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 一九二三年の年が明けてまもなく、赤井秀一は軍服を着込み、ひとり夜の通りに出てドロシュケ(辻馬車)に乗り込んだ。
 街は大晦日で浮き足立った祭りの様相を残していた。それでいて何処か鬱屈とした雰囲気を孕んだ、静かな艶美ささえ感じられる。大聖堂の鐘の高鳴り、教会の賛美歌、馬の蹄が雪上を疾る音──。
 しばし街の様子を眺めてから、赤井はヒルデブラント通りの中程で馬車を降りた。
「大佐殿、お電話でも下さったらお迎えに上がりましたのに、」
 部下の言葉を遮って、赤井は「大使殿は?」と訊き返した。
 「準備中であります」そう答えた部下は、羽織を脱いだ赤井の姿に釘付けになった。袖に亀甲模様をあしらった正衣に、今夜は普段は省く金色の飾緒が肩から胸部にかけて飾られている。腰には正剣を提げ、白手套を嵌めるその姿は、東洋人離れした赤井の体格にこれ以上ないほど似合っていた。
 予定より早く永山特命全権大使は現れた。自身も仕立ての良いテールコートを身に纏い、後ろに夫人を連れての参列であった。大使は赤井の姿を見定めるとすぐに感嘆とした声を挙げた。
「Frohes neues Jahr! Herr Oberst. (明けましておめでとう!大佐殿)いや、これは驚いた。軍服というのは正装になると途端に華美さが増すものだが、貴君の場合は格別だな」
 脱帽時であったため、赤井は恭しく一礼をして大使夫妻に新年の挨拶を済ます。大使は今晩の赤井のより一層凛々しい様子に、緩やかに瞳を細めながら云った。
「君はお母様似だと思っていたが、そういう姿を見ると大将殿に瓜二つだ」

 大使と随行員達が連れ立った先は、ウンター・デン・リンデンに程近い豪奢なホテルだった。ブランデンブルク門を臨む大広間に集うのは、肌の色も話す言語も相異なる人種達であった。ここベルリンに駐在する各国大使と軍関係者である。
 大戦の英雄達の姿もそこかしこに確認できた。パイロットとして名を馳せたゲーリングや、東部戦線にて勝利を挙げたヒンデンブルクにルーデンドルフ。共和国陸軍総司令官のフォン・ゼークト上級大将まで、他国にも影響を及ぼす軍人達が一同に会するのは極めて稀有な事だった。しかし隅まで目を配らせてみても、件のフランス大使の姿は見受けられない。
「風雲急を告げるとはまさにこの事だな」
 諸外国大使らとの歓談から離脱した永山大使が、ワイングラスを片手に赤井の隣でそう溢した。赤井は勧められるグラスにささやかに口を付けながら応じる。
「先日の賠償委員会の認定をおもんぱかると占領開始は幾許もなく行われる筈です。ポアンカレ首相の声明も近日中に公開されるかと」
 十二月二十六日、パリで行われた賠償委員会の会議で、連合国はドイツからの木材現物支給量の不足は、同政府の意図したところだという決定を下した。唯一英国は反対の声を挙げ、ドイツの支払うべき賠償金総額を500億金マルクへ減額する旨の提案をしたが、フランス政府は斟酌の余地もなく一蹴したのだった。
 こうした賠償金をめぐる論争はドイツ政府、及びドイツ国内に大戦の疲弊を癒す暇を与えなかった。一九二一年、賠償金総額が定められると、それに伴って通告されたロンドン最後通牒は、当時のフェーレンバッハ内閣を総辞職に追い込んだ。次いで首相となったヨーゼフ・ヴィルトは、前首相に反して賠償金の「履行政策」を掲げ、連合国にドイツの条約遂行能力を見せようと画策したが、この事はヴェルサイユ体制に不満を持つ右翼団体の反感を買った。
 結果、進行していたマルク下落により履行政策は失敗。一方フォン・ゼークト総司令官と結託してソ連と外交協定を結ぶも、調印に当たったユダヤ人のラーテナウ外務大臣が極右テロリストに暗殺され(ロシアで共産主義革命を煽動した幹部はユダヤ人が多く占めていたため、世界的に反ユダヤ感情が高まっていた)、これはマルクの暴落を誘発、インフレが加速した──。
 紙幣が紙くず同然なのである。赤井はベルリン着任当日に目にした、紙飛行機で遊ぶ子ども達を思い起こした。
「聞くところに拠ると、フランスとベルギーは既に軍備派遣の手筈を整えているそうです。早ければ十日以内にルールに出兵するとの風聞ですが……」
風聞、、か……私の処にはそんな情報はまだ来ていないが」
 大使は苦笑いで皮肉った。

 その時だった。赤井の視界にとある軍人──共和国の若い陸軍少佐が現れたのは。総司令官の傍らに従き、各国要人と丁寧に挨拶をする姿はまさに貴族士官然としたエリートである。
永山大使は野良犬の群れの中に毛並みの美しい猫を見つけた時のように、「おや」と声を漏らした。
「彼、君も何度か会議で見掛けた事があるだろう?あの金髪の。日本語も堪能でな。物腰柔らかいがあれでも西部戦線ではかなりのやり手だったそうだよ。上級大将ゼークトのお気に入りでもあるらしい」
 君も親交を持っておいて損はないだろう。大使はそう云うとグラスの中のワインを泳がせながら改まった様子で背を伸ばし待った。
 金髪の陸軍少佐は大使の姿を捉えると気の良い笑顔で近付いて来た。弧を描く唇が「Guten Abend. Herr Botschafter.(ご無沙汰しております、大使殿)」と上質なドイツ語を紡ぐ。
「明けましておめでとうございます。ドイツの正月は日本と違って味気ないでしょう」
「明けましておめでとう。なに、日本だと色々と気を回さなければいけないからね。これ位が丁度いいですよ……ああ、少佐殿、紹介しよう。我が国の陸軍大佐です。大使館附きでね、まだ着任してひと月程ですが。赤井大佐、こちら共和国陸軍のベネッケンドルフ少佐だ」
 そうして大使は優雅な仕草で赤井を促した。
 ベネッケンドルフ少佐は視線を赤井に移した。そしてその碧眼を細め、唇に更に柔和な笑みを形作った。赤井は手を差し出した。
「Es freut mich, Herr Major. 大佐の赤井です。貴官はとても優秀な人材だと多方から伺っております」
「ベネッケンドルフです。こちらこそ、一度きちんとお目にかかりたいと思っていましたよ。大佐殿のお噂は共和国軍の中でも聞き及んでおりますので」
 辛辣さなど一寸も感じさせず少佐は云った。改めて見るこの男の風貌は、成る程軍隊組織の中においては嫌でも目を引く。自信に満ち溢れた碧眼──。赤井も口元に笑みを浮かべる。
握手を交わす二人の間で、大使は興味深げに「ほう、どんな噂かな」と訊ねた。
「青島では司令部にいらっしゃったとか。貴軍の凄烈な砲撃数には我が軍も舌を巻きました」
 良い噂ではありませんね。赤井の言葉に少佐は否定もせず微笑んだ。

 会話がシベリアでのチェコ軍撤退の話になった頃、少佐は呼ばれて控えて行った。そろそろ宴会も終わる。赤井はホテルの車寄せで大使が車に乗るのを見届けると、ひとり館内へ戻った。
 昇降機の篭に乗り込み運転手に階数を告げる。ガラガラと音を立てて蛇腹扉が開いた処で、運転手にチップを弾んで渡した。にこりと、慣れた微笑みで“Danke schön”と返礼される。一流のホテルは従業員も口が堅い。
 閑散期らしく廊下は静まり返っていた。正装用の短靴で廊下の絨毯を踏み歩く。角部屋の前で立ち止まると、赤井は扉を二度ノックした。反応はない。もう一度。今度は間髪入れず素早く扉が開いた、瞬間。
──胸元に垂らした金の飾緒を、勢い良く引き寄せられた。
 粗雑に閉められた扉に背中が押し付けられる。同時に赤井の鼻腔にほんの僅かな花の香りが掠める。こうして間近に寄らなければ判らない程度の──。
「わざわざノックしてきて……嫌味な男ですね。鍵はどうした」
 ここにHier.。赤井は云いながら、見せ付けるようにこの部屋の鍵を差し出した。
 ベネッケンドルフ少佐──先程とは打って変わって愛想の欠片もなかった──は、その碧眼に嘲弄の色を浮かべながら、赤井の手から金色に鈍く光る鍵を奪い去っていった。

***

 ブランデンブルク門──アテナイのアクロポリスにかつて建立した門を模して、時のプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世が、一七九一年に創建した関税門のひとつである。門上には四頭引きの戦闘馬車に乗る勝利の女神ヴィクトリア像が建造され、荘厳な眼差しでベルリンの街を見下ろしていた。
 部屋の窓からベルリンのシンボルを眺める赤井の前で、背の高いグラスが一脚、テーブルの上に置かれた。
 電燈に照らされて黄金に輝く液体を少佐はグラスに注いだ。ゼクトだった。仄かに口当たりの甘い炭酸が赤井の喉を潤す。少佐は赤井の対面の椅子に掛けて、同じようにグラスを口に運んでいた。
 呼び付けておいて──握手した際に大使に気取られぬよう鍵を渡されたのだった──少佐は視線を落としたまま酒を呑み続けるだけだった。感情を失くしたような伏し目で一点を見つめている。赤井は煙草を取り出して咥える。赤井から差し出された一本を、少佐も同様に口にした。
 宵が深い。窓からは帰路に着く紳士淑女が通りのあちこちで馬車を拾う姿がはるか階下に臨めた。沈黙の中で、ふと、赤井は少佐の視線に気が付く。碧い目というのはここドイツにおいても貴重だ。ましてや金髪に褐色肌ともなれば、探そうとして見つかるものでもない。中東の血でも混ざっているのか……。
 少佐の顔付きは八年の月日を経てどこか達観した様子を見せていた。ただ時間を重ねただけでは得られない、戦争を経験した者にしか生み出せないような、余裕や、豪壮、叡智さ、そして諦念が表れていた。少年らしさは完全に失せたその表情が、真っ直ぐ、赤井に向けられる。
 赤井は煙を吐いた。視線を受けて、切り出す。
「──それで、こんなスイートに呼び出しておいて、仲良く宴会の続きでも?」
「……あんな畏まった場じゃ碌に酒も楽しめないでしょう。もっともそちらは呑んでいたみたいですが」
「心配には及ばん。仕事に差し支えるような呑み方はしないからな」
 皮肉に皮肉で返すと、少佐は少しだけ気分を害されたような表情をしたが、それもすぐに収まり、一度グラスを煽ってから話し始めた。
「本題の前に、貴方に訊いておきたい事が二つあります」
「それは興味があるな。ひとつ目は?」
「八年前……貴方は、僕から得た情報を連合国に渡さなかった。それは何故ですか?」
「鉅野事件がどうのという情報か?それなら、あの時青島は既に日本軍の占領間近だった。大昔のドイツのスキャンダルなど売ったところで日本の利にもならんだろう」
 少佐は黙した。赤井の「二つ目の質問は?」という言葉に、小さく嘆息して口を開く。
「……僕を……あの寺院に置いて行った理由は、何ですか」
 少佐のグラスに赤井はゼクトを注ぎ足した。そうして自身は煙草の灰を灰受けに落とし、脚を組んだ。
「そうだな……ほんの気まぐれに過ぎん。五体満足で良かったじゃないか、少佐殿。西部はどの戦線も凄まじい塹壕戦だったと聞く」
「気まぐれ……」
 少佐は繰り返して再び沈黙した。次に顔を上げた時は、先程の懐疑な表情はもはや消え失せていた。
「貴方の持つ情報を開示して頂きたい」そう少佐は抑揚もなく云った。赤井はグラスを傾けながら、「どの情報だ?」と当然の返答をする。
「白を切るのはやめてください。何処まで知っている……?」
「マヨーア・テオドール・フォン・ベネッケンドルフ──プロイセン陸軍士官学校卒業後、青島へ出兵、約一年姿を眩ませた後に帰国。一九一六年よりソンムへ赴き司令部参謀の一人として作戦立案を担い、その功績が認められ一級鉄十字章を受章……」
「そんな事を訊いてるんじゃない」
 そう赤井を遮った少佐の声色には怒気が込められていた。赤井は嘲笑った。
「ではどの事だ?貴軍の黒い動きの事か?」
──切れた。そう赤井は感じた。
 少佐は細く煙を吐くと、灰受けで煙草を揉み消した。不意に立ち上がり、緩慢な足取りで赤井の目の前に居直る。赤井を見下ろすその碧眼はやはり冷ややかで、しかし同時に、日本人の大佐に──敵に──対する怒りの熱情が見て取れた。
 やはり変わっていないな……。美しく咲く花を手折る感覚が赤井に蘇る。
 少佐は赤井の軍服の肩に手を置いた。そうして視線を赤井の胸元へ向け、僅かに眉を寄せると、そっと言葉を放った。
「……勲章の多い男だな」
 少佐は顔を赤井に近付けた。赤井もまた、動じることもなく、少佐の濡れた唇を受け入れた。



 胸の徽章同士が擦れてカチカチ鳴る音が耳障りだった。少佐は口付けの合間に己の軍服を脱ぎ捨てその肌を晒すと、赤井の飾緒を釦から外して、上衣を脱がせにかかった。
 シャツをはだけさせ露わにした赤井の肌に、そっと少佐の舌が触れる。筋肉の筋をなぞるような動きは真綿のようで、赤井は呆れたように声を出した。
「それで奉仕しているつもりか?それなりの働きをしなければ俺からは何も望めないぞ」
「っ!あ……」
 赤井は革張りの椅子から立ち上がると、少佐の肩を抱いて寝室へと向かった。寝台の前に来ると、軽く背を押してシーツの上へ促す。そのまま寝台に膝をついた少佐に、すかさず「そんな格好でどうやって抱かれるつもりだ」そう云い放った。
 寸分の間を経て、ベルトの尾錠を外す金属音が鳴った。共和国軍の、灰色の濃い緑の軍袴を床に落とし、少佐は再び寝台に膝をつく。
 その様子を後ろから眺めながら、赤井は腰に提げた刀と拳銃を少佐の脇に放り投げ、その上に上衣を脱ぎ捨てた。徽章の重みでずっしりと沈んだ軍服に、少佐はビクリと肩を揺らす。その背中に手を這わせ、力を込めると、褐色の身体は容易くシーツへ伏せていった。
 ある種の優越感が赤井を支配する。つくづく彼は他者に対して気の強い性質を好むのだった。そして、荒波が歳月をかけて岩肌を削り取るように、じわじわと追い詰めるのも……。
 八年前より幾分も隆々とした背中に掩い被さり、金髪を掻き分けて少佐の耳元に囁き掛ける。
 零──。
 たちまち背中が打ち震えた。耐え忍ぶようにシーツを掴む少佐の背筋を辿り、赤井は彼の下半身に触れた。「準備がいいな」そう揶揄して寝台脇に置かれた壜を手に、中身を褐色の肌に溢していく。
 赤井本意ではない行為なのだから潤滑剤を使用する義理もなかったが、快楽には苦痛は無用だ。赤井からせめてもの情報を引き出したいと自ら身体を差し出した少佐のいじらしさに、今宵は免じた、それだけであった。

 とろりとした粘液を元は排泄器官の孔に塗り込める。ほぐすように入り口を掻き、そうして反応を見ながら指先を挿入する。戦慄いた少佐は頭を伏せ、赤井の指が奥へ進むたび短い呼吸を繰り返す。小さく悶える声。ここまでくると思い切り善がらせ啼かせたくなるのが赤井という男の気稟だった。
「ふ、あ、あっ……あ……あっ、」
「いい子だ、零。そのまま大人しくしていればくれてやる」
 粘膜を擦りながらそう声低く伝える。指を増やし、腹側の浅い部分を刺激し続けると次第にそこが膨らんできた。屹立する一物からはだらしなく滴が溢れ、潔白だったシーツに点々と不埒な染みを作った。
「あ──、ひ、あッ……」
 赤井が指を抜くと、ひく、と濡れた肛門が蠕動する。
 ベルリンの女神が見下ろしていた。赤井は自身のベルトに手を掛ける。
「今夜も精々愉しませてくれ、少佐殿」
 手を添えて己の一物を少佐の身体に押し当てた。性悦の予感に少佐はとろけた碧眼を向けてくる。
 赤井がぬかるみへ腰を進める……。


 蹴破られるような勢いで部屋の扉を叩かれたのは、その時だった。

***

 ヘア・マヨーア!
 扉の向こうで声が叫ぶ。無遠慮なノックに少佐はいまだ虚ろな瞳のまま視線を玄関へ奔らせた。
「……お呼びだ」
「あ……」
 事もなく赤井は少佐から身体を離した。突然の空無に動揺を隠せぬ様子のまま、少佐は半身を起こす。赤井に一瞥を送ってから、衣裳棚の上に畳まれたバスローブを羽織って玄関へ急いだ。
「こんな夜中に何事だ」
「お休みのところ申し訳ありません、しかし急を要するので。ポアンカレが動きを見せたようです」
「……遂にルールに軍隊を送って寄越すのか」
「声明発表は本日正午の予定です」
「Alles klar.」

「ベネッケンドルフ少佐……」
 男の声が、一転して遠慮がちに上官に告げた。
「お煙草はやめられたのでは」
 寝室へ戻った少佐に、赤井は煙草を燻らせつつ問い掛けた。
「何か問題でも?」
「……聞こえていたくせに。本当に嫌味な男だな」
 少佐はそう呟いて、バスローブから脱ぎ捨てたばかりの軍服へと着替える。
「僕は戻るので、貴方はどうぞ泊まっていってください。支払いは済んでます」
「随分と気前が良いな」
 少佐は答えなかった。リビングルームで軍服の上衣を羽織る背中に赤井は「Aufwiedersehen, Herr Major Beneckendorff.(ではまた。ベネッケンドルフ少佐)」と微笑して言葉を投げる。
 アウフヴィーダーゼーエン。少佐もまた返し、そして扉を開けて日常へ戻って行った。
 部屋に静寂が落ちる。フランス軍のルール出兵──予想より大分早い。ゼークトやクーノはどう出るのか……。
 赤井は窓辺に腰掛け、女神ヴィクトリアを遠く眺めた。ナポレオンのベルリン占拠時、戦利品として剥奪された事もあるこの街の象徴。
 彼女を見つめながら、声を漏らす。
「……この国はまた戦争をするというのか」
 火を点けたばかりの煙草を揉み消す。そうして赤井も、深い夜の闇へ、踵を返して行った。


 ポアンカレの声明は以下の通りである。
「本国(ドイツ)の木材及び石炭現物支給不履行は条約第八篇第二附属文書第十七号違反とし、来たる十一月十一日、ロンドン最後通告に則り、仏軍と白耳義軍はルール工業地帯を占領する」…………
 声明通り十一日朝、フランス軍はデュッセルドルフ駐在軍より派遣された枝隊含む計5個師団を、ベルギー軍は2個師団を以ってルールを占領した。総じて8万7千人の軍隊がドイツ最大の工業地帯に無血開城を求めた訳である。
 占領軍は随所に検問所を設けた。境界線となるドルトムント=アプラーベック駅より先、フランスの許可なくして進入はできなくなった。7万人を超える人々がルールから追い出された──。
 嫌仏感がドイツ国内に漂った。店という店の軒先に「フランス人お断り」の文字が並んだ。
 ムッシュー。そう呼び止められたのは、例外なく反仏を主張する店の前を通り過ぎようとした時だった。振り返ると、茶髪に灰色の瞳をした男が赤井を見つめて立っている。男は人好きのする微笑を寄越してきた。
またお会いできて嬉しいです。Glad to see you again.教えた店に全然来て下さらないので……」
 云いながら男は赤井の隣に立ち、雪から逃れるように店先の庇の下に落ち着いた。帽子を脱いで薄く積もった雪を払い、被り直す。懐から取り出した煙草のケースから一本を口に咥え、赤井にも勧める。赤井が口に含むのを見計らって男は燐寸を擦った。
 ピエール──そういった名前だったはずだ。物珍しさに赤井も男を見る。ベルリン中で反仏の声が挙がっているというのに、このフランス人は事なき顔で街を歩いているのだから。
「僕のよく行く店、この先にあるんです。良かったらどうです、外国人にも優しいですよ。僕が入れるくらいなので」
「では、一杯」

 カント通りのクラブ『エル・ドラド』は噂に聞くに違わぬ盛況ぶりだった。顔馴染みらしい店員にピエールは気軽な挨拶を送って、赤井を奥のテーブルに促す。
 香草の効いたカクテルを一口喉に流して、ピエールは「この国が今不況に喘いでるなんて信じられないくらいの光景でしょう」そう囁いた。
「政治が腐敗すればする程僕達の世界は爛熟を帯びる。そう思いませんか、ミスター・アカイ……階級を訊いていませんでしたね」
「大佐です」
 ピエールは微笑んで、カクテル・グラスを戯れのように回して口を開いた。
「終戦から四年経ちますが、また戦争──お陰様で風当たりが強いですよ。なんでもドイツ政府はルールの生産者達に受動的抵抗を発布したとか」
「ヴェルサイユを受け入れた手前、ドイツに正式な武装蜂起を発令させる権限はもはやありません。軍隊を動かす事もできない……占領は非武装化された国に対する無益な強硬手段だと、英国やイタリアは批判しているようですが」
「嫌だな、貴方までそんな事……」
 くすりと笑みを浮かべてピエールはもう一本煙草を吹かし始めた。
 軍隊の動員が望めないために、退役軍人や軍縮によりあぶれた右派の若い元将校らが義勇軍としてルールへ送られた。テロ、占領軍対レジスタンス(抵抗組織)の抗争。治安はこれまでとは考えられない程最悪の状態に陥っていた。
 かたやフランス軍がルールへ侵入してから、首相のクーノはルールの工場就業者達へ生産中止のストライキを呼び掛けている。彼らへの給与支払いを政府が保証した上での事だった。現在のマルクの対ドルレートは1ドル=1万7972マルク──ドイツ経済の心臓である工業生産の中止は、確実にこの国の呼吸を了している。
「辟易します。なにも先の大戦で多くを喪ったのはドイツだけではないのですよ。フランスは戦場になった。ロシアは滅亡した。僕はベートーヴェンを敬愛していますが、それとこれとは話が違う。ドイツが償いの姿勢を見せるのは当然の事ではないですか?」
「だから君達の上司はこの国を徹底的に打倒しようとするのか」
 赤井は口調をくだけさせて云った。ピエールはというと、依然同じような笑顔を顔に張り付けたまま、「僕が外交官だって、何故判ったんです」そう問い掛ける。
「未だにドイツに留まるフランス人は職業外交官か軍人くらいじゃないのか?」
「辛辣ですね……でも嫌いじゃない。実は、パリの連合国会議で一度貴方を見たことがあるんです。去年の夏だったかな。クリスマスの夜、一目見て判りました」
 赤井が煙を吐く。その様子に、目の前のフランス人は灰色の眼を期待に細めて云った。
「今夜は僕が先約でいいですよね?」



「あん、ン、あ、ぁッ」
 自ら激しく腰を上下させながら、ピエールはその一物から精液を迸らせた。下から突き上げるようにして寝ていた赤井の腹に白濁が散る。天井を仰いで悦に浸る身体から赤井は抜け出ると、彼の脚を引き寄せて強引に上半身をシーツに沈めさせた。
 ピエールの赤い唇から感嘆に上擦った声が挙がる。
「ん、もっと……」
 ミスター、と漏らす唇に接吻を落とし、赤井は「シュウでいい」と存外に甘く戯れ、再び己を彼の内部に収めていった。

***

 ルール工業地帯の要であるクルップ・コンツェルンはビスマルクの頃より鉄鋼業を担ってきた。普仏戦争ではクルップ社が建設した鉄道がプロイセンに勝利をもたらし、先の欧州戦でも、ドイツ軍への大砲を始めとする武器提供は、連合国軍を見事に攪乱させた。
 三月三十一日──フランス軍のルール占領より二ヶ月後、クルップ工場の5万人を超える労働者は、占領軍が工場内に強硬的に侵入したとして大規模なデモを行った。占領軍はこれに対して銃器攻撃で応え、死者が続出した。
 そして五月。サボタージュを先導しフランスへの物資輸送鉄橋の爆破を劃策したとして逮捕されていた右翼義勇軍の青年が、二十六日、銃殺刑に処された。新聞はこれを大々的に報じ、国民は彼を英雄と讃えた。
 受動的抵抗は、もはや積極的抵抗へと変わりつつあった。

「そういえば、燐寸は買い溜めておいたのかい?」
 永山大使のその問いに、赤井はナイフとフォークを持つ手を休めて答えた。
「軍からの給与はドルで支払われていますので、現段階では問題はありません」
「賢明な事だ。マルクは今や暖炉に焚べる薪も同然──その薪も巷では入手困難らしいが。店という店に婦人の行列ができているのを君も見掛けるだろう。賃金の下落も激しく、失業者が増えている……砂の上の城だと君は以前話したね」
 言い得て妙だ。そうごちて大使は葉巻に火を点けた。
 公邸の食堂でこうして昼食を共にするのも幾度目になるか、赤井は再び皿の上の魚を口に運んだ。大使はパンにバターを塗る。小麦粉もバターも、今や旅行トランクいっぱいでは足りない程のマルクを積まなければ買えなくなった。
 口直しの水を喉に流し、「被占領区域の労働者も、賃金減少と物価高騰に抗してストやデモを行なっているようです」そう赤井は話す。
「ああ、耳にしたよ。『受け身の抵抗』とやらも、もはや政府の手に負えなくなってきているそうだな。話題の処刑された青年は一石を投じたという訳だ」
「その青年ですが……」
「お父さま!」
 云い掛けた言葉が、突如食堂に闖入した少女により遮られる。黒々の髪と白肌にぽってりと差す赤い頬が日本人特有の女児は、駐在員の娘らしく、清廉としたレースの洋服を着て父親の膝元に走り寄ってきた。
「あのね、フラウ・シュペルレがあたらしいおようふくを縫ってくださったのよ。しゃしん館に行きたいの。おたんじょう日のパーティーはこれを着てもいいかしら?」
 くるりと一回りした後、少女は息を弾ませ云った。
「ああ、とっても似合っているよ、さすがはパパとママの娘だ。でも今はお客様が来ているからね、写真はパーティーの時に撮ってもらおう」
「お客さま?」
 大使の言葉に少女は眼を瞬かせて、ようやく正面に座る赤井の姿を捉えた。赤井は唇に小さく笑みをかたち造って、「こんにちはお嬢さん」と挨拶を送る。
 少女は軍服姿の赤井を物珍しげにたっぷり時間をかけて眺めた後、その容貌を認めたのか面映ゆそうに頬を更に染め上げて俯いた。大使が笑う。
「大佐、娘の杏樹だ。週末に六つになる。ほら杏樹、お客様にご挨拶なさい」
 少女は赤井の席にとんとんと近付くと、スカートの裾を摘んで「ながやまあんじゅです」と可憐な態度でお辞儀をした。
「フロイライン、お会いできてどんなに光栄な事か」
 おもむろに小さな身体を抱き上げて、赤井は頬同士をそっと触れ合わせた。赤井の膝の上に収まった少女は、気恥ずかしそうに大人しくしてはいるもののどこか千倍とした表情だ。大使も満足気に冗談を飛ばす。
「さすが我が娘、男を見る目が肥えているようだ。貴君なら将来安泰だよ大佐殿。歳上すぎるのも大目に見よう」
「将来ご息女の目に耐えられる爺になれましたら、どうぞ喜んで」
「タイサさん、いつお帰りになられるの?」
 少女は赤井を見上げて小首を傾げた。
「ご馳走になったら帰りますよお嬢さん。また近いうちに逢いに来よう」
「ほんとう?パーティーにも来てくださる?」
「勿論」
 ぜったいよ、と念を押したところで、食堂にやって来た大使夫人により少女は退場を余儀なくされた。別れ際頭をひと撫でしてやると、満面の笑みで小さな手を慎ましく振って出て行った。
 すまないね、娘が。大使は苦笑した。
「可愛らしいお嬢さんで。目に入れても痛くないでしょう」
「娘というのは何をしても可愛いものだな。歳を取ってやっとできた女の子だから一入そう思うのか、とことん甘やかしてやりたくなるのだよ」
 大使はそこまで云うと、ひとつ咳払いして「話を戻そう」と食事を再開させた。
「何の話をしていたかな?ああそうだ、右翼の青年がフランス軍に処刑されたんだったな」
「ええ。まだ新聞も発表していませんが部下の調査資料によるとその男、NSDAPの一員だったようです」
「ナチ党か。これまたとんだキナ臭い話になってきたな」
 NSDAP──国家社会主義ドイツ労働者党、通称ナチ党。戦後間もない時期に設立されたドイツ労働者党を起とする、国粋主義的な極右急進派政党である。バイエルンで支持を集め、党員は3万を超える州内でも有数の政党だ。
 大使は眉を寄せて続けた。
「ヒトラーと云ったか。あの男はいけ好かん。私は概ね反ボリシェヴィキ(ロシアの共産党)には賛成だが、あの男の独裁主体のやり方には首を傾げざるを得ん」
「処刑された青年がナチ党員だったと公表されれば、ドイツ国内だけでなく世界中にナチの名が知れ渡る事となりましょう。党の勢力拡大には打って付けの機会です。あの男が見過ごす筈がありません」
「フランスの圧力にインフレに共産主義にナチか……君も大変な時期に駐在になったものだ」
 大使は使用人に皿を下げさせると、頭を抱えて息を吐いた。
「軍事監視委員会の方も、何か進展は?」
 使用人が食後の珈琲を運んでくる。赤井も煙草を咥えた。
「やはり水面下で再軍備が行われているのは間違いありません」
「押さえたのか?」
「いえ、ですがそもそも義勇軍もナチの突撃隊も独立した組織と云えど、元は軍の管理下にあったのですから、そこは時間の問題と考えてよろしいかと」
「……承知したよ」

 ティアガルテンの木々は新緑を茂らせ、時折風に悪戯に靡かせながらその葉を地面へ落としていった。公園内の小径は空高く覆い隠すように自生する木々に囲まれ、まるで誘うように葉擦れの音を響かせる。
 この街では今や飢えで息絶えた身体が炉端に横たわっているのが日常となった。脅威的なインフレは労働者のみならず中産階級の者達をも歯牙にかけている。預貯金の価値は下がり、給与所得者、年金生活者の生活は破綻した。貨幣は下落を続け、銀行は5万マルクの高額貨幣を発行するまでに至った。
 男達がストライキやデモに明け暮れ、割当制となったパンを得るために婦人らが行列を作る一方で、投資家達はドル買いに勤しみ巨万の富を手に入れる。
 政治が腐敗すればする程頽廃的な文化は爛熟を帯びる──。
 数分後には紙くずとなるならばせめてその分だけでも甘い夢を見ようと、死体の上で煌々と輝くのはカラフルなネオン。ジャズに、性的なショウは繁盛するばかりだ。
「明朝も参りましょうか」
 米国産の古いT型フォードから降りた赤井の背中にそう声が掛けられる。赤井は振り返らずに答えた。
「結構だ。明日は予定通り任務遂行にあたれ」
「はっ」
 エンジンをかけ直す部下を赤井はおもむろに呼び留める。
「日野大尉」
「はい」
 呼び止められた事が意外だったのか、日野は些か眼を見開いて車外に立つ上官を見た。「この街に来て丁度二年になるな」問い掛けに返答する。
「この街は──ドイツはどうなっていくと思う」
「……自分には判りません。しかし、アカの奴らも、金を貪る資本家も、看過できるものではありません」
 そう云い終えた日野の眼には、一瞬であったが、赤井が微笑んだように見えた。まぼろしだったのだろうか、赤井はすでに常の無表情を保っている。

 部下を帰らせて赤井は与えられた自宅アパートへ戻った。五階建ての最上階を丸々借りたそこは独り身の将校には広過ぎる程だが、持て余してもいなかった。
 軍帽と軍服を脱いで、外套掛けに掛ける。蝋燭に火を点けるついでに煙草のフィルタに火を灯し、吸い込んだ。
 オーク材のアンティークテーブルの上は書類が散乱している。その前に仁王立つと、赤井は静かに無の空間に向かって云い放った。
「ゲスラー国防相は否定しているようだが、そう長くは秘匿していられまい。このままフランスによる占領が続くようだといずれ貴軍の条約違反行為も露呈する。今更取引でもしようと云うのか?少佐殿……」
 蝋燭の火が揺れる。夜の闇の中から不意に、声が返ってきた。
「易々と他人に自宅への侵入を許すとは、そちらも軍人失格ではないですか」
「見られて困る情報は此処に保管していない」
「軍人としての矜持の話をしてるんだよ、赤井大佐……日本陸軍も底が知れる」
「では君はどうなんだ?」
 赤井はようやく振り返ると、灯したばかりの煙草の火を灰受けに押し付けた。蝋燭の灯りに照らされて、共和国の若い陸軍少佐が戸口に立っている。軍帽の下の碧眼は意志を持ったように炎を揺らめかせ、真っ直ぐ赤井を見据えていた。
 赤井は緩慢に、侵入者に歩み寄る。
「敵の将校の家に忍び込んだ挙句、娼婦の真似事でもする気か……男の矜持もしっしたのか?」
 顎に掛けた手を払われる。何度言葉で貶めても、この男は鋭利な眼光を持って赤井の前に現れる。
 置いて行った「理由」など、ひとつしかないではないか……
 興味があったのだ。この男──九年前の若い中尉が、あの厳しい大戦で生き延びられるかどうか。戦争が、この男をどう変えるのか──。
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