途中、地震の描写があります。大丈夫な方のみ読んでください。




 不意に鳴った、余りにもこの状況に不釣り合いなノックの音に、ギクリと降谷は裸の肩を強張らせた。酒瓶を握り締める力が、一瞬の内に緩む。降谷は思い出した。
 客間の扉は、開けたままにしていた筈だ。
 誰かが、この部屋に、入って来た……。
 組み敷いた男の狼狽を感じ取ったのか、原嶋は覆い被さっていた彼の身体から、緩慢に、身を起こした。その半身が振り返るより先、扉の方から、水を打ったかの静寂を切り裂く声が、低く響いてきた。
「こんな夜分に一体どう言った経緯の客かと思ったら、とんだ闖入者だな」
 淡々と、感情など塵ほども感じさせないその声に、降谷は耳を疑った。
 なんで。
 一息に青褪める思いがする。帰国の一報など、貰った覚えがなかった。
 ──赤井に見られた。よりにもよって、こんな。
 三月ぶりの再会が、まさか、間抜けにも男に組み敷かれている最中に叶うとは、降谷は己の間の悪さを呪わずにはいられなかった。
「主のご帰宅か」
 原嶋が呟く。降谷に馬乗りになったまま、原嶋は扉に立つ赤井に視線をやって、またひとつ口を開いた。
「貴殿がお噂の赤井さんですか。どうも。降谷君の学友の…」
「少しでもこの屋敷の主人に対して敬意があるなら、君にこの後の判断を委ねよう。勿論、二度とうちの敷居を跨ぐような事はないと思いたいが」
 闖入者を遮って、赤井はそう言い放った。反論を許さないその物言いに、原嶋は、小さく笑みを零して、漸く降谷の身体から降りる。転がった酒瓶をそっと立て直して、降谷の耳元で「またキャンパスで」と無神経にも言ってのけた。
 原嶋が去ると、降谷はぎこちなくも上半身を起こした。赤井の顔を見られない。恥ずかしさで、この場から消え失せてしまいたいとすら思う。
 赤井は、容易く男に手籠めにされかけた自分を見て、どう思っただろうか。かわいそう、と思っただろうか。非力さに呆れただろうか。──穢らわしい、と、幻滅しただろうか。
 そうだ。きっと、幻滅された。
 赤井が勝手に思い描いていたらしい清廉潔白な「降谷零」の像が崩れたと思うと到底恐ろしくなった。
 噛み締めるような歩みで、降谷の正面に赤井が立った。曇り一つない磨かれた革靴が降谷の目に映る。降谷は一度唇を結んで、恐る恐る開いた。
「裁判、は……」
 言葉が続かず、またしてもしんとした空気が客間に流れた。何か言ってくれ。俯いたまま拳を握り締める。お願いだから、何か……
「決着は付かなかった」
 不意に沈黙を破ったその言葉に、降谷は漫ろに顔を上げた。そして、心臓が握り潰されたかのように、もっと胸が苦しくなった。三月ぶりに見た赤井は、やはり、降谷がいくら望んで手を伸ばしても届かないような、崇高な美しさがあった。
 どうして、こんなに焦がれるのだろう。思い起こせば、この屋敷で一目見た時からもう、虜になっていたのかもしれない。仕事に向き合う生真面目な表情、女性に対する紳士な姿。煙草を吸う横顔。大地のように穏やかな声。これも全て、自分が、あの美しい母の息子だからなのだろうか。
 自分の内に流れる血が、肌が、赤井を欲しているのは──。
「証人を呼んで、来年また出直す事になった。その間ヨーロッパに輸出は出来なくなる。皮肉なものだな……日本の真珠の美しさを広めようと海の向こうでも事業を始めたのに、その真珠で己の首を締めているように感じるよ」
 降谷は赤井の律儀なその回答をただ黙って聞いていた。聞いて、そして、何も答えられなかった。赤井はそんな降谷を見下ろして、おもむろに片膝を床についた。急に近くなった距離に慌てた降谷が自らの身仕舞いを正そうとするよりも先に、赤井は彼の露わになった胸元に手を伸ばし、着物の襟を寄せてきた。
 瞬時に顔に熱が集まる。
「すみません……」
 とてつもなく恥ずかしい事をさせてしまっている気持ちになって急いで謝るも、赤井は逡巡する様子で、降谷のその胸元を見つめていた。
 震えてしまう。
 未遂ではあったが、先程の、男同士の情事を連想させる場面を目撃された時よりも、今の方がよっぽど、羞恥心を煽られる。心臓の鼓動が伝わってしまわないかとどぎまぎしていると、脈絡もなく赤井が訊ねてきた。
「今の男、帝大なのか?」
「えっ……は、はい、そうですけど……」
 赤井は僅かに眉を顰めた。
 あれ、と降谷は思った。幻滅されただろうかと絶望していたが、赤井からはそんな態度は見受けられなかった。むしろどこか、怒りのような、明らかに原嶋という闖入者に対しての敵意が見て取れた。
 湯冷めする、と、何かを振り切るように赤井は言って、降谷をソファーから立たせた。ふらふらと二階の自室に戻ってから、いつ眠りに就いたのかも分からぬまま、降谷は夜明けの少し前、蒲団の中で目覚めた。
 まだ夢を見ているような心地だった。
 ふと机の上に目をやると、昨晩書いていたままの文の横に、ひっそりと──小さな巾着袋が置かれていた。




 一夜明けて赤井は、平素通りの表情で、主人の突然の帰宅に驚く屋敷の者達にパリの土産を手渡していた。銀座の店へ午前一番に出向くと早々に、帰国の噂を聴き付けた婦人達が馬車やら自動車やらで一気に押し寄せ、四丁目の目抜き通りはたちまち華々しい賑わいを見せた。
 赤井は惚れ惚れとした視線を寄越してくる婦人達に手ずから紅茶を振舞い、土産話を披露した。ロワイヤル通りの老舗店で口にした鴨の肉や肝臓の味、学生時代の恩師の伝手で親しくなった画家や写真家との交流。中でもホテルリッツの斜向かいに店を構えるヴァン クリーフ夫妻の新作の話は、流行に目を剥いて飛び付く婦人達の関心を大いに引いたようだった。
 ついぞ、赤井は、裁判の話には触れなかった。婦人達が帰った後、商談室で紅茶と茶菓子の片付けをしていた降谷は、そっと赤井の様子を窺った。赤井はソファーで煙草を吹かしながら、先刻婦人らから取り付けたばかりの注文の意匠を紙に起こす為に、手馴れた様子でペンを走らせていた。迷いもなく滑らかに線を描くその手が握るのは、確かに、降谷が以前赤井に贈った万年筆だった。
 降谷は意を決して話し掛けた。
「デザイン画も描かれるんですね。ブローチですか?」
「いや、帯留めだよ。先刻の女性、貴族院の三島男爵夫人でね。今度外国から大使を招いて宴会を開くらしい。洋装化が進んでもこういうところは変わらないな」
 菊の花に真珠を誂えた日本的なデザインを暫し眺めて、赤井は煙草を灰受けに置いた。
「簡単な物しか描けないがな。後は職人に任せるさ」
「そういえば、うちにもこんな凝った意匠の装身具たくさんありましたけど、赤井さんのデザインでしたか?」
「ああ………」
 肯定とも否定とも取れない声を零して、赤井はふと降谷を見上げた。
「興味があるのか?」
 どきりと心臓が音を立てた。女性の飾り物に特段興味がある訳ではなかった。ただ、赤井の作った物をもっと知りたいと思っただけだったが、降谷はそうとは言えず、しきりに頷いて見せた。
 赤井はふっと口角を上げてから、おもむろに立ち上がった。従いて来なさい。そう言われ、赤井に続いて商談室を出た。婦人達で賑わう店内の片隅にある階段を昇り、奥の部屋に入ると、そこには目映い程の宝石で彩られた宝飾品──とは一言に言えないような調度品も──が、金唐革風の壁全面に展示されていた。
 金、銀、真珠、珊瑚、琥珀。ダイヤモンドに、緑色に光るのは──エメラルド、だろうか。引き寄せられるように降谷は壁際に歩み寄った。赤井が後ろで歴史を語るように、それぞれ説明を始めた。
 北インドの高級毛織物カシミヤを使ったパルメット文様の肩掛け。色とりどりの宝石が緻密に並べられたビザンチン・ジュエリー。葡萄を模した柄の中国の香料入れポマンデール。最後に赤井が見せたのは、金細工の曲線が際立つ、真珠が乗った様々な帯留めや髪飾りだった。
「廃刀令で職を失った刀装職人達の技術の結晶だ。この泡沫のような隆起、刀装具にも用いられていた彫金の技法でね。面白いだろう?半世紀前には武士の魂とも言われていた刀造りの技が、今の時代は女性の為に活かされているんだ」
 赤井は慈しむような手つきで複雑な細工を撫でた。どこか西洋の絵画を思わせるその仕草の繊細さに、降谷は陶然とした物を感じずには居られなかった。
 赤井のこの話し振り。懐かしさに目が眩む。赤井はいつも降谷の知らない事を教えてくれた。学校の勉強もそつなくこなしてしまう降谷にとって、その存在は貴重で、何物にも代え難い物だった。
 降谷の視線に気が付くと、赤井は幾分改まった態度で目尻を下げた。
「話し過ぎたかな。店の者達にもよく呆れられる」
「そんな事ありません。もっと話して下さい」
 見つめ過ぎていたかと一寸慌てるも、降谷はそう言って赤井に続きを促した。意表を突かれたのか、赤井は思い掛けないとでも言うような表情で傍らの降谷を見下ろしていた。そして、思わず零れ出たと言った調子で、口を開いた。
「君は……お母さんに、とても良く似ているな」
 そう口にした赤井は、まるで古い砌を懐かしむように、微かな笑みを浮かべた。象眼された純金を思わせる、柔らかい笑みだった。
 ──既視感。見覚えのあるような、それでいて今迄感じた事のない程に心がざわめくような、そんな感覚を降谷は覚えた。自身の動揺に嫌でも気が付く。
 降谷が何か問い掛ける前に、赤井が先程に続けるように再び口を開いた。
「もうすぐ一周忌だったろう」
 ええ、と降谷は、唇を震わせながら答えた。何故だか、その赤井の声で、その口振りで、続きを聴くのはとてつもない苦痛に思われたが、赤井に降谷のそんな心情が届く事は一寸たりともなかった。
「間に合わないかとも思っていたが……裁判が延期になって良かったよ。花束のひとつも手向けられないとなると、君にも君のお母さんにも合わせる顔がないからな」
 赤井はベストの胸元から煙草を取り出して一本咥えた。そして、思い出したように、「この部屋は禁煙なんだ」と、ふっと笑った。そんな些細な仕草にまで、この後に及んで思い知らされるように、胸がぎゅっと締め付けられる。
 ──どこまでも美しい男だった。
 自分は、なんて、思い違いをしていたのだろう。
「降谷君……?」
「……母の、こと……」
 言い淀む間。赤井さん、お屋敷からお電話です。そう言って店員のひとりが廊下から赤井を呼んだ。短く返事をした赤井は、降谷の背後を通り抜けて部屋を後にした。眩い室内にひとり残される。
 とても、良く、似ている?
 母親の顔が思い浮かばれる。そして、その傍らに立つ、赤井の姿も。
 丘陵の麓の薔薇園から、よく屋敷の煉瓦を見上げた。白い透かし模様の窓掩いカーテンの向こうで、母はいつも、家の中では見せない種類の表情をしていた。
 とても良く似ている。
 ──赤井にだけは、言われたくない言葉だった。


***


 夏も終わりに近付いていた。
 その日は、赤井は朝早くから出掛けていて、夜の十一時を回っても屋敷に帰って来なかった。書斎の机の上には、ロンドンの夕刊紙『The Star』が、開かれたまま置かれていた。今朝方国際郵便で送られてきた荷物の中に入っていた物だろう。降谷はその新聞の一面の記事を目で追った。‘‘Swindle詐欺’’ の単語が主張された見出しで始まるその記事は、日本の養殖真珠が「偽物」だとロンドン中に吹聴するような内容だった。
 降谷は短く嘆息して、新聞を折り畳んだ。同じく真珠の産地であるオーストラリアやバーレーンも、相次いで日本産真珠の所有や輸入を禁止したと聞く。正に隔絶された状況だった。
 赤井は格段に酒の量が増えた。棚に収められていたウィスキーの瓶は、日に日に減っていっていた。
 酒……。
 赤井に勧められてバーボンを飲んだ去年の事を思い出しながら、おもむろに首に提げた巾着を取り出し、中身を手の平に落とした。窓に向かって大粒のそれを掲げて、彼は目を細める。宵の闇に佇む月が、空の高い処から、その金茶の濃い真珠を淡い光で染め上げた。
 それは角度によっては緑を帯びているようにも見えた。段々と、喉から込み上げてくる嗚咽に近いものを呑み込んで、降谷は強く息を吐き出した。
 結局、赤井の心に入り込める余地なんて、はなから存在すらしなかったのだ。
「はは……」
 乾いた嘲笑を落とす。あんなに、心が震える程嬉しかった赤井からのプレゼントも、この虚無感の中では全くの無意味の物に思えて仕方がない。
 母は、赤井の隣に居並んでいる時が一層、美しかった。そしてとても、幸せそうだった。何故気が付かなかったのだろう。
 赤井がふとした折に降谷に見せる優しい瞳の色が、母に向けられていた色と、決して違わないものだという事に。

 日付が変わろうとしていた。降谷は自室に戻るべく、煌々と照る窓の外の月に背を向けた。そして、一寸しない間に、驚きで身体を硬直させたのだった。
 月光が僅かに道筋を作る、客間へと続く書斎の扉。そっと、視線を辿る。鼓動が早くなる。
こんな暗闇でも輝かしい瞳が、薄く仄めいて、闇夜に潜む獣か何かのように降谷に向けられていた。
 いつの間に帰って来ていたのか、赤井は扉に寄り掛かり、泰然とした表情で降谷を見ていた。
「お帰りなさい」と声を絞り出すのが精一杯だった降谷に対して、ただいま、とは赤井は言わなかった。ただそこに立って、射抜くように見られ、降谷は身の置き場のない思いをはきと感じた。
「蓄音機を発明したのは誰だかわかるか?」
 唐突にそんな質問を投げ掛けられ、降谷は書棚の脇に置かれた輸入物の蓄音機に目をやった。
「……トーマス・エジソン。半世紀ほど前の事です」
「録音と言う概念を作ったんだ……世紀の大発明だと思わないか?」
 赤井が何を言いたいのかわからなかった。面喰らった気持ちで肯きもせず、降谷も窓辺に立っているしかできなかった。
「そのエジソン博士にも成し得なかった発明がある。真珠の養殖だ。──父が、参加していた研究だった」
 宙に落とされた言葉に降谷が顔を上げると、赤井は依然として、感情もなく降谷を見つめていた。ただ淡々と、過ぎた事実を述べるように、その薄い唇が動く。
「父はよく話していたよ。真珠の美しさをもっと多くの女性達に知ってもらいたいと。その一心で研究に没頭していた。母が呆れる程にな。──母の死の床ですら、父は研究を優先した。そうして、家族を犠牲にしてできた真珠の美しさは群を抜いていたよ。想像できるか?あんなに、恨めしいとまで思っていた父親の仕事に、俺は……その時感動したんだ」
 いつになく多弁だった。ぽつりぽつりと紡がれる赤井のその言葉に、降谷は先程とは違った種類の胸の痛みを確かに覚えた。
「研究の成功は世界中で讃えられた。俺はいつの間にか、父親と同じ職に就いていた。……同じ夢を、見るようになった。シベリアから帰って来て銀座に店を出した時、長い事忘れていた死んだ母の笑顔が浮かばれた。母を、ようやく、幸せにしてやれたと思ったよ」
 そこで言葉を区切った赤井に、降谷は心配になって無意識に一歩踏み出していた。普段あんなにも凛々しく、さっぱりとしている姿を、今はどこか彼方に置いてきてしまったように感じられた。
 近付く程に赤井からは酒の匂いがした。不思議とそれは不快ではなかった。赤井の馴染みの香水の香りと混ざり、ぞっとする程、倒錯的ですらあった。
 正念場、という言葉がある。赤井にとって今がまさにそうなのだと思うと、降谷は、赤井に想われない事に対する嘆きなど、なんとちっぽけなものなのか、ひしひしと恥じる程に感じた。
 目の前に来ると、赤井は何か言いたげに薄く開いた唇を閉じて、そっと降谷に向かって手を伸ばしてきた。思わず肩を揺らしてしまう。瞳の前に伸びた手が、降谷の額にかかる髪に触れて、撫でるように掻き分けた。
 赤井が不意に近くなる。あ、と思うのと、熱い吐息が唇にかかるのはほぼ同時だった。反射的に目を閉じたけれど、赤井の唇が下りてきたのは、降谷の予期した場所ではなかった。
 首筋に顔を埋められると一寸もせず、降谷の身体は、赤井の腕の中に収められた。春の始め、庭の門の下で肩を抱かれた時と、赤井の温もりは全く変わっていない。
 降谷が赤井の背に腕をやると、赤井はゆるりと彼の腰に回していた腕を解いて、骨格を辿るように手を這わせてきた。袴の腰板から臍の辺りに流れ、薄い腹筋までを、首筋に口付けながら触れていく。赤井の指がちょうど降谷の胸元を掠めた時、降谷は意図せず、積もりつつある熱を放出するような声を挙げてしまった。
「あ……」
 途端、赤井は降谷の首元から漫ろに顔を上げて、密着していた身体を僅かに離した。燻るような感覚に降谷は思わず赤井を見上げた。赤井は虚ろな表情のまま囁く。
「すまない……酔ってるみたいだ」
 温もりが、名残を残して去って行った。

 ──蓋など、できる筈がない。

 降谷は俯いて、大丈夫ですと、そういった態度を装って言った。
 どこから憎めばいいのかもう、降谷には分からなかった。赤井が母の愛人だった事がいけないのか。赤井が、降谷の中に母親の面影を見ているのがいけないのか。それとも、降谷が、そもそも男同士にも関わらず、赤井に特別な感情を抱いてしまった事がいけないのか。
 溢れ出てくるこの感情に、どうやって蓋ができると言うのだろう。
 母の代わりにすらなれなくても、どうしたって自分は、赤井の事が好きなのだから──。



 早朝、けたたましいベルの音で、降谷は目を覚ました。講義の為でもこんなに朝早くに蒲団から腰を上げたりはしない。下駄を突っ掛けて階下に降りると、赤井がちょうど土間から屋敷内に上がって来たところだった。声を掛けようと口を開くも、赤井が、手にした封書らしき紙に真剣な眼差しで目を落としているのを見て、すんでのところで思い留まった。
 良くない報せだと、瞬時に降谷は感じた。
「どうしました……?」
 幾分か待ってからそう声を掛ける。赤井は今し方気が付いたとでも言うように、少しだけ目を見張って、顔を上げた。
「降谷君……起こしてしまったな」
 妙な言い方だと降谷は首を傾げるが、赤井はすぐにその紙を折り畳んで居間に向かってしまった。「本所の弟からだった」赤井の背中を追う降谷に掛けられた言葉はいつものように毅然としていたが、どこか言い表し難い違和感を覚えさせた。
「弟さんがいらっしゃったんですね。知りませんでした……」
「父と一緒に住んでいるんだ」
 はたと、一抹の不安が降谷の心に生まれた。それが確信に変わったのは、赤井が静かに零した、余りにも端的な一言によってだった。
「もう十日と保たないらしい」
 赤井がこの時どんな表情をしていたのか、背中しか見る事を許されなかった降谷には、想像すらできなかった。


***


 母の命日は厳かに過ぎていった。母の生まれた五番町の屋敷からの帰り道、英国大使館を横目に、赤井の運転するルノーに揺られ、降谷は心地良い道路の弾みの中で微かに残る線香の香りを吸い込んだ。
 寝るといい、と赤井は言った。降谷は微睡みながら、独り言のように口を開いた。
「叔父さんのところの赤ちゃん、可愛かったな。奥さん、今お腹に二人目がいるそうなんです。今度は男の子がいいって……叔父さん、幸せそうで……」
 実の母親の法事に寄る辺ない思いをした事には触れず、降谷は襲われるままに睡魔に身を委ねた。意識が途切れる瞬間。そうだな、と、読み聴かせるようなやさしい呟きが赤井から漏れた事を、降谷は起きてから思い出した。

 祥月命日から程なくして、内閣総理大臣の逝去を報じる記事が新聞の一面を占めた。癌、だったそうだ。
 その事で一層忙しくなったであろう叔父から手紙があった。身重の奥さんの体調が良くなく、八ヶ月になる娘の世話に手を焼いているそうだった。近い内に横浜へ行きます。降谷は希望を込めて手紙を返した。
 虫の報せとでも言えば良いのだろうか。
 庭の百日紅も枯れる秋の入口。西から爽やかな風の吹く晴天だった。

 その日東都の街は、降谷も見た事のない、荒れ野原になった。


***


「『處世大夢の如しとは、早くすでに幾多の人の想及せしところなれども、予も亦た常に這般の威懐を去る能はざるなり』」

 降谷の朗読が終わると、ちょうど時刻は正午に近かった。
 所属する文学サークルの面々と軽井沢に来たのは五日前。遅れた避暑旅行で観光や球打ちを楽しむ中、こうして様々な文学作品を朗読しては意見交換をするという時間を過ごして、残す所一日となった。
「『世にるは大夢の若く』、李白の詩にもあったな」
「『人生とは夢に過ぎない』……」
 討論が煮詰まると各々は昼食にありつくべく、食堂へと向かって行った。降谷が米国風の木骨様式のテラスで椅子に腰掛けたまま、ぼうっと文字の羅列を眺めていると、寺田が歩み寄って隣に腰を下ろした。
「ウェルテルってのは案外現実主義者リアリストなんだな」
「お前がそう思うってのが意外だよ」
「俺にだってこいつ・・・の感情を理解できるくらいの繊細さはあるさ」
 寺田は本の表紙を拳でノックした。含みのある物言いに降谷は目を瞬かせる。
「……お前、もしかして」
 言葉を紡ごうとしたその時。
 硝子の張られた机の上のコップが、カタカタと小さく音を立てて揺れた。中に入っている水の水面が揺らぐ様を見て、降谷は寺田に確かめるように訊いた。
「今 揺れたか?」
「え?揺れたか?全然気が付かなかったけど」
 勘違いかと降谷が首を捻った直後──今度は確かに、椅子ごと左右に揺さぶられるような、横揺れが二人を襲った。頓狂な声を出して寺田がテーブルにしがみ付く。さっと降谷が目を走らせると、庭で球打ちをしていた女学生達も何事かと不安げな表情で辺りを見渡していた。
 盃が床に転がり落ちる。甲高い音と共に盃が砕け散った処で、漸く揺れが止んだ。
「………でかかったな」
 落ち着きを取り戻したように寺田が呟く。降谷は腰を上げて、急いで館内に戻った。花瓶の破片が散在し、水浸しの廊下が百合や薔薇で覆われていた。
 食堂では客達が動揺した様子で席に着いていた。ホテルの従業員達が割れた食器の片付けをしている。緊迫した雰囲気の中、降谷は同窓生達の元へ走り寄る。皆無事だった。
 東都は大丈夫だろうかと誰かが言った。
 落ち着かなくなった降谷はホテル内の電話機設置場所に向かった。幸い長距離用の電話機前には誰も居らず、すぐに受話器を手に取ってハンドルを回す。
「東都の小石川15番をお願いします」
 交換手に伝えてから随分待った。その間に降谷の後ろには電話を待つ列ができ、彼は落ち着きなくこつこつと電話台を叩いた。
 ──胸騒ぎがする。
 苛立ちを抑える為にこめかみを押し始める。その内後ろに並んでいた客に咳払いをひとつされ、降谷は仕方なく受話器を下ろした。

 それから夕刻にかけて何度か大きな揺れを体感した。今度は長蛇の列を作る電話機に再び並び、漸く自分の番になっても、またしても交換手が東都と電話を繋げる事はなかった。
胸騒ぎが大きくなってきていた。
 居ても立っても居られなくなった降谷は客室に戻り、ひとり荷を片付け始めた。東都の様子が気になるから帰ると仲間達に伝えて足早に部屋を出る。まだ汽車は動いている時間の筈だ。切符を買う分の予備の持ち合わせも幸いあった。
 正面玄関を出た処で、待ち構えていたように寺田が荷物を傍らに立っていた。くい、と顎で示されて、思わず緊張していた口角を緩めてしまう。
 案の定軽井沢駅の駅舎は人が溢れ返っていた。なんとか寝台列車の切符を二枚買って、宵も深まった頃、二人は東都に向けて出発した。汽車は揺れを警戒して随所で停車を繰り返し、その度に、降谷は首から提げた真珠を握り締めた。
 横になっても眠れなかった。
 それはきっと、下の台に居る寺田も、同じだった。

 東都に着いたのは、揺れから約一日経った、午前十一時だった。西ヶ原の屋敷は一見変わりはなかったが、所々で瓦が抜け、煉瓦が崩れ落ちていた。普段は粛々としている薔薇園は、南の日本庭園の方まで避難してきた近隣住民でごった返し、事の重大さを物語っていた。
 志津と赤井の秘書に迎えられ、降谷達は応接室でからがらソファーに腰を下ろした。
 ──胸騒ぎが止まらない。
 目を配らせても、書斎にも、その姿は見えなかった。志津さん、と呼び掛ける。質問を投げる前に、志津はその皺寄った震える手で降谷の手を握り、自身を落ち着かせるように、絞り出した声を挙げた。
「木挽町の電話局が……全焼したそうです」
 志津の瞳から涙が溢れた。赤井の秘書がその後ろで、耐え切れない、と言うように嗚咽を洩らす。
 木挽町の電話局は、赤井の店の目と鼻の先だった──。




 上野の西郷隆盛像には、尋ね人のチラシが全身に貼られていたと、ある人は言った。
 またある人は、火の手から隅田川に避難した人々の大半が溺れ死んだと言った。
 根津に住む寺田の同学部生は、大学の図書館が燃えて、貴重な文献の数々が失われたと教えてくれた。
 けれど誰もが、赤井の消息については、首を横に振った。
「他に男がいる女のことなんてもういいだろう」
 そんな状況下で指ヶ谷に行くと言った寺田に、降谷は辛辣にそう言い放った。
「何の事だ?」
「あの遊女だよ。決まった相手が他にいるんだろ?」
 寺田は困ったように微笑んで答えた。
「あの真珠の帯飾り、両親の形見なんだと」


***


 火の手が鎮まったらしいと聴き付けて、降谷は翌々日銀座へ赴いた。華々しかった街は、そうだった事が信じられない程に、荒廃していた。いつだったか叔父と珈琲を飲んだカフェーも、参考書を買った回転扉の書店も、銀座を象徴する時計塔も、人々の往来で賑わっていた歌舞伎座も、何もかもが、塵と化していた。
 呆然と、一面灰になった場所で降谷は立ち竦んだ。二階建てだった筈の其処はもはや陰形もなく、栄華を極めた名残すら微塵も感じられなかった。
 瓦礫の山を掻き分けて奥へと進む。散々荒らされた痕跡に目を隅々に配らせても、あの日赤井がひとつひとつ丁寧に説明してくれた宝石達は見当たらない。
 暑い……。
 額の汗を着物の袖で拭き、数日前まで通りだった道に出る。尋ね人のチラシを瓦礫に貼って、降谷は歩き出した。其処ら中そんなチラシばかりだった。
 ふと、数軒先まで歩いた処で降谷は胸元に手をやった。もう癖のようになっていたその仕草はしかし何の感触も降谷に感じさせず、彼ははっとして自身の肌を確かめるように何度もまさぐった。
 さあっと青褪める。
 先刻瓦礫の中で落としてきたのか……。振り返って降谷は走った。疲れ果てた身体はすぐに息を弾ませた。棒のようになっていた足が痛んだけれど、そんな事よりも、赤井からの初めてのプレゼントを失ってしまう事の方が、余程堪えた。
 漸く見えてきた赤井の店だった其処に、まだ幼い少女と、兄らしき少年が立っていた。粉塵まみれの着物を着て、少女は何かを空に翳していた。降谷の足は遂に、走るのを止めてしまった。
「兄ちゃん、きれいだねぇ、これ……お月様みたいだねぇ」
「ああ……そうだな。きっと、お月様がさみしくないようにって、かけらをくれたんだよ。きっと……父さんと母さんが、お月様に頼んでくれたんだよ」
 兄は嗚咽を押し殺したような声で言って、小さな妹を抱き締めた。そして、ふらふらと、宛てもないように歩いて行った。

 ──もう、我慢できなかった。

 静かに踵を返して降谷は歩き出した。歩きながらもう、涙が頬を流れるのを、止められなかった。
「う………ああ、あ……」
 耐えられない。
 赤井が今何処に居るのか、知りたくて堪らなかった。その穏やかな瞳で、自分を見て欲しかった。その大きな手で、触って欲しかった。あんな一度だけの触れ合いでは、全然足りない。もっと、もっと、触れて欲しい。抱いてくれなくてもいい。ただ、抱き締めて欲しい──。
 降谷は暫くの間、立ち往生のまま、只々そうしてひとり泣き続けた。


 その日屋敷に帰ると、見掛けた事のある婦人達が、せっせと被災した人々の世話を買って出ていたようで、忙しくしていた。彼女達は西洋の、二股の下履き、と言うのだろうか。普段見る麗しい一張羅とは程遠い姿で、甲斐甲斐しく動き回っていた。
 降谷を見つけたひとりの婦人が、彼に笑い掛けた。「お帰りなさい、降谷さん」そう言われて、降谷はただいまとも言わず、静かに彼女に伝えた。
「見違えました……いつも素敵なお召し物だったもので、その……」
 そう口を閉ざした降谷に、婦人は一寸目を見張った様子で、しかしすぐに口元を綻ばせてこう言った。
「祖母が、わたくしが小さい頃、火事で還らぬ人となったのです。街ひとつ焼き尽くす大きな火事でした……着物を、亡くなった時も勿論着ていて。その後からです。母が、洋服の裁縫を始めたのは。いつも機能的で、所作に無駄がないようにと、万が一の際にも、逃げ易いようにと」
 降谷はそれを聞いて、まるで、自分の立って居る周りだけぽっかり穴が空いたかのように、慄き、恥ずかしくなった。
 自分は、今まで何を見ていたのだろう。形式に囚われて、彼女達の事を洋装の文明人と揶揄を交えた表現をして一種蔑んでいた自分を、罵りたくなった。「大人」の世界に足を踏み入れる気にならないなどと考えていた自分を。とんだ思い違いだった。
 あの遊女の事も然り──真実を知ろうともせず、浅はかにこうだと決め付けていたのは、降谷の驕りだったのかもしれない。
 大人になどなれる資格もなかった事を、降谷はこんな絶望的な状況の中で、初めて知ったのだった。


「そう言えば……帰ったら、降谷さんにお話があると仰ってました。赤井さん、地震直後はお店と電話が繋がったので」
 そう赤井の秘書から聞いたのは、赤井の行方が知れなくなってから、三日経った朝だった。
「話……?どんな話か言ってましたか?」
 怪我人の介護にあたる秘書を手伝いながら訊ねると、必死に思い出そうとする表情の後、秘書はああ、とはっとしたように口を開いた。
「妾も動揺していて、はっきりとは覚えていないのですが。確か、ご両親の事について、とか……」
 手が止まった。
 今、何と言った?
 もう一度訊ねようとするも、秘書は他の使用人に呼ばれて応接室を出て行ってしまった。
 両親、と秘書は確かに言った。赤井は、降谷の父親を知っているとでも言うのだろうか。父親の話など母の口からも聞いた事がないのに。
 その時。降谷は思い出した。赤井がパリから帰って来て程なくして、赤井は何か、郵便らしき封書を手にしていた。
 鼓動がうるさく響いた。
『父と一緒に住んでいるんだ』
 慌ただしく二階に向かった降谷に、驚いた志津が何事かと声を掛ける。障子を勢い良く開けた先は、初めて入る赤井の寝室だった。整然と片付いた部屋。辛うじて靴を脱ぐのも忘れず、降谷は畳を蹴って窓際の座卓へと駆けた。英語が並んだ書類の中からひらりと出てきた封筒を見て、降谷は、縋るようにそれを握り締めた。
 ──封筒の裏に書かれていた文字は、降谷にとって最後の、希望だった。


***


 戒厳令の布かれた中。馬車、と言うには見すぼらしい荷台に揺られ、降谷がやって来たのは、封筒に書かれていた住所である本所地区だった。其処は飛び交った流言蜚語の通り、何も、無くなっていた。
 見渡すばかりの焼け野原。──何体もの重ねられた、身体。目を覆いたくなる光景に、それでも目を逸らさず、降谷はつぶさに辺りを見て回った。
 正直、根拠なんて物はなかった。けれど直感がそう言っていた。
 自警団らしき男達に訊ね回り、その住所に向かう。もう日はすっかり沈んでいた。その場所はやはり、家屋だった物の骨組み以外、何も無かった。
 降谷は力無く笑ってしまった。灰の上にどさりと腰を落とす。あーあ、と宙を仰いで独り言つ。憎らしい程今夜は月が奇麗だった。
「全くもう……しょうがない人だな。人にこんなに、探させておいて……何処に、居るんですか……っ」
 目を閉じて思い出すのは、いつも優しかった赤井の、あの瞳の色だった。
「愛してるのに……」
 虚しく涙と共に言葉が落ちる。ひとしきり泣いた後で、後方で複数の男達の話し声が聞こえたために降谷は漸く立ち上がった。擦れ違い様に耳に入った会話に、思わず振り返って彼等の後を追う。
 仮の処置室らしい其処は怪我人で溢れ返っていた。見渡してみてもやはりそれらしき人は見当たらず憔悴して建物を出る。今夜は一旦屋敷に戻り、また明日探しに来よう。
 月が雲に隠れたその時、一陣風が吹いた。乱れた前髪を直そうと手を翳したところ、握り締めていた筈の手紙が土埃に乗って、容易くも吹き飛んで行ってしまった。あっと声を出した時には、白いその便箋は、ちょうど人の手によって掬い上げられたところだった。
「すみませ……」
「降谷君?」



 鼓膜が震えた。
 血が。全身の血が沸き立つように、肌が粟立つように、その声は降谷の身体を駆け巡った。
 月明かりの影が晴れる。仕立ての良さそうなスーツはこれまたぼろぼろで、捲り上げたシャツから覗く腕は、いつか抱かれる事を夢見た時のように、逞しかった。
 まだ夢を見ているのだろうか。
 薄い唇の先を見上げるよりも早く。手紙を拾ったその人物にぐっと腕を引かれ、気が付くと降谷の身体は赤井の腕の中に居た。降谷は驚きに一寸目を見開いて、そして、頬に感じた熱い滴が自分の流したものだけではないと分かると、そっと閉じた。
ようやく身体を離す頃になっても泣き止まない降谷に、赤井は少し笑って、本当に軽く、その唇に口付けた。



 赤井さん。良かった、本当に良かった。心配したんですよ。
 すまない。あの電話の後、結局店が燃えてしまって、火の手を逃れて川岸に向かったんだ。
 赤井さん。お怪我の具合はどうですか?
 直に治る。志津さんも無事で良かった。屋敷を守ってくれてありがとう。
 本所へはどうして?
 弟と──父が、居た筈なんだ。随分、探し回ったが……。

 それきり赤井は何も言わなかった。屋敷で赤井の帰りを待っていた者達も、それ以上は訊けなかった。


***


 横浜で被災した叔父とその家族は、奇跡的に助かった。三週間程経ってから、政府は東都に復興院を設置したと、その叔父からの手紙で知った。
 ひと月と十日経ったある日。屋敷に一本の電話が入った。電話を受けた赤井はただ、そうですかと、それだけ言って受話器を置いた。
 庭の整形式庭園では、早くも秋薔薇の蕾が開き始めていた。その頃には漸く赤井の仕事も再開され、屋敷は再び、麗しい婦人達の活気溢れる声で満たされた。
 何事も無かったかのような日々だった。
「赤井さん、お先にすみませんでした。どうぞ」
「ああ……」
 煙草の火を消してから、赤井は書斎の入り口に立つ降谷に告げた。
「風呂から上がったら、部屋まで酒を持って来てくれないか」
「え……」
「付き合ってくれ」
 言葉通り赤井が寝室に入ったのを確認してから、降谷は盆に載せた酒と切子硝子のグラスを持って、行燈が仄かに透ける障子のへりを叩いた。ノックだなんて西洋風な癖が付いてしまった事に苦笑いし、そっと障子を引く。粗雑な音を立てないように注意深く畳を踏んで室内に入った。
 改めて中の様相に目を配ると其処は、普段の洋服を着た赤井の雰囲気とはまた違う、まさに日本的と言った造りの和暢を感じさせる部屋になっていた。庇の付いた広い縁側には背の低い籐の卓台と椅子が置かれ、季節の花を生けるのであろう備前の花器には今はりんどうがあった。
 赤井は、座布団に胡座をかいたまま行燈の灯の調節をしていた。降谷に「ありがとう」と言い、何か逡巡して今し方咥えたばかりの煙草をケースに戻す。
 互いにこんな無防備な姿で向き合うのは初めてのように思われた。風呂上がりの赤井は寝衣ねまきの鳩羽に薄く縞の入った浴衣姿で、普段は後ろに流している黒髪は、今は乾き切らず僅かに濡れていた。
 座卓の上に盆を置く。グラスがひとつしかない事に気が付いた赤井は、不思議そうに訊いてきた。
「君の分はどうした」
「いえ……僕は遠慮しておきます」
 衝立の向こうに敷かれた蒲団が目に付いて、降谷は目を逸らしながら断った。
「明日は講義も休みだろう」
 酒を注いで、赤井の前に滑らせる。一口だけ口にしてから赤井は降谷を見て、瞳を細めて言った。
「口移しの方が良いか?」
 どきりとして指先が跳ねた。本気で言っているのか冗談なのか、赤井の表情からは分からない。行燈の灯が微かで良かった。そうでなければ赤井に、降谷の顔が火照っている事を気取られたかも知れなかった。
 おいで、と赤井は小さく言った。その声色の熱っぽさに、降谷が抗える筈がなかった。
 尺を詰めて改めて赤井を見上げる。暫く見つめ合っていると、赤井が不意に言った。
「気が付かない振りを続けるのも大変でね」
「……え?」
「君のその顔。……抱いてくれと書いてあるよ」
 かあっと顔に更に熱が集まる。もしかして、降谷の気持ちに、赤井はとっくに気が付いていたとでも言うのだろうか。
 いつから、と降谷が考えを巡らせている内に、赤井はまた一口酒を口に含んで、そっと、顔を寄せてきた。
「……ん、」
 濡れた感触が唇に下りてきた。
 赤井は目を閉じた降谷の顔を上向かせ、口内に酒を送ってやった。溢れないようにと、降谷も必死にその液体を呑み込んでいく。
 不思議だった。酒の味など決して得意ではなかったのに、今は、何故かとても甘く、それでいて思考が痺れるような、そんな悦としたものが感じられた。
 酒を呑み干してしまうと、見計らったかのように赤井の舌が差し込まれた。吸い付かれ、互いに絡ませ合って、唾液を送り込んで。隙間から溢れた分が降谷の顎を伝い落ちる。それを舐め取ってから、赤井は「裁判が延期になったと言っただろう」と徐ろに語り始めた。
「君のお母さんの事も勿論そうだが、日本に帰ったらまず一番、君の顔を見るのが楽しみだと思っていた」
 降谷は思い掛けない言葉に赤井を注視した。赤井はその視線を受けて、子供が拗ねたような顔付きで訊いてきた。
「あの男に、何処を触られたんだ?」
「あっ……」
 赤井は寝衣の上から降谷の胸元に触れた。何度か突起を往復するように摩られ、堪らず降谷は熱に浮かされた声を挙げた。背筋を辿るような手付きで腰の帯を解かれると、ゾクゾクと、寒くもないのに震えてしまう。
 纏う物が無くなった上半身に赤井の顔が近付いた。此処か、と確かめるように伺ってから、そろりと覗かせた舌で乳首を舐ってくる。羞恥から喚き出してしまいそうな口を手で押さえ、何とか耐えていると。やんわりと赤井に、その手を掴まれた。
「ほら。後は……此処もか?」
「ひっ、あっ……あっ、」
 切なく疼いていた下半身を撫でられ、びくりと身体を揺らす。肘から崩れ落ち、降谷は天井を仰いで嬌声を挙げた。絹を撫でるように触れられているだけなのに、こんなに感じてしまっては赤井に変に思われるだろうか。
 それでも、遂に、降谷の勃ち上がった性器をその手の中に招かれると、驚愕は一瞬で一気に興奮が昂ぶって、羞恥や体裁と言ったものを気にする余裕も無く、ただ赤井に導かれるまま、降谷はとうとう果ててしまった。
 呼吸が浅くなる。背中から倒れながら、強烈な余韻に酔っていると、不意に赤井に唇を撫でられた。なんとか肘をついて再び起き上がり、座卓を背に座る赤井の、股の間に顔を埋めた。帯下の合わせを寛がせ、下衣から取り出した一物のその、熱い皮膚の隆起に沿って舌を這わせていく内に、降谷は堪らなくなって、むしゃぶりつくように唇で吸い出した。赤井の男の味は益々降谷に興奮を募らせ、絶頂を味わったばかりの身体は降谷も気が付かないうちに淫らに揺らめいていた。
 零、と。
 掠れた声で呼ばれたのは、後ろを指で解されている内に、降谷に泣きが入ってきた頃だった。
 一寸動きを止めた降谷は、驚きを隠す事もできずに顔を上げた。赤井はそんな降谷を見下ろして、出し抜けにその身体を抱き上げた。うわっと可愛げもない声を挙げて、降ろされたのは、衝立の後ろに敷かれていた蒲団の上だった。
 向かい合いながら些か尚早に、赤井は降谷の内部に挿入してきた。心構えが間に合わなかった分だけ喜悦の声が大きく上がる。あまりの快感に数度往復されただけでたちまち精を放ってしまい、その呆気の無さに降谷は涙を零して赤井を見上げた。
「奇麗だな、君は」
 浴衣を脱ぎながら赤井はそう言った。額に汗を浮かべ、降谷の見た事のない、壮絶な色気を放ちながら、笑った。
 奇麗、だなんて。色々な男に言われてきたが、今この時程、痛切に心に感じた事は一度たりもなかった。
「貴方の方がよっぽど奇麗です……」
 赤井はまた笑った。──少年に返ったような笑顔だった。
 裸の肌を寄せられると、初めて赤井の本当の匂いを感じた気がした。煙草の香りでも、フゼアの香りでもない──それも好きだったが──汗ばんだ、赤井の肌の匂い。
 どちらからともなく唇を寄せ合った時、見計らったように行燈の灯が燃え尽きて、二人はまた笑い合った。



 いつの間にか朝になっていた事を降谷は起きてから悔やんだ。何回目かから記憶が途切れ途切れで、途中、とても恥ずかしい事を口走っていたような気もして頭を項垂れずには居られなかった。
 ふと目をやると、赤井は窓の外、縁側の木柵に寄りかかりながら煙草を吹かしていた。暫く見つめていると、不意に振り返った赤井は降谷を見つけて、室内に戻って来た。
 起きたのか、と額に接吻をくれる。
「庭の秋薔薇がもう咲いているな。早摘みしてまた志津さんが紅茶を淹れてくれるだろう」
「そうですね……春薔薇の時もお客様に好評で」
 ふと自分が昨夜のまま何も身に纏っていない事を思い出して、漫ろに乱れ落ちていた浴衣を羽織った。ちらと赤井に視線を向けると、赤井はそんな降谷を見つめて、そして、口を開いた。
「本当に、君は……ご両親に良く似ているよ」
 郷愁の、色を携えた瞳で赤井は微笑んだ。それは、赤井が降谷を通して母親の影を見ているのではと誤解した、その時の微笑みと瓜二つだった。
「聞きました。僕の両親の事で話があると……赤井さんは、父の事を知っているんですか?」
「勿論だ。留学していた時の恩師だからな」
 耳を疑った。驚きを隠せず赤井を見ると、赤井は短くなった煙草を灰受けに押し付け、語るように話した。
「もう十五年は前になるか……私がまだ帝大の学生だった時、二年間英国に留学してね。その時に良く面倒を見て貰った」
 赤井の話を遮るように、降谷は思わず えっ?と間抜けな声を出してしまった。
「あ、赤井さん、帝大出身なんですか?」
「ああ。あの頃はまだ学部制ではなく、私は農科に籍を置いていてね。海洋水産学が専攻だった。話してなかったか?」
「初めて知りました……」
 知らない事尽くしで脳内が混乱する。目を丸くする降谷に赤井はふっと口元を緩めて、彼の褐色の頬にまた口付けた。
「君のお父上もそうだ。帝大の法科卒で、英国には外交官として駐在していたんだ」
 赤井の低い声は終始穏やかだった。息を呑んで続きを待つ。
「一度だけ写真を見せて貰った事がある。妻と息子だと。君は写真の中ではまだ産まれたばかりの赤ん坊で、お母さんの腕に抱かれて大人しそうにしていたよ。降谷さんは……残念ながら、欧州戦争のために日本へ撤退する船が海難事故に遭ってしまったんだが、日英同盟締結の立役者とも言われた人だった」
「そんなに凄い人なら。母は何故、父について僕に何も話さなかったんでしょうか」
 赤井は「これは何年か前に莉莎子さんから聞いたんだが」と困った様子で始めた。言おうか言わまいか逡巡する表情。莉莎子とは、降谷の母親の名前だった。
「莉莎子さんには少女時代に将来を誓い合った男性が居たが、その人とは別れて降谷さんと結婚したそうでね……それが仕方の無い世の中だ。降谷さんはかなり熱心な開戦論者だったんだが、その別れた男が、満州で戦死したんだ」
 正直、降谷には現実味の無い話だった。物心付いた時から自分には父親は居なかったのだ。そしてそんな状況を悲観していた訳でもなかった。ほんの幼い頃に一度父親について母に尋ねた事があったが、口にするなと言わんばかりの話し振りで拒絶されたため、それ以来母の前で父親の話はした事がなかった。
「仲の良い夫婦ではなかったのだろうとは思ってましたが。最後まで自分勝手な親達ですね」
 降谷の自嘲するような言葉に赤井は「どうだろうな」と伏し目のままで返した。
「一枚しかない写真をいつも大事そうに眺めていたよ。多くは語らない人だったが、最後まで君と君のお母さんの事を気に掛けていた。妻に指輪を作って欲しいと……私から真珠を買ってくれてね。西洋では永遠の愛を誓う時に指輪を交換するんだ。真珠の周りにダイヤモンドを埋めた、豪奢なものだった……それが、最初で最後のプレゼントになった」
 其処まで聞いてから降谷は、不意に脳内に思い出された情景に目頭が熱くなるのを感じた。死ぬひと月ほど前から、母は毎日のように──まさに赤井が今話した通りの──美しい指輪を、嵌めていた。
 死に顔すら、幸せそうだった。
 存外、幸せな人生を、自分は送っていたのかもしれない。
「お母さん……」
 そう呼んだのは何時振りだろう。
 降谷が泣き止むまで、赤井は胸に彼を抱いて、ただ背中を撫でていてくれた。

「僕も……謝りたい事があって、」
 漸く呼吸が落ち着いてきた頃に降谷はそっと言った。赤井が降谷の涙の跡を拭って、なんだ、と微笑み掛ける。
「以前、赤井さんがくれた金の真珠、あの……失くしてしまって」
「失くした?」
「失くした、というか」
 降谷は其処で、赤井を探しに銀座の店まで行った時の事を話した。話を聴き終えた処で赤井は、降谷を安心させるように、柔和な声で尋ねた。
「その事で、君は後悔しているのか?」
 降谷は少し考えてから徐ろに首を振った。偽善心かもしれないが、幼い兄妹に、少しでもいいから生きる希望というものを、あの時の自分は感じさせてやりたかったのだ。
 赤井は「ならいい」と言って、降谷の瞳を覗き込んだ。
「君には悔いのない人生を送って欲しい。それは私が、君のお父さんから教わった事でもある」
 降谷は神妙に頷いてから、くすりと笑みを零した。その様を見た赤井は、決まりの悪い表情で「年寄りじみてたか?」と訊いてきた。
「いえ、なんだか……父親、って感じ」
「これでも最初はそうあろうと努めていたんだ。君と莉莎子さんを宜しくと降谷さんにも頼まれていたからな」
 だが、と赤井は降谷の背中から腕を回して、耳元に囁くように言った。
「君が余りにも可愛い顔で俺を見てくるから、いつしか君をこの手で掻き抱いてしまいたいと思うようになった」
 はあっと吹き込まれた息に背筋が甘く痺れた。思わず背けた顔を赤井に掴まれ、あっという間に唇を塞がれる。
 次に目覚めた時、降谷はぼんやりとした感覚を拾い集めるように、赤井の言葉を思い出した。
 ──探しに来てくれてありがとう。
 それが、夢の中での言葉だったのか、実際に赤井に言われた言葉だったのか、どうしても分からなかった。


***


「赤井殿はお元気か?」
 耳元に息を吹き込まれ、背筋の凍る思いと共に振り返る。蛇のようなその瞳は、降谷も信じられない程の厚顔無恥さをありありと思わせた。
 眉を寄せて睨み付ける。原嶋は「おお怖い」と態とらしく調子が外れた声を出した。
「よく僕に話し掛けられますね」
「君の息災をこの目で確かめたかっただけさ。赤井殿の店は全壊したと聞くが」
「お陰様で復旧作業中です。もういいですか」
「おっと」
 図書館跡の前に置かれた長椅子から腰を上げた降谷の腕が、ぐっと掴まれる。以前の狼藉に似たその力に歩みを阻まれ、降谷は更に眉間の皺を深くした。
 原嶋は直ぐに降谷の腕を解放した。得体の知れない笑みを浮かべたまま口が開かれる。
「郷里に帰る事になったんだ。最後の挨拶くらいいいだろう」
「僕には関係ありません」
「先日の非礼については詫びるよ。でもあの後お楽しみだったんじゃないのか?」
「……何処まで失礼だと気が済むんですか」
 声を低くした降谷に、原嶋はまるで悪びれもなく「元気で、降谷」と相変わらずの笑みで言った。


 柔らかく差す白い光を受けながら衣擦れの微かな音がする。重い瞼を開くと、恐ろしく均整の取れた広い背中が浴衣からはだけて露わになった。肩から腰まで、手首の先まで、まるで彫り物のように端然とした後ろ姿は存外日に焼けておらず、けれど却ってその石膏的な美しさを助長させるようだった。
 昨日キャンパスで原嶋に腕を掴まれた事をぼんやりと思い出す。原嶋とは背丈はほぼ一緒なのに、力では圧倒的な差があった。筋力が明確に足りないのだ。
 何か武術でも習おうか。赤井の盛り上がった筋肉を眺めて降谷はそう取り留めなく考えた。
 糊の効いたシャツを羽織り、袖口cuffを留め、タイを首に締めたその上に、濡れたような呂色のベストを纏った赤井は、降谷の視線に気が付くと不思議そうに「どうした?」と訊いた。
「彫刻が服を着たみたいで……」
 赤井はその答えに、煙草を口にしたままふつりと笑みを浮かべた。
「君もそろそろ服を着た方がいい。皆出勤してくる時間だ」
 そう言って赤井は箪笥の上の硝子の小瓶を手に取って、僅か程チーフに吹き掛けた。
 こうして完成されていく赤井を見ていると、降谷は胸が踊るような高揚感の傍らで、どこか非現実な光景を見ているような、虚ろな心持ちになった。夢見心地のように、朝、赤井の隣で目覚めるのだ。あんなに求めていた赤井に、同じくらい求められていると確かに感じるのだから、降谷の性格上半ば心許の無さを思うのは当然なのかもしれなかった。
 情事の名残を醸す蒲団から這い出て、いつの間にか畳んであった平織りの単衣を羽織っていると、すっかり身支度を整えた赤井は不意に切り出した。
「来月からまたパリに行って来る」
 その言葉に降谷は向き直って尋ねた。
「裁判の関係ですか?来年まで頓挫したのでは……」
「店に顔を出してくる。あんな事があって、大分心配されていたからな」
 それと、と赤井は続けて言った。
「娘の顔を一目見て来ようと思ってね」
 思い掛けない言葉に思わず赤井を凝視する。ロンドンに居るんだ、と赤井は言って、静かに煙を吐いた。
 何時だったか、思った事があった。赤井には子供が居るのか。降谷は驚きと共に、沸いて出た興味心もそのまま矢継ぎ早に質問を重ねた。
「おいくつなんですか?娘さん。写真とかあるんですか?名前とか、うわあ、きっと赤井さんに似て凄く可愛いんでしょうね」
「俺に似て可愛い?」
 腑に落ちないような表情をして赤井は、降谷の質問に答えるように立ち上がり、箪笥の引き出しから縦長の桐箱を取り出してきた。そっとその中身を降谷の目の前に翳す。濃い青の貴石が埋まったロケットを開くと其処には、瞳が赤井によく似た少女の写真があった。
「真純と言うんだ。先月で五つになったかな。どちらかと言うと俺よりも死んだ妻に似ているよ。出征する前に妻の遠縁の親戚に養子に出したから、もう向こうの里親を本当の両親だと思っているかもしれん」
「養子に……」
「俺は悪いところばかり父親に似たな」
 赤井はそう言って降谷の手を取り、指先に口付けを落とした。それから徐ろに背広の内側のポケットから取り出した物を降谷の指に滑らせ、静かに話し始めた。
「君は覚えているかどうか分からないが、君と初めて言葉を交わした日……お母さんが亡くなって間も無いのに、君が余りにも気丈に振る舞うから、居ても立っても居られなくなってね。無意識にうちに来ないかと口走っていた。君が心配だったからと言えば聞こえは良いが、本当は、ただ君を俺の傍に置いておきたいと、邪にも思っただけだ。君のお父さんにもお母さんにも、もとより合わせる顔なんて俺は持ち合わせていないんだ」
 それでも、と赤井は降谷の指に嵌めたその感触を確かめるようにそっと撫でた。
「本所を彷徨っている時、父も弟も居なくなって、何もかもに絶望した時ふと空を見上げたら、満月だったんだ……もう、自分に嘘は吐けないと思った。何故かな、月を見ると……降谷君、君を思い出してしまう。父親代わりなんて都合の良い体裁、君に対しては使えないのだと痛感したよ」
「……つまり、それは……」
 降谷は視線を落として訊き返した。控え目に光を放つ金色のそれは、まるで採寸したように降谷の左手の薬指に収まっていた。
 西洋では永遠の愛を誓う時に指輪を交換するんだ。赤井が以前言っていた言葉が脳裏を掠める。
「すまん、回りくどい言い方だった」そう言って居住まいを正した赤井は、降谷を見上げて柔らかくその緑柱玉の瞳を細めた。
「愛してるよ零。君のご両親には咎められるかもしれないが、もう覚悟した事だ。君の心ごと俺に託してくれ」
 甘い睦言に降谷は全身が溶けていくように感じられた。見つめられている事が恥ずかしくなって、誤魔化すように赤井に抱き着く。
 こんなに幸せな事があっていいのだろうか。もしかしたらまだ夢を見ているのかもしれない──。
「僕も、愛してます」
 一体どれだけ愛を囁き合えば、この宙に浮いて漂うような感覚から、赤井の隣に降りて来られるのだろう。どれだけ肌を重ねれば、恋人同士と胸を張れるだろう。そんな日が来る事を降谷は待ち遠しくもあり、これまでの遣る瀬なさを思い出して物寂しくもあった。
 きっと一歩ずつ、二人の人生を歩んで行くのかもしれない。
 息を吸い込むと煙草と、馴染み始めたフゼアが、降谷の鼻腔を満たした。


 降谷がこの煉瓦の屋敷に来てから一年が経つ頃、赤井は再び遠い海の彼方へ旅立った。


 そして、それきり、帰って来なかった。


***


「“Uebrigens hast du sein Gerücht gehört?” (そう言えば彼の噂、聞いた?)」
「“Wessen Gerücht?” (彼って?)」
「“Über Rey! Er trägt jeden Tag einen Ring und das ist von seine Liebhaberin, die im Meer gestorben ist.” (レイよ!彼、毎日指輪してるじゃない。あれ、海で死んじゃった恋人からの贈り物だって噂)
「“Ist das wirklich? Also ist er Single, nicht er?” (それ本当なの?じゃあ彼、独身なのね?)」
「“Na, ya. Hanna wird begeistert sein. Ach, dort wird er kommen! (まあそうなるわね。ハンナが意気込むわ。あっ、ほら彼が来るわよ)」
 灰黄色の背広を翻して彼は婦人達の座る窓口へとやって来た。一言二言出納係の長の婦人と話をして踵を返したところ、視線に気が付いたのか、すっと口角を上げて“Hallo”と微笑んでくる。噂話に花を咲かせていた婦人達は一寸で頬を染め上げて、漸く思い出したかのように各々の仕事に戻っていった。
 午前一番の仕事を終えて、日が昇り切る前に彼はオイルライターを手に建物の外に出た。北へと向かうシュプレー川にそよぐ風が心地良く彼の褐色の肌を撫でて、揃えたばかりの金茶の毛先が遊ぶ。
 川に架かる橋を渡り、緑屋根の大聖堂前で煙草ツィガレッテに火を点けると、ちょうど華やかにめかし込んだ婦人達が目に映る。鮮やかな色彩の生地にくびれた腰の輪郭は、それだけで大都市の雰囲気が漂った。中には細く吊り上がった眉に紳士的なパンツルックで、人気の女優を気取った新しい婦人達もいた。
 挨拶の声を掛けられ、彼は親しみを込めて彼女達の白い頬に口付けを送った。もはやお決まりとなったシャネルがふわりと香ってくる。
 降谷零Herr Furuyaは異国の地でもよく人目を引いた。それは東洋的でありながら何処か退廃的な彼の容姿のせいかもしれなかったし、銀行家でありながら──もしくは銀行家であるから──世間の流行的モードな事柄に敏感だったからかもしれなかった。
 婦人達と別れると彼は煙草を咥え直し、広場の定位置の長椅子に腰を下ろした。道行く婦人達はやはりパリチックの装いで、首元には真珠が欠かせないようだった。世界的な恐慌の影響で仕事に拘束され、最近はゆっくり外に出る事も少なくなったが、こうして往来を眺めていると、大袈裟にも時代の流れを感じずにはいられなかった。
 裁判で養殖真珠がヨーロッパの宝飾業界に認められてからこの数年、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで、日本の真珠はファッションモード界を席巻した。比例するように、パリにある赤井の店も、恐慌の打撃を一時は受けながらも売れ行きは右肩上がりらしかった。経営者が変わっても真珠を世の女性に広めたいという思念は今も受け継がれ、そして、着々とそこに近付いているように、降谷には感じられた。それは奇しくも、あの当時赤井が思い描いていた事そのものだった。
 裁判の勝訴の報告と共に、叔父に借金をしてまで降谷が海を渡ったのは、赤井の乗った船が地中海沖で行方知れずになったと連絡を受けてから、半年経った頃だった。
 マルセイユを彷徨ってからパリに戻り、赤井の店が人で溢れ返っているのを見て、降谷はとうとう泣いてしまった。麗しい貴婦人達が一様に真珠を手に取り、首に巻いては微笑む姿は、赤井が夢見ていた光景だったのではないかと、無情な現実を突き付けられたような気がして立ち竦んだ。
 あれから九年。
 半睡半醒のような感覚のまま、大学を卒業し、外国で就職を決め、必死に働いてきた。この地で認められるため酒と煙草を覚え、身体を造り、身嗜みに気を付けていると、自然と取り巻く環境が上流のものになっていった。けれどふとした時に、こうした自分は全て、あの当時の──降谷がたった一年だけ共に暮らした、煉瓦の屋敷の──赤井という男を、投影しているだけなのかもしれないと、そう思うのだった。
 不思議な事に九年経った今でも、あの奇禍において再会したように、赤井が何処かからひょっこり、現れ出て来るのではないかとも。
 処女の初恋は宝玉だと書いたのは誰だったか。左手の薬指に嵌めた指輪を撫でて降谷はふつりと笑い、ベンチから腰を上げた。仕事場に戻ると早々に客達が降谷の部屋の扉を叩いてくる。
 襟元を整え直し、チーフに香水を吹き掛けてから煙草を揉み消して筆を持つ。ひしゃげたペン先を直した、古惚けた万年筆だった。
 視線を書類に落としたまま声を張り上げる。
「“Der Nächste, bitte!” (次の方どうぞ)」
「“Ich möchte dies als Sicherheit stellen. (これを担保にしたいのですが)」
 室内に入って来たその客に、唐突に、繊細な堀細工が施された木箱を机に置かれ、降谷は訝しがりながらそれを手に取った。
「“Wie viel wollen Sie sich denn leihen?” (融資額のご希望は?)」
 言い終えつつ木箱の蓋を開けた降谷は目を見張った。其処にあったのは、大切そうに絹に包まれた、月に似た輝きを放つ宝石──降谷の淡い記憶より一回りも大きく、金色の濃い──紛れもない真珠だった。
 影絵の回るように。脳裏に思い出されたのは、あの煉瓦造りの屋敷と、貴婦人達の溌剌とした笑い声。飽きずに眺めた薔薇園、雨粒の落ちる池のせせらぎ。そして……
「君を」
 幾年か振りに耳にした日本語の甘い響きに顔を上げると、遠い面影と変わらずに美しい、緑柱玉の瞳があった。





pixiv掲載
前編/17.02.04
中編/17.02.19
後編/17.08.15
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