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 オイルランプの微かな明かりが漏れている。近付く程に、密かだった声達は鮮明に赤井の耳に届いた。扉の破壊されたその部屋まで歩み寄ると、最早享楽の宴よりも、遥かに狂気を帯びた光景が広がっていた。赤井は眉を顰めて部屋の中へと足を踏み入れる。
「何事だ」
 そう不意に投げ掛けると、男達が数人、驚きに身動いで露わだった下半身を隠すために軍服の下衣を引き上げた。
「少佐殿っ……!」
「……捕獲した俘虜は丁重に扱えと云うのが本国の意向だ。隊に戻れ。それは私が預かり受ける」
 恭しく敬礼をして男達は出て行った。それを見届けてから、床に無惨に転がったものに歩み寄る。──雄の臭気が濃くなる。
 革の長靴でその投げ出された足を小突く。びくりと震えたのを確認してから、赤井は卓上にあった水差しを手に、グラスに注いで口を付けた。
「Wasser?(飲むか?)」
 反応はなかった。もう一度グラスに口を付けて、床に横たわるそれに再び冷ややかな眼を向ける。
 褐色肌に金色の紅毛──。部屋の隅に投げ捨てられた深青の軍服は 普魯西 プロイセン陸軍の制服だった。
「……嬲られ過ぎて声も出ないか」
 赤井が呟くと。それは俯いていた顔をおもむろにもたげた。そうして金髪の隙間から緩やかに覗いた虚ろな碧眼を見下ろすと、赤井はグラスを卓上に置いて椅子を引き、其処に静かに腰掛けた。
 脚を組む。碧眼の視線を受けて、赤井もまたおもむろに口を開いた。
「三週間ぶりだな、中尉殿。うちの部下共が手荒な真似をしたようで申し訳ない。
……どうやって捕まった?」
 床に転がった男──ベネッケンドルフ中尉は、赤井のその質問に何も答えなかった。後ろ手を縛られた身体を投げ出し、ただその碧い瞳を彷徨わせて、そして再び赤井に向ける。

──凌辱された身体まで奇麗な男だった。




 一九一四年、未曾有の欧州戦争が勃発。独国は同盟国を形成、対して英国・仏国・露国は連合国軍を築き応戦。同年八月、英国政府の要請により日本は独国に宣戦布告の後、中国・青島を含む膠州湾一帯を占領。一九一七年、米国が中立国の沈黙を破り遂に参戦。一九一八年十一月、独逸革命により帝国は瓦解、独逸及び連合国は休戦協定に調印。翌一九一九年、ヴェルサイユ条約が締結。旧独帝国はヴァイマル共和制を樹立。
 以上が現在詳らかにされる第一次世界大戦の要旨である。

 刻は流れて一九二二年、冬。ティアガルテン公園の緑は枯れ落ち、枝が寒々しく伸びる季節。路面に積もった雪が人々に踏み締められる度に、キシキシとその氷面を鳴らしていた。朝の太陽に照らされて樹枝の氷粒が煌めく。見上げると眩いほどのそれはしかし、往来を行き交う長外套組に降りかかるも、少々の足止めをも食らわせることなく白い空中に消えていった。
 ベルリン。今や類を見ない歓楽の都市は、僅か数年前までは、確かにその大地を凍て付かせていた。
「長旅お疲れ様であります、赤井大佐殿。武官補佐官の日野大尉であります」
「ご苦労」
 ヒルデブラント通りの中程で車を降りる。帝国大使館前に敬礼した状態で整列する男達に一瞥を送ると、この中では年次が一番高いのであろう日野が一歩前に進んで名乗り出た。「お荷物お持ち致します」そう申し出る日野はポーターから革のトランクを預かると同僚に手渡し、正面玄関へと続くステップを踏む着任したばかりの上官の背中を追った。

 「連合国の大使館」の名に相応しい、中々に洗練された外観の建物であった。漆喰の白壁と白レンガに幾つも並んだ窓は英国ヨーロピアン調で、藍色の瓦屋根部分にはまさしく西洋的な屋根窓が設えてある。三階の大窓には外壁から張り出して手すりが設置され、身を乗り出せるようなベランダがあり、其処にちょうど大日本帝国の日の丸が掲げられていた。
 外観に反して厳然としたシャンデリアに迎えられる。在留の邦人だろう洋服を着た者達がちらちらと赤井達に視線を寄越してきていた。
「大使殿は公邸か?」
 振り返りもせずに赤井はそう後ろを歩く部下に訊いた。すかさず日野は答えた。
「はい、大使公邸にも執務室がありますので、今朝はまだそちらに居られるかと」
「午後にご挨拶に伺うことになっている。それまでは此処の案内でもしてくれ」
 中央廊下を突っ切り、中庭に突き当たった処で赤井は脚を止めた。ようやく振り向いた上司に表情もなく見つめられ、日野は慌てて「此方です」と歩み出る。
 中庭を迂回して南に続く棟が帝国陸軍部の武官室である。さらにその奥に特命全権大使公邸、そして外務省職員用の官舎が建つ。
「我々補佐官達はモアビット地区のアパートメントを一つ借りて住んでいます。後程ご案内致しますか?」
「いや、いい」
 館の位置関係を見定めた赤井は一口に断ると踵を返して今し方来た廊下を戻った。

 公的政治機関という性質上、駐在武官とは言ってもあくまで陸軍所属の『補佐官』である尉官の日野には、大使館内の案内には限界がある。それでも大使館一階の裏手に造られたイスラム調の豪奢な部屋──喫煙室には、束の間の憩いを求めて度々訪れていた。
 此処ベルリンでは今ご時世、煙草を吸わない男はないに等しい。
 例に漏れず赤井はその喫煙室にやって来ると、脱いだ外套の懐から煙草を出して咥え、窓を背に並んだ黒い革張り椅子の腕に浅く腰掛けた。通りでは子ども達が紙飛行機で遊んでいる。
 赤井が煙草に火をつける。日野にとって見慣れた空間が、何処か中東の、宮殿のサロンルームと見紛う程の錯覚に瞬時に陥った。
 ターコイズに彩色された天井から吊るされた硝子燈に、モザイクタイルの床。黒い桟が四角形に幾重にも取られた大窓。我が国大使館機能が移る以前は中東小国の政治施設だったというだけあり、絢爛華美な装飾である。
 そんな空間に、目の前で煙草を噴かす男の姿は、思わず眼を奪われてしまう程よく似合った。同じ帝国陸軍の茶褐絨軍服を着用しているのに別物にすら見えてくる。
 本国で流行しているらしい高い詰襟や緩やかにシェイプした腰のシルエットだけではない。肩章の二本の金線や階級を表す三つ星に始まり、胸元に飾られた陸軍大学校出身者の栄誉の証である菊星の徽章天保銭、更には腰に帯びた軍刀──陸大出身者の中でも卒業成績上位六名にのみ天皇陛下より賜る恩賜刀である──にまで、その武骨且つ見目麗しい上官の『格』を確固たるものにする要素が備わっていた。
 溜息が洩れる程だった。そもそも赤井秀一という人物が、昨今の若い将校達の間では羨望の的になっていることを大前提としている。
 去る膠州湾でのドイツ軍租借地攻略やシベリア出兵時の功績を讃えられた証が、喉元に光っている。功三級の金鵄勲章──大日本帝国において唯一、戦功のある軍人だけが拝受できる大変名誉ある勲章だ。

 と、稀代の鬼才ぶりをその身一つで存分に発揮している男だったが、日野が赤井秀一に羨望──というよりむしろ憧憬に近いかもしれない──の眼差しを向けるのには実は、他ならぬ別の理由があった。
「外務省に赴くのは来週以降と聞いておりますが……」
「ああ、大使殿の随行に兼ねてな。当国と連合国委員会の会議だと云うのに未だ日程が決まらんとは、この国も迷走を続けている……何れにせよ詳細は追って伝達する」
「はい。…………あ、あの、」
 突然云い淀んだ日野に、赤井は横目で視線を送った。思わず息を呑む。
 なんて奇麗な瞳をしているんだろう──。
 去年の春、新しい任地先として赴いた此処ベルリンで最初に眼にした、ティアガルテンの新緑の葉の色だ。
「実は自分、陸幼(陸軍幼年学校)で、大佐殿の二期下なのですが、その……何度かお話したことが、」
 そこまで云ってから彼は後悔した。赤井は静かに軍帽を脱いで、その手で前髪を撫で付けながら、日野を上から下まで見つめるように視線を寄越してきたのだ。
 舌が渇く──。
「……すまないが、覚えていない」
 煙草の煙と共に吐き出された言葉は、辛辣にもターコイズの天井に昇って霧散した。

***

 日本に於ける駐在武官の歴史は半世紀前の明治八年、清国に最初の陸軍武官が派遣されたことに遡る。兵制の改革を視野に入れたそれは、実際に将校らに現地で動静・兵備・軍事行政を研究させることを目的として、以降十八ヶ国にわたり人材を派遣してきた。
 独逸国への武官派遣に於いては、欧州戦争時に日本の交戦国となった為、退去令が出され帰国を余儀無くされたが、終戦からある程度期間が経った一九二〇年にようやく再開された。二年前のことである。
 そうしてこの度の辞令により、参謀本部附大佐に三十代半ばにして異例の昇進を遂げたばかりの赤井秀一は、大使館附一等武官としてこの地に降り立った。陸軍省大臣の嫡男でもあるにせよ、彼の出世に異論を唱える者は上層部には誰一人とて──少々扱い辛い面はあるとされたが──居なかった。

「やはり紅茶は本場が一番旨いな」
 着任当日の午後三時。大使公邸、応接室。印度はダアジリンのやや濃い茶褐色をストレートで口に含み、永山在独特命全権大使は云った。
 他に人は居なかった。大使と陸軍武官が人払いをして面会に及ぶなど、大使館員達は良い顔をしなかったが、それでも大使は赤井を公邸に呼び寄せた。
 赤井は日本茶以外の飲み物は珈琲派だったが、カップから漂うその香り高い芳香と舌に残る渋みは殊の外好感を抱かせる。
 戦火がまたひとつ散ったな──と、永山大使は口髭を指先で遊んだ。
「オスマンのメフメト六世がサンレモに亡命したそうだ。詮方ないな、占領国に迎合して政府打倒を目指し、国民の支持はもはや皆無だったと聞く……大佐殿、煙草は?」
「頂きます」
 テーブルの中央に置かれた燐寸でフィルタに火をつける。英吉利煙草だ。赤井が最初の煙を吐くのを見計らって大使は口を開いた。
「君はこの国の現体制をどう思う?」
「……砂の上の城です。土台が脆弱な上に風も強い」
「それはお隣のことかな?」
「ええ。ポワンカレ(フランス国首相)の対独姿勢は依然として強硬的です。当国の連合国への賠償金支払いが停滞しているこの現状を盾に彼らは必ず仕掛けてくるでしょう。そうなれば両国間の再度の衝突は免れ得ません。ルール一帯を抑えられたら当然労働者達によるゼネストが起きる。生産と税収が減少しても銀行の紙幣大量発行が続くようならば……只でさえ左右が両立した連立政権により成り立った政府です。砂上の城はすぐに崩れ去るでしょう」
 一息に話すと赤井は再び煙草を咥えた。

 赤井がこう話したのには根拠があった。
 先の欧州戦争で敗戦国となった独逸国──現ヴァイマル共和国は、ヴェルサイユ条約締結後に設置された賠償委員会の決定により、石炭や木材の現物支給を含む、1320億金マルク(現在の金相場で換算すると日本円にして二百兆強)という天文学的な賠償金を連合国に対して支払わなければならなくなった。勿論共和国政府は再三に渡り減額・免除の申し立てをしていたが、隣国仏蘭西が頑として首を縦に振らなかった。
 それもその筈、フランスはドイツを始めとする同盟国との戦闘に際し、強国である亜米利加から巨額の軍需借り入れを行なっていたのである。その返済をドイツ国からの賠償金で賄おうと策するのは、国土を戦火に焼かれた彼ら(事実フランス北東部の炭鉱地の損害は凄惨なものだった)にとって論を俟たない事であった。
 一方ドイツもフランス同様に、軍備と派兵に膨大な額の金を注ぎ込み、結果、敗戦国の烙印を押された。飢えた労働者達の度重なるストライキは、国内の農工業生産能力を低下させ、それはそのまま賠償金未払いに直結した。更にはフランスは条約締結時より、支払いに不履行が生じれば、ドイツ最大の工業生産地であるルール地方を占領するとの通告を下している。(ロンドン最後通牒)
 正に一触即発の事態なのである。
 そもそも帝政崩壊後に造られた共和政自体、革命派の左派と帝政復古派の右派で成り立つ妥協の末の産物だった。そういった一つの政権内で両派せめぎ合う不均衡な地盤が、突然社会主義だなどと捲し立てても、二百余年続いたホーエンツォレルンの君主制気質に浸かった血は、そう簡単に新体制に馴染む事はなかった。
「成程。中々に興味深い」
 永山大使は満足気に笑みを浮かべた。
「良い男に育ったな、秀一君。お母様はまだ東京に居られるのかな」
「……今は葉山で静養中です」
 そうか、と大使は目線を落として呟いた。

 大使公邸から直接通りに出て、赤井は軍用ブーツで雪路を踏み締めた。唯一露出した頬に当たる風は東京のそれより幾分も冷たく感じる。空も路も、全てが白かった。
 「今のうちに燐寸を買い溜めなくてはならんな」と大使から受け取った燐寸を擦って、何本目かもわからない煙草を吸う。煙の向こうで、子ども達がまた紙飛行機で遊んでいた。立ち止まった赤井の脚元にそのうちの一機がひらひらと落ちる。模様の付いたそれは1マルク紙幣だった。
 拾い上げて、もはや紙幣ではなくなった紙飛行機を飛ばし返す。冷たい追い風に吹かれて、ふわりと容易くその飛行機は舞い上がった。遂には舗道に植えられた枯れた木の枝に引っかかってしまう。
 子ども達は何の未練もなさそうに走り去って行った。

***

「──書面でもお伝えしました通り、十一月二十四日迄に我が国人民より没収した主要の武器及び兵器詳細をご報告させて頂きます。騎銃含む小銃17,574、銃剣1,498、機関銃88、自動拳銃及び拳銃178、小銃弾薬321,560、砲弾及び爆弾291……」
 伏し目で書類を捲るその仕草は、唇から洩れる言葉とは正反対に、何処か優美ささえ赤井には感じられた。
 テオドール・フォン・ベネッケンドルフ陸軍少佐──。会議目録の最初の頁に、その名前はあった。


 ヴェルサイユ条約(正式名称『同盟及連合国ト独逸国トノ平和条約』)にはドイツが連合国に支払わなければならない賠償の他にも、隣接する国々との境界の規定、国外に有していた権益や特権・植民地の一切の放棄、前皇帝に対する追訴及び裁判など、様々な講和条約が定められた。その中には『軍備条項』となる篇も規定されている。早い話がドイツに対する軍備制限と武装解除の宣告である。
 帝政時代には四つの王国(ザクセン、プロイセン、バイエルン、ヴュルテンベルク)に分かれそれぞれが軍を保有する形に収まっていたが、帝政崩壊とともに解体、新たな共和国軍は参謀本部を置く事も禁止され、陸軍兵力は上限十万人、兵器所有の大幅削減という制限を敷かれた。それに伴い、軍備制限履行を監視する目的の連合国による軍事監視委員会が発足、ベルリンに駐在した。
 こういった日々の監視行為を含む平和条約に関する諸問題は、定例的に巴里で開かれる連合国大使会議で逐一詳細の報告がなされた。フランスの外相とイギリス、伊太利、日本国の在仏大使が集い、共和国の動向を把握する。
 同じくして此処ベルリンでも、共和国側からの報告が、先述の四カ国が派遣する駐独大使らに対して定期的に行われた。軍事監視委員会が常時駐留する地域であるため、とりわけ軍備制限の履行の是非に関する題目が多い。没収、破壊、製造工場の譲渡等、共和国に課せられた制約はこうして数値化される度に、国家再建の阻害要因として表面化した。

「十一月二十四日迄に破壊した武器内訳は、小銃40,575、機関銃199、拳銃5,578、銃剣及び鞘146,689、軍刀鞘2,841──」
 そんなもの報告書を読めば分かる、と自国語で悪態を吐いたのは、駐ベルリンのフランス大使だった。ポワンカレの流れを汲む対独強硬派の一人である。
「幼稚園児にだって書ける報告書ですぞ。もう少し実のある話をして頂きたい……例えば、東の評議軍団ソビエトとの関係などはどうですかな」
「その事については、恥を晒すようですが前任者があんな事になってしまったのでね。ご心配をお掛けしたようで大変心苦しい限りです」
 陸軍少佐に代わって、ローゼンベルク共和国外務大臣が答えた。緊張状態──。対独穏健派のイギリスでさえ口を挟む隙もない。
 半年前、当時のヴァイマル共和国外相・ラーテナウが、極右のテロリストによって暗殺される事件が起きた。暗殺動機の発端となったのは、今年四月に彼が判を押したある条約にあった。
 ラパッロ条約。ドイツと露西亜(ソ連)との間に結ばれた外交協定である。
 共和国と、一九一七年の革命を起源として建てられたばかりのソ連は、共にヴェルサイユ体制からは疎外された国同士であった。表向きはそうした両国が外交正常化を図った協定だったが、当然右翼の過激派は共産主義国家であるソ連との政治的連携を良く思わず、ラーテナウがユダヤ人だった事も加わり、反革命テロという強硬手段がなされたのだ。
 一方で連合諸国は、条約締結の裏には秘密軍事協定という隠された意図も存在するのではないかと、疑惑の目を向けているのだ。独ソ間の結び付きが強固になると、ドイツに対して軍備制限を強いた筈の連合国の脅威にもなり得るため、それは必然の事だった。

 問題を帝政復古過激派による政治暗殺、つまりは国家体制の不安定さを露呈させた事に対しての題目にすり替えられ、フランス大使は癇に障った内心を隠しもせずに眉を寄せた。


 外務省正面玄関内には大扉の両脇に大理石の獅身女スフィンクスが鎮座している。会議を終えた永山大使に付き添い、後ろで階段を降りる赤井は、不意に振り返って後方を仰ぎ見た。共和国陸軍の灰色の濃い緑の軍服を着た男が、無表情で腕を組んで立っている。後ろに流した金髪に碧眼を持ったその男は、白人国には珍しく暗い肌の色をしていた。
 ほんの一瞬の視線の交わりだった。それだけで、毅然としたその立ち姿に冷淡さが加わるに充分な時間だった。
 少佐マヨーア、と奥から呼び掛けられ、男は視線を逸らして扉の中に消えて行った。
「大佐殿、車の準備整いました」
 部下の報告に、赤井は口元に笑みを浮かべたまま外務省を後にした。

 こうした各国大使が集う会議でもない限り、普段のヴィルヘルム通りは官庁街らしく閑散としている。76番地の外務省に始まり、両隣の大統領府と首相官邸、向かいのプロイセン州政府公館、英国大使館、法務省に財務省と、背広に山高帽の男達が外国語を話して歩くような通りだった。厳粛な建物群を後部座席の窓から眺めていると、隣に座った大使が不意に「貴君の見立ては的中しそうだな」と云ってきた。
「仏大使ですか?」
「ああ、あんな下手な挑発、幼稚園児でもせんよ。随分と急いていたな……フランスが動き出すのも予想より早いかもしれん」
「如何致しましょう。一貫してヴェルサイユに消極体制を採っている英国に話を通せば少々ですが時間は稼げるのではないかと」
「如何致しましょう、だって?」
 大使は嘲笑っていた。けれど、伏し目になった眼は決して笑ってはいなかった。
「我々は『傍観者』だよ。傍観者には傍観する事しかできない」
 そう終えた永山大使はふと、思い出したように「もうすぐクリスマスだな」と囁いた。
「大佐殿は単身赴任か?こっちにご家族を呼んでいるのかな」
「私は独身です」
「そうなのか?」
 意外そうに大使は瞠目した。それもそうだろう。三十も半ばになって妻帯していないのは珍しい。
 大使は理由を訊きた気ではあったが、赤井が「何故ですか」と問うと、気遣わしい表情で答えた。
「いや……西側諸国ではキリスト生誕を家族で祝うと云うじゃないか。私は妻がクリスチャンでね。子ども達を連れて教会に行ったりするんだが、君に子どもがいるようだったら一緒にどうかと思ったんだよ」
 赤井が黙ったままでいると、大使は「今年は静かなクリスマスになりそうだ」と窓の外の白い景色に眼を向けた。

***

 "Meine Damen und Herren! Madame et monsieur! Ladies and gentlemen! Frohe Weihnachten! How's your Christmas night going? Gut? Wunderbar! Tonight, I'm going to suggest you such romantic dreams beyond your tiring life──"

 色光眩いフリードリッヒの大通り──その一角に艶然と聳える店に脚を踏み入れると、ひとたびそこは歓楽の宴だった。米国風のナイト・クラブ。粗末なオーケストラが響いていた。案内されたテーブルで、赤井は外套も脱がずにブランデーを注文する。そうして煙草を咥え、中央の舞台を見やると、露出の高い衣裳の女達が腰を揺らして踊っていた。
 数年前まで戦争をしていた国だと誰が信じるだろうか。今では世界第三位の人口を誇る文化都市なのである。終戦景気だと、美酒を交わす夜の街の人間達は本気でそう思っているようだった。
 マスター・オブ・セレモニーがドイツ語訛りの英語で恭しく挨拶をするのを、赤井は照明に眼を眩ませて聞いていた。ブランデーが運ばれてきた。漫ろに口を付けていると、不意に卓上の電話が鳴り響く。受話器を取ると聞こえてきたのは全く覚えのない声だった。
『Merry Christmas, Sir. 見掛けない顔ですね』
英語だった。赤井は指先で煙草を遊ばせて答える。
「Merry Christmas. ええ、この店は初めてです」
『そうですか……ああ、失礼。上座側の一番奥に居ます』
 視線を奔らせると、舞台袖前の壁際に坐る男が、赤井の方を見てにこやかに笑っていた。『ご一緒しても?』赤井がどうぞと促すと、男は腰を上げてテーブルの合間を縫って近付いて来る。
 茶髪に灰色の瞳の好青年だった。身に付けている物も上等の仕上げで、立ち居振る舞いも相応であった。ボーイにタンカレーを注文すると赤井の隣に腰掛け、「煙草、一本いいですか」と訊ねてくる。赤井は煙草を手渡すと、差し出されたライターでその先に火をつけてやった。
 男は煙を吐き出すとピエールと名乗った。赤井も名乗ると、日本人かと、探るように訊いてくる。運ばれてきたグラスに口をつけ、男は赤井に向かって微笑みながら「ハンサムですね」と云った。
「貴方みたいな素敵な日本人に出会えるなんて、この街もまだまだ廃れてませんね……」
「外国人ならこの街に何万といるでしょう」
「まあね。皆この街の雰囲気にやられて来た色狂いばかりですよ。人の事は云えませんが……あとはルンペンか革命堕ちのロシア人か、軍人くらいです」
「成る程……」
「ええ……貴方、とても目立っていますよ」
 男は灰色の瞳で陶酔的に赤井を見つめてきた。緩慢にテーブルに肘をついて、細くしぼませた唇からふうと煙を吐いた。そうしてまた微笑む。誘うような慣れた仕草だった。
 赤井は灰皿に灰を落として、同じように見つめ返した。どこか逡巡するような間の後で、不意に立ち上がり、男の肩に手を掛けて耳元に囁き掛ける。
「生憎今夜は先約がありまして……またの機会にお会いしましょう」
「……残念 C'est dommage.
 男も肩を竦めてフランス語で返した。そして背広の懐から燐寸箱を取り出して、押し付けるように赤井の外套の胸元に添える。
「普段は此処に居ます。また近い内に……」
 赤井は燐寸箱を受け取ると薄く笑ってテーブルを後にした。

 店を出ると看板の蛍光灯のネオンがパチパチと人工的な音を立てていた。通りに沿って歩き出し、ふと横に折れると細い小径を選んで渡り歩く。それを何度か繰り返して、ヴィルヘルム通りへと続く通りの陰で息を潜めた。遅れて人の歩み寄る気配を感じ取る。赤井と同じように長外套を羽織った男だ──。
 小道の隅に無造作に積まれた木型のビール入れ──その上の、まだ火の点いた煙草を手に取って、男は“Scheiße,”と呟いた。
 その後ろ姿を見極めると、赤井は態々軍用ブーツを雪の上で鳴らして、男に近付いた。
「君も軍人ならもう少し上手く尾行したらどうだ。──なあ?マヨーア・ベネッケンドルフ……生きていたんだな」
 男は一度肩を揺らしてからそっと振り返った。月に照らされて、軍帽の下の褐色の頬が鮮明に赤井の眼に映る。そして、金に縁取られた、冷ややかに透き通る碧眼も。
──これ程までに美しい男を赤井は見た事がなかった。
 笑みが溢れる。けれど赤井の皮肉めいた微笑みに、テオドール・フォン・ベネッケンドルフ共和国陸軍少佐は、敵意をその鋭い視線に込めるのだった。

***

「……この国に何をしに来た」
 ベネッケンドルフ少佐は流暢な日本語を話した。もっとも、この男が日本語を自在に操る事を赤井は知っていた。
「仕事だ。この街に日本軍が駐在している事を知らない訳ではないだろう。今月から大使館附になった」
 云いながら赤井は更に男に歩み寄った。火が点いたままの煙草を男の手から奪い返し、再び唇に咥える。そうして態と目の前で煙を吐いてやっても、少佐──テオドールは、眉ひとつ動かさずに鋭い眼光を赤井に向け続ける。
「そんなに睨むな……恨まれるような事をした覚えはないのだがな」
「……とんだお気楽な頭ですね。青島チンタオではうちの兵を何人殺した?」
「随分と軍人らしからぬ事を訊くな。あれは砲撃戦だった。──いちいち数えていると思うか?」
 赤井は一歩踏み出した。少佐が反射で半歩引き下がる。また一歩踏み出すと、同じように後ろに下がった少佐の背中が通りのレンガ壁に打ち当たった。
 赤井が彼の腕を掴んで壁に押し当てると、ようやくその端麗な眉目がゆがむ。何を、と云い掛けられる前に赤井は彼の羽織る生地の厚い外套の釦を外し始めた。
「おいっ、気が狂ったか!こんな処で……」
 少佐が腰に携行した拳銃にかける手を諌め、赤井は外套の釦を外し切ったところで口にしていた煙草を地面に投げ捨てた。
「同じ言葉をそっくりそのままお返ししよう。西部戦線 Westfrontでは何人殺ったんだ?俺があの時君を逃してやったから、今こうして佐官にまで昇進できたんじゃないのか?」
 左の肋に佩用された勲章──ドイツ軍特有の鉄十字を何の尊敬もなく皮肉られ、少佐は頭にきたように叫んだ。
「日本から態々そんな減らず口を叩きに来たのか?いい加減はなせ……ッ」
 そこで少佐は碧眼を見張らせて、信じられないとでも云う表情で、奇態を犯す目の前の男を見た。軍服の下半身を握られたのだ。政治決定機関が建ち並ぶ通りの目と鼻の先で──。
 幸い歩哨に立つ兵の姿は二人の場所からは見えなかった。けれど例え見えたとしても、この、日本から来た鼻持ちならないが機縁ある男は、否が応でも此処で事に及ぼうとしているに違いなかった。それ程の凄味が、その妖しく光る瞳から放たれている。

 背中を汗が一筋流れる感覚を少佐は覚えた。けれど漏れる吐息は白かった。軍帽を脱がされたが、その仕草すら緩慢に見えた。不意に耳元で囁かれる。そして彼は確信した。
 捕食される……。
 この日本人は八年の時を超えて、またしても自分を、辱めにやって来たのだと。


 空から冷たい結晶がふわりと落ちてきて、ようやく赤井は今日が十二月二十五日なのだと思い出した。己の下で背を向けて啼く男の、乱れた金髪を撫で付けて、その耳元で言葉を掛けた。
「云い忘れていたな……『Frohe Weihnachten』、再会に相応しい夜だ」
「ひぁっ……ああ、やめ、ろ、あっ……離せ、Lass mich los!」
 赤井が腰を突き入れる度に少佐は低く呻吟した。外だという事もあり愛撫もそこそこに赤井は彼の尻に挿入したが、中で動かせば動かした分だけ、潤滑が良くなり奥にまで一物が届く。けれど挿入してから十分は経とうと云うのに、健気なその孔は一向に弛む気配がなかった。
 ああ、と赤井は恍惚に浮かれた声を出した。精を搾り取ろうとするその収縮に感嘆すら挙がる。
 寒さからか僅かに鳥肌の立つ尻を揉んで、断続的なノックを与えながら赤井は少佐の耳元で彼の名を呼んだ。途端に呻きは女のような嬌声に変わり、尻穴は一段と赤井の一物を締め上げてくる。
「あっ、あぁあっ、も……だめ、やめろ、っあ…………」
 尻すぼみに細くなった喘ぎとともに褐色の腰が微動し、少佐は金髪を振り乱してベルリンの黒い空を仰いだ。ポタポタと、散々踏み荒らされた薄雪に精液がこぼれる。震えながら極まった男の身体を外套ごと後ろから抱き込み、赤井は云った。
「八年前と全く変わらないな君は……男を咥えるのが好きな淫乱のままだ。惜しい事をした……あのまま君を日本軍の俘虜にしていれば、時間をかけてもっと淫魔らしく育てられたかもしれんよ」
 滑らかな頬に落ちた雪を舐め取って、赤井は薄い唇に微笑を浮かべる。碧水の眼を憎々しげに向けられても、懲りずに腰を突き上げ始めた。ひっ、と、少佐は再び引き攣った声を挙げた。
「うぁ、あっ、なん、やっ……そこ、やめろ!」
「君は一度きりの射精で満足できる男だったか?もう一度出させるぞ……っ、は……」
 濡れ切った交接部が激しい摩擦により更に熱を持つ。奥の壁を穿たれて、堪らなくなったのか少佐は背をしならせて赤井に寄り掛かった。同時に肉竿を扱かれると、一気呵成に昇り詰めてしまう。噴き上げるような二度目の吐精を迎えると、後ろの赤井も湿った息を吐きながら最奥まで入り込んで爆ぜた。
 暫くして一物を抜くと、後を追うように赤井の吐いた液体が滴り落ちて、股まで下ろされた下穿きが汚される。

 終わった途端に十二月の風が剥き出しの下肢に堪えた。官庁街の側通りで凌辱を赦してしまった事に自身で憤りを覚えながらも、少佐は過剰なまでの性悦にその碧眼から涙を零していた。
「随分締まりが良かったな。屋外で興奮したのか?君のその乱れ切った姿、外務大臣殿と連合諸国の奴等にも見せてやりたいところだ……なあ、零」
 軍服の乱れを正しながら赤井が話すと、少佐は濡れた眼で鋭く赤井を見上げた。
「……どうやってその名前、」
 先程から赤井の低い声で響くその名に、彼は忌々しげに腹から声を出して云った。
 赤井は軍帽を被り直して右手に嵌めた手巻き式の腕時計を確認した。零時を十分過ぎたところだった。チッと舌を打って、腕時計を外すと器用に右手でぜんまいを巻き始めた。
「服を正せ、テオドール・ラインハルト・フォン・ベネッケンドルフ少佐。──独逸人の名はどうも長ったらしくて云い辛いな。喘ぎ過ぎて気付かなかっただろうが、先刻向こう側で騒ぎがあったようだ。SPDエス・ペー・デー(ドイツ社会民主党)とKPDカー・ペー・デー(ドイツ共産党)との抗争だったらどうする?騎馬隊が来た時、陸軍少佐がそんな格好でどう言い訳をする気だ」
 己の事は棚に上げての発言だった。赤井は腕時計を嵌め直して、新しい煙草に取り出した燐寸で火を点ける。先程クラブで出会った男に貰った物だ。
「……お前、俺が連合国との会議に軍の代表として参加すると知ってたんだな」
「フッ、あれは偶然だ。仕事で来たと云っただろう」
 少佐の言葉に赤井は嘯く。ビールの木箱の上に置いていた軍帽の雪を払って金髪に被せてやった。そうして涙の這った頬を指で撫ぜ、顎に手を掛けて上向かせる。
「一口に駐在武官と云っても職務は様々だ。こっちにお勉強で来ている士官達のお守りもしなければならん。中々忙しいんだよ……軍事監視委員会の仕事もあるしな」
 少佐の眉間が僅かに寄るのを赤井は見定めた。

──激情のクリスマスの夜だった。

 顔を傾けて唇を触れ合わせる。ベルリンの混沌とした冬天の下で、そのしっとりと温かい感触は何処か無常で、そして鮮烈だった。
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