあっても、特段他の男に抱かれたいとも思わなかった。
 それに──あんな、抱かれ方をして、平常でいろと云う方が無理な話だった。あの夜は互いに気が触れていたのだ、とは思っても、あの日の赤井の身体の熱を、眼差しを忘れ去るには、テオドールは恐らく、初心過ぎた。否、青年にようやくなり出した若い頃の──青島での記憶が、あまりにも鮮烈過ぎたからかもしれない。

 爛れ合うような交わりの後では、面と向き合うのはテオドールにはどこか気恥ずかしく感じられた。あの夜──赤井は二度放出させた後しばらく横になって煙草を吹かしていたが、思い立ったように寝台から降りると言葉も無く部屋から出て行った。数分後に戻って来た時はすでに軍服を着込み、平静とした表情でテオドールに水の入ったグラスを差し出した。
 起き上がろうにも身体に力が入らなかった。性交の倦怠感が続いていた。初めてのことだった。テオドールの様子に気付いたのか、赤井は寝台に腰掛けると、口に水を含んでおもむろに口移ししてきた。嚥下するとそのまま舌を絡め取られる。敏感を極めた身体が馬鹿正直にも反応した……。

 ティンパニの強烈な打撃音に我に返る。静寂の後に、再び管楽器の高らかな旋律と弦楽器の深く厚い音色が溶け合い、指揮が情熱を帯びるにつれて、昇華されるように響き渡った。シンバルが打ち鳴らされる。一糸乱れぬ弦の細かい動きまで嫣然としていた。
『復活』と題されるに相応しい、威風堂々たる音の連なりだった。一度は葬られた命が、まさに力強く甦ろうとしていた。その熱量はさながらこの街の行く末に天佑を与えようとしているかのようで、テオドールはわずかに嘆息しながら頭を抱えた。
 どこか、テオドールの手に及ばぬところで、大きな動きがひしめいているように思えて仕方がなかった。このところ政局はめまぐるしく、ベルリンの街も眼に見えぬ暗雲に空を遮られたかのように鬱屈としていた。九月に入るとマルクは急落し、1ドル=3330万マルクと、ついに緊迫した事態へ陥った。分刻みで紙幣の下落が進み、パンひとつ買うにも150万マルクという途方も無い金額が求められた。嘘のような話だが、コーヒーを注文して、会計する頃には代金が何倍にも膨れ上がっていたという話もざらに聞いた。ライヒスバンクが発行する超高額紙幣は100万や200万、500万という額面まで登場したのだから、状況の悲惨さを如実に物語っていた。
 こんな状態で、人々がまともに暮らしていけるわけがなかった。栄養失調のため流行り病に罹り亡くなる人がそこら中にいた。生まれたばかりの子どもまで……。
「あの日本人か?」
 演奏が第四楽章に入り声楽が加わった頃、隣に座るオリバーが視線を前方に遣ったまま声を潜めて問い掛けてきた。誰のことを指しているのかは明白だった。ただでさえアジア人は白人の輪の中では目立つのだ。肯くと、オリバーは「後で紹介してくれ」とだけ云ってまた舞台上に集中した。

「ヘア・ヴァルターの指揮でしたら前回もお目にかかりましたよ。その時はブラームスの交響曲第二番にベートーヴェン、モーツァルト、あとは……」
「シュトラウスの『ドン・ファン』でしたね」
「ええ、そうでした。ベルリオーズはその更に前でしたでしょうか」
「一月ですわ。見事な幻想交響曲でした」
 永山夫人は召した和服の袖から覗く白い手を、包むように頬に当てた。外国の大使夫人として申し分ない理知さが、日本的な美しい顔立ちに惜しみなく滲んでいた。
 揃ってオーケストラ・ファンらしく、夫妻はオリバーの友好的な話しぶりに喜色をあらわに応じていた。歓談の中、オリバーは夫妻の脇に構える赤井にも話を振った。互いに自己紹介を済ませたばかりであった。
「どうです、大佐殿は。こういった場所はよくおいでになるのですか?」
「ええ、大使館がすぐそこなのでね。実を言うと、一三年にキール軍港を視察させて頂きました際に、ベルリンにも立ち寄って、ここでヘア・ニキシュ指揮のベートーヴェン交響曲第五番を聴いたのですが、それからです。こういう場所に足を運ぶようになったのは」
「大戦中はどうされていたのです?ずっと日本で?」
 オリバーが答えを知りながら質問するのを、テオドールは横に立ちながら聞いていた。
「青島から帰朝してから後は数年ニューヨークにおりましたので、そこの楽団に」
「合衆国内でも指折りと聞きますよ、ニューヨーク・フィルは……そうですか、ニューヨークに、ね」
 含むような口調に次いで、オリバーは不意に「では、一八年の十一月もそちらに?」と訊ねた。赤井は口元で笑みを作り、肯定の意を表す。
「今でも鮮明に思い出せます。あの日・・・の凄まじい汽笛の音と、人々の熱気を。窓という窓からはためく大小様々な星条旗を。まさに狂騒の宴といった様相でした」
「ドイツが死んだ日です。我々が生まれ育ったドイツReichがね」
「まあまあ、政治の話は今度にして。そうだ、来月のヘア・フルトヴェングラーの公演のチケットなんだが──」
 永山大使が遮るように口を挟んだ事に、テオドールは内心安堵の息をついた。

「ああいう、何を考えているのかさっぱり判らない眼をした男は嫌いだ」
 帰りの車内で、オリバーは忌々しげに呟くと、テオドールに向き直って再び口を開いた。
「お前はどう思う?あの男、俺達にとって邪魔か、そうでないか……」
「たった一年とはいえ、あのシベリアを生き抜いた男だ。用心しておくに越した事はない」
 テオ、と。オリバーは幾分声を落ち着かせて話し出す。
「お前にまだ迷いがあるなら俺はそれでもいい。ただ、これだけは云っておく。ドイツは、勝てたはずの戦争に負けて、死んだ。あろう事か身内の裏切りによってな。今また、この国は死に瀕している。ルールが見棄てられたらそれこそドイツは終わりだ。間違ってもフランスや連合国の云いなりにはならない」
 判るだろう?とオリバーは、熱烈なほどの強い眼差しで訴えかけてくる。
 同調し切れない自分は、もはやドイツの軍人ではないのかもしれない──。
 車は静かにベンドラーブロックに辿り着いた。迎えに出て来た部下が、執務室のドアを開けるついでのように、テオドールに耳打ちする。
──マレーネ・ブリュールが亡くなりました。
「……死んだ?」
「未明に容体が急変したそうです」
「……娘は」
「一時的にアパートの管理人の部屋に身を寄せているようです」
 そう云うと、部下は少しばかり眼を細めて、「出過ぎた言葉と承知の上で申し上げますが、」と続けた。
「いくら子どもとはいえ、アカの人間を贔屓にするのは、帝国の軍人たる精神に反するのではないでしょうか」
「……そうか」
 テオドールは椅子に腰掛けながら、視線を窓の外にやった。ラントヴェーアが黒々と、夜の中に浮かんでいるかのような輝きを見せていた。
「では、明日からブーフラッカー少佐に従け」
「はっ……?」
「配置換えだ。人事には話を通しておく」
「……わかりました」
 失礼します、と敬礼をしてから部屋を出て行く背中を、テオドールは窓越しに眺めた。


 一九二三年九月二十六日、シュトレーゼマンはルール地方の占領軍に対する抵抗運動を終了するとの宣言をした。同日、大統領エーベルトは戒厳令を発布、これにてルールに於ける指揮権はゲスラー率いる国防省に委ねられる事となった──。

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -