『君、零君と言ったかな』
『僕のことをご存知ですか』
『よくお母さんに付いて遊びに来てくれていただろう。降谷夫人のことは大変遺憾だ。とても気位の高い女性だったよ……君、大学は?』
『東都帝国大学に通っています』
『そうか。いや、ちょうど屋敷の使用人がひとり病気で辞めてしまってね。君さえ良ければ、うちで書生をやらないかと思っている次第なんだ。帝大なら家から通うのにも苦労はないだろう』
『…何故、僕に?』
『……これも何かの縁だろう』
 男は赤井と名乗った。そんなこと、とうの昔に知っている。
 母が愛した、最後の男──。

***

 ううん、とひとり伸びをして、降谷は窓の外、青々とし出したイチョウ並木を眼下に見た。
 堪えるような冬の寒さがいつの間にか過ぎ去り、近頃は学舎キャンパスを少し逍遥するだけで、仄かに花の香りを楽しむ事ができる。刻の流れる速さに降谷が驚いてしまう程、季節はよもや春になろうとしていた。
 図書館の、ちょうど真東に上野が臨む窓辺。降谷はその席を気に入って、定位置としてよく勉強に励んでいた。
 本日のお供はミンネザングの『トリスタンとイゾルデ』。宮廷で騎士達が愛を紡いだ時代のドイツ語はなかなか複雑で、やはり苦戦させられる。母音体系を確認しつつ、‘‘ei’’の発音の変化や、‘‘s’’から‘‘sch’’への変容──‘‘sprechen話す’’は変化なしと来た。分かりやすいような紛らわしいような──をノートに書き写して、漸く一息吐く。今日のところはこのくらいにしておこうか。降谷は荷を纏めて席を立った。
 中期ゴシック様式造りの図書館を出て、かの文人も著作で「大いにいい」と書いた棕櫚の木の麓を歩く。すぐにイチョウ並木に突き当たり、三四郎と美禰子が出逢った池を取り囲む木々を横目に東の門を目指す。と、どしりと降谷の肩に、何やら重い、人の腕が廻った。
「やあやあ、図書館の窓辺のゲーテGoethe am Fensterとは、いかにもお前のことかな」
「……びっくりさせるなよ、寺田。重い」
 降谷は少し不満げに、同級の友人を見上げた。降谷の生まれ付きの褐色肌とそう大差無い色黒の男は、愛想の良い顔に更に笑みを浮かべて「すまんすまん」と謝った。
 寺田は人の良さそうな顔立ちらしく関西の出身で、工学部の所属ながら降谷と同じ文学サークルに参加しているという、変わった男だった。知り合ってからは、たまに彼の下宿する湯島の宿で勉強したり、主に近代の文学小説について語り合いをしたりしている仲だった。
 そんな良き友人のひとりである寺田が、徐ろに降谷の耳に口を寄せて、こそこそと内緒話をするように囁いて来た。
「なあ、これから、引っ掛けに行かないか」
 何を、と問い掛けるのは野暮な男のすることだと慎んで、だが丁重に、降谷は断りの言葉を口にしかけた。しかけた、と言うのも、降谷のその言葉は、寺田の、人差し指を立ててちっちと左右に振る、という仕草で遮られたためだった。
「お前はいつもそうやって色事に興味の無いふりをするな。そういう奴に限って芸妓やら遊女やらに入れ込むんだ。後学の為にも、経験は必要だろ?『文学の陰に花の色あり』じゃないか」
「そういうお前はいつもそう言って花街に入り浸って、教授達を悩ませてるな」
「先生方だって花街くらい行くだろう。なんで俺達が駄目なんだ」
 てんで不思議そうな表情で寺田はそう言った。頭を抱える降谷の腕を寺田はなかば強引に引っ張り、東門まで連れて行く。怪力め、と呆れて降谷は大人しく友人に従った。

 男に抱かれる傍ら、付き合いで色街に赴いて私娼と情交を結ぶという、如何にも文学者的な生活を送ったりもしている降谷だが、かと言って今日は女を抱く気分でもなかった。降谷は特段男尊女卑の気がある訳でもないが──それも珍しいことだった──女を見れば、あの煉瓦造りの屋敷に来る婦人達のように、媚びた色を携えているのかと考えてしまう自分に心象の悪い思いをするのだった。
 実際、花街では降谷はよくもてた。少ない年上からは可愛がられ、多い年下は憧憬の念を寄越してきた。それもこれも自分の日本人離れした容姿が理由なのだろうと降谷は考えているのだが、つまりは毛色が違うのが異色で、好奇の的となる存在なのだ。

 東の門を出ると目の前は、昨年博覧会も開催された不忍池になっている。「桃色は辨天様のはちすかな」そう詠んだのは、降谷の先達でもある、先の元号時代に活躍した俳人だ。池に優美に浮かぶ無数の蓮の花は、まだ蕾すら姿を見せていないにも関わらず、そう遠くない季節訪れるであろう桃色の大輪の気配を既に感じさせ、観る者にそわそわと焦れるような気を起こさせる。
 仮にも文学を志す者だとは信じられないほど、寺田はそんな風情に目もくれず、急ぎ足で池の畔を通り過ぎた。相変わらず猪突猛進な奴だ。降谷が降参して「分かったからそんなに急ぐな」と声を掛けた時だった。寺田は あ、と声を漏らしてふと歩みを更に早めた。寺田が駆け寄った先、此方を振り返った人物を見て、降谷の歩は反して更に遅くなる。
「原嶋さん、お帰りで?」
「ああ、寺田、お前もか?」
「いやあ、ちょいと弁天様を拝みに」
 此処で言う弁天とは、先程の風情ある蓮の花達を有する弁財天では勿論ない事は降谷にも分かった。原嶋と呼ばれた男は、ふぅんと無表情に相槌を打って、それから寺田の後ろに居る降谷に眼鏡の奥の視線を滑らせた。
 ──背筋が凍る。
 この原嶋と言う男が降谷はどうしてか苦手だった。理学部に籍を置き、降谷や寺田より二歳ばかし上の年齢。すっと通った鼻筋と切れ長の奥二重が理知的な男だが、どうも、蛇を思わせるその舐めるような視線に、降谷は常から居心地の悪さを覚えずにはいられなかった。
「降谷も行くのか?」
 抑揚も無く問い掛けられ、答えあぐねていると、寺田が呑気に「そうなんですよ!こいつに本当のお座敷遊びってもんを教えてやろうと思って」と話し始めた。寺田のその発言に、ニタリと、原嶋は笑って返す。
「そうなのか。降谷が女に興味があるとは、実に意外だよ」
 言葉の裏を感じて、降谷は眉を顰めた。何が言いたいんだ、この男は。そんな彼の心中も他所に、寺田は原嶋も一緒に行かないかと廓に誘い始めた。快い面持ちで、原嶋は言う。
「是非ご相伴に与りたいな。そうだ、指ヶ谷に良いお玉が居ると聞いた事があるよ」
「おお、『にごりえ』ですか。ならこの目で確かめないと」
 寺田は嬉々として言った。降谷はと言うと、料理だけ馳走になって早々に帰ろうかと、ひっそりと嘆息したのだった。

 指ヶ谷町に着くと、三人は小待合の座敷で、近くの料亭から取り寄せたのであろう料理をつつきながら、遊女達と戯れた。確かに、私娼街の一廓にしては器量の良い女ばかりだ。降谷が筒型の猪口を口に運んでいると、遅れてやって来た目を見張るようなさっぱりした女が、柔らかに尋ねた。
「お酒はあまり馴染みがありませんこと?」
「え?ああ……見破られてしまいましたか。お恥ずかしながら、こういった物はどうも不得手でして」
「ふふ」
 女郎は座敷を出て行ったと思うと、一寸して徳利を手に戻って来た。畏まった態度で降谷の傍に腰を下ろし、徳利を傾ける。どうぞ、召し上がって下さいまし。降谷が猪口に口を付けると、それは明らかに彼にとって、光明の、水だった。
「秘蔵の酒の味は格別でございましょう?」
「ええ……良い店ですね」
 機転の利く女に敬服し、降谷は笑った。女郎もにこりと笑い返して来た、丁度その時。彼女の色彩鮮やかな着物を締める、金糸が控え目で美しい帯の、些か年季の入った帯締めが目に映った。細かい細工が施されているのは恐らく金で、その細工の方々に、一段見事な輝きを放つのは、紛れもない、緑を帯びた黒の真珠だった。
「随分と立派な帯締めをなさっている。まるで平安の古い物語に出てくる蓬莱の玉のだ……それを貴女に贈った者は余程貴女を好きらしいとお見受けしますよ」
 素直に降谷が褒め称えると、女は気恥ずかしそうに、頬を赤らめ言った。
「そんな。わたくしめがこんな立派な品、似合いになる筈ありません。でも、ふふ、嬉しゅうございます。妾の宝物なのでありますよ」
 まだ幼さの残る白い手で口元を隠し、女は品良く笑った。丁度そこで、他の女郎と戯れていた寺田が、降谷と女の傍にやって来て、「愉快愉快。どんな話題に花を咲かせてるんですか」と様子を窺って来た。
「彼女の帯飾りが凝った意匠だって話だよ」
「ああ、本当だ。そうそう、こいつ、書生している屋敷の主人が、銀座界隈でも有名な真珠商人なんですよ。赤井って実業家、ご存知じゃありません?」
「まあ、赤井様?勿論存じ上げておりますことよ。赤坂から来た下女が、それはもう紳士な方だと」
 降谷は女のその言葉に目を丸くした。赤坂のその界隈と言えば、政界財界の要人達が贔屓になるような街だ。そういった街に赤井が出入りしているとは、降谷も聞き及んだ事がなかった。
 するとふと、女はうっとりとした色をその黒真珠のような瞳に落とし、空想でも語るかのように話し始めた。
「なんでも吉原始め、赤坂や新橋と言った公娼街では、大門の外に出る事になったら、赤井様が真珠を選んで下さるそうでございますよ。お身請け先は爵位のあるお家が少なくないと聞いております故、真珠は淑女のすてーたす?と言うんでございましょう?ああ、なんて素敵な話でございましょう。わたくし共のような政府の公認を受けていない遊女には到底、夢物語でございますけれど」
「へぇ……」
 降谷は女の話を聴いて、素直に嬉しかった。赤井は時折、内緒話を零すように言うのだが、全ての女性の首元を真珠で占める事を、生涯の任として己に課していた。遊女も皆、赤井の選ぶ真珠に憧れるのだ。夢を語る女は、珠のように無垢なその頬を上気させ、健全な美しさを降谷に感じさせた。
 赤井がこの仕事を好きな理由が、何となく、分かった気がした。
「銀座四丁目の赤井殿と言えば、英国帰りの伊達男で有名な人物だ。降谷がそんな処に厄介になっているだなんて、知らなかったな」
 そう発したのは、一連の会話を遠巻きに見ていた原嶋だった。
 原嶋はその柳のように流れる瞼の縁を細め、口元に笑みを浮かべていた。
「……何を仰りたいんです」
 降谷がそう訊くと、原嶋はその得体の知れない笑顔のまま、「噂話をしたまでさ」と淡々と答えた。

 食事を終えると、寺田と先程の女郎は、連れ立って部屋に控えて行った。「裏を返して下さいまし」と言う女達に降谷は約束をして、腰を上げる。性急に座敷を後にしてしまうと、通りに出た処で、後ろから声を掛けられた。溜め息を吐いて振り返る。案の定原嶋が、その厭な笑顔で降谷の元に歩いて来た。
「原嶋さん、お泊まりにはなられないんですか」
「寺田を立てて付いて来たまでだよ。生憎女を抱く気分じゃなくてね。屋敷は何処?」
「……西ヶ原ですが」
「そうか。では駅まで歩こう」
 木造家屋の間を縫って降谷は渋々原嶋の傍らを歩いた。板葺の屋根と、植え込みの松や枝垂桜の木。明かりを灯す料亭や置屋に見られる屋号の透かし彫りが古めかしく、場末感漂う町の雰囲気は降谷も気に入ったが、それでも原嶋への警戒心は募るばかりだった。
 丸山新町を過ぎた処で、原嶋はふと、「随分警戒されてるな」と立ち止まって言った。
「男同士で何をそんなに警戒する必要がある?」
 男同士だからだ。心中呟いて降谷は、笑う原嶋を追い越した。すると突然、腕を掴まれて、力付くのままに引っ張られた。原嶋の細長い瞳が、降谷の眼前に来る。ふっと唇に息を吹き掛けられて、降谷は眉間に深い皺を寄せた。
「赤井殿は君を満足させてくれるのかな?」
 かっと降谷は顔を紅潮させて、掴まれた腕を振り払った。気分が悪い。原嶋を睨み付けると、彼はその視線には気にも留めずに、また口を開いた。
「君のその瞳、こんな月夜では全くの透明に見えて、怖いくらい美しいよ。その瞳に魅せられた男がどれくらい居るのか、想像に難くない」
「……男相手に言う台詞とも思えませんね」
 ははは、と原嶋は声を出して笑った。降谷は黙って、その場を去った。
 逢来町の駅で電車に飛び乗って、帰路に着いても、降谷は腹の虫が治らない気持ちだった。原嶋の、蛇のような眼差しを思い出す。あの狡猾で、驕り高ぶった態度には吐き気がした。
 はあ、と息を吐いて、頭を抱える。原嶋は、降谷に男色の気がある事をどうも見抜いている節だった。
 気を付けなければ……。
 降谷は服の上から、首に提げた、小さな巾着を握り締めた。御守りに祈るように、眼を閉じる。
 万が一にでも赤井に、降谷の胸の内のそんな事・・・・を、知られる訳にはいかないのだ。

***

 額に仄かに汗を流しながら、降谷は屋敷一階にある客間の、窓の拭き掃除をしていた。集合電燈シャンデリアの明かりを落とし、白い透かし模様のカーテンを全て開けて太陽の光を室内に招き入れる。
 整形式庭園では、まるで待たせた詫びを入れるように、春薔薇達が花弁を精一杯広げて、その芳香を惜しみ無く放っていた。春の訪れを喜ぶ蝶のように麗しい婦人達が、赤井の実業家仲間達と畏まった挨拶を交わしている。華々しい社交界。毎日目の当たりにしている筈なのに、降谷は未だに、そんな彼等を洋装の文明人──事実、この屋敷に集まる婦人等の大半は、洋装推進家として活動している──と、改まった表現で眺めていた。
 赤井は相変わらず忙しそうにしていた。降谷にはよく分からなかったが、最近ロンドンやパリで、日本の養殖真珠は偽物だとする排斥運動が起こっているらしかった。既に天然真珠でも成功している、ハットン・ガーデンやヴァンドーム広場に軒を連ねるような大手宝石商ビッグジュエラー──降谷にとっては聞いた事もない横文字だ──も批判的な意見らしい。その関係で、赤井は昼夜問わず、真珠組合の一員として対応に追われている毎日だった。
 今日も例に漏れず、赤井は朝から、電話で仕事の話をしていた。洩れ聞こえる流暢な英語に耳をそばだてて、降谷は脳内で内容を理解する。客間の奥の書斎で、赤井は交換手に結びの挨拶をすると受話器を置いた。
「パリに行かれるんですか」
 降谷の問いに扉を振り返った赤井は、ああ、と少しくたびれた様子で頷いた。
「代理人との話も行き違いばかりで埒が明かん。来週から二月か……長ければ三月、家を空ける事になりそうだ」
「そうですか……」
 赤井は煙草入れから一本取り出して口に咥えた。一回、二回と擦って炎を灯さなかった燐寸に舌打ちをして、三度目で漸く煙を肺に送った。赤井がこんなに苛立たし気な態度を露わにしている事は稀だった。平素よりフェミニストらしく振る舞う姿からは想像も付かない態度に、降谷はそっと書斎を後にした。学生でしかない自分に宥められても、赤井にとっては机上の空論にしかなり得ないだろうと思ったのだ。

 窓の外は先程より一転して、暗い雲が空を覆っていた。一雨来そうだ。降谷は屋敷にあるだけの傘を掴んで、庭に出た。薔薇に見惚れる婦人達、池の周りを物見遊山する老人、飛び石を跳ねる子供達。彼等にその傘を渡して歩く。そうこうする内に身が軽くなった降谷は、頬にぽつりと感じた水滴に空を見上げ、そして駆け足で藁で覆われた屋根の庭門へ向かった。池の脇にひっそりと建つ門の下で、降谷は本格的に降り出した雨に息を洩らす。
 暫くは止みそうにない空だった。ばたばたと、藁に落ちる雨が降谷の頭上で忙しない旋律メロディーを奏でる。冷たいその粒は、燈籠の御影石をしとどに濡らし、すっかり雪吊りの外れた松の枝から幾重にも垂れ落ちた。池の水面を打つ雨の滴が、静かに、波紋を次々と広げていく。
 まるで室町の頃の心敬や宗砌の詠んだ情景そのものだ。佐保姫の、霞の袖に髪すぢを。そう口から零した処で、重なるように、後ろから声が聞こえてきた。
「みだすばかりの春雨の空」
「あ……」
 振り返ると、骨組みの洋傘を差した赤井が、庭門の前、降谷のすぐ後ろに立っていた。そんなに大きい独り言だったろうか。決まり悪くなった降谷はすっと目を逸らしたが、赤井は、口元に笑みを浮かべたまま傘を閉じて、降谷と同じように門の中に入った。その行動に目を瞬かせて、降谷は思わず尋ねていた。
「当分、止みそうにないですよ」
 そうだな、と赤井は言った。そのまま空を見上げる姿を、降谷は隣で見て、そして再び視線を外した。心臓が騒つく。赤井のいつもの香水の香りが、一層近くに感じられた。
 ──噎せ返る。
 雨の匂いと、赤井の香水と煙草の香りと、溢れ返りそうなこの感情。ごちゃ混ぜになって、胸が痛い。
 不意に降谷の目元に、温かい、人肌が触れた。びくりと肩を驚かせて、降谷は赤井を見る。目が合うのは必然だったが、こういう風に赤井と目を合わせて、平静を保って居られるくらいの駆け引きの術を、青年になったばかりの降谷はまだ持ち合わせていなかった。
 緑柱玉の瞳が、瞬きをする。
「……睫毛に雨が」
 湿った空気を震わせて、その声は降谷の耳に届いた。息が詰まる前に、降谷は俯いて、視界から赤井を外す。
 温かくなったと言っても移ろい易い季節、冷たい滴は容赦無く降谷の身体を凍えさせた。先刻少し雨に打たれてしまったせいもある。
 着物の水滴をはたいていると、それは突然、ふわりと降谷の身体を覆った。
 驚きで声も出ない。確かな温もりが肩に回った。
 赤井の腕に、肩を抱かれている。
「あか、」
 そう途切れ途切れに口にした瞬間。今まで気の付かなかった、赤井の、赤井自身の匂いが充満した気がして、降谷はそれきり物が言えなくなった。フゼアの苔の香りでも、煙草の葉が燃える匂いでもない、赤井の匂い。ぎゅっと肩に置かれた手に力が込められた。
 降谷の髪に、赤井が漫ろと言った様子で顔を寄せてくる。
 松風水月。赤井は小さく言った。降谷はまだ、口を開く事はできなかった。
「まるで君の為にある言葉だ……」
 絶え間の無い雨が、延々と松の枝を濡らし、砂利道を跳ね、池の水面を揺らす。
 雨雲が去った頃、漸く赤井は、降谷の身体を解放した。
 初めて触れた赤井の温もりは、想像よりも遥かに甘く、そして、遥かに残酷だった。


 自室の蒲団の上で、降谷は息を乱しながら手の内を白く染めた。絹の枕に額を埋めて、細く息を吐き出しながら涙を零す。
 赤井を想って自分に触るのはもう、何度目になるか分からない。恥じるべきこの淫靡な行為は、しかし同時にとても甘やかで、文字通り降谷の身体を慰めてくれた。
 嗅覚に感じた赤井の匂いを取り戻そうと、うつ伏せになり、後孔に指を掛けるけれど、降谷はどうしても、あの時感じた赤井の匂いを思い出せなかった。涙がまた零れる。──足りない。もっと近くで感じてみたい。一思いに後ろから滅茶苦茶に犯して欲しいとまで思う。
 小さく啼いて、また果てた。虚ろに思い出す。そういえば以前、原嶋に、赤井とのありもしない肉体関係を揶揄された事があった。不躾だ、と眉を顰めた。赤井を侮辱された気になり、全くもって不快になった。
 しかし、と降谷は思い至る。降谷のこの不義ではないと言い切れない行為は、原嶋のあの言葉と、なんら変わりはないのではないかと。恩を仇で返しているのと、近しい行為ではないかと。──死んだ母親を、裏切っているのではないかと。
 降谷は汚れていない方の手で、首に提げたままの巾着を、握り締めた。それはすっかり、降谷の手に馴染んでいた。
 松風水月。笑わせてくれる。
 赤井は何も分かっていなかった。清らかで美しい言葉を並び立てて、降谷の胸の内を揺さぶるだけ揺さぶって、そして自分がそうしている事に気付いてすらいなかった。
 赤井の中の降谷という男は、どうやらとても、清廉潔白な人物らしい。清らかさなど、とうの昔に捨てたのに。その赤井の思慮の足りない思い違いが、降谷の心を締め付けて、悲鳴を挙げさせた。
 欲に塗れたこの身体が、清い訳がない。
 それでも赤井の目に自分は清廉潔白に映っていると知って、降谷は少なからず胸が震える気持ちだった。悲嘆する一方で、確かに、歓喜した心持ちになった。何も分かっていないと憤る反面で、舞い上がるような感情を覚える。二律背反アンチノミー。大学の講義なんて塵程も役に立たないのだと、痛い程思い知らされる。
 蓋をしなければ。
 赤井の中の『降谷零』という男は、永久に、清く、美しくなくてはならない。
 間違っても赤井に、欲に塗れた穢れた自分を、知られる訳にはいかない。──ましてや、「好きだ」などと、告げられよう筈もなかった。

 赤井は予告していた通りパリに発った。裁判が始まると、銀座で噂になっているのを降谷も聞いた。
 三月が経とうとしても、赤井は帰って来なかった。庭の薔薇はもう、役目を終えたように、花弁を閉じていた。

***

 不忍池の蓮の花はすっかり満開を迎えて、夏の空の下ではその桃色の絨毯は鮮やかに映えた。澄んだ風が降谷の全身を撫でるように通り過ぎ、汗の浮かんだ項を心なしか冷ましていった。
 降谷はこの大学に入学した最初の頃を思い出した。母から貰った重い辞典を提げ、哲学の講義で習ったカントや、ニーチェの永劫回帰論を友人と語りながら、この桃色を横目に歩いていたものだった。当時住んでいた麹町の屋敷に帰ると、母はいつも、「赤井様」の処へ出掛けて行くべく、純白の金紗縮緬で美しく着飾っていた。滑らかな首筋に真珠を巻き付けて、紅を引いた姿は、息子から見ても、他のどんな婦人より輝きを放っていた。
 もう直ぐ、母が死んでから、一年が過ぎようとしている。
 水辺にやって来た鵞鳥が、蓮の桃色をくちばしで突く。不意に背後で名前を呼ばれ、聞き飽きたその声に降谷は振り向いた。寺田は、今度は水辺のゲーテか、などと軽口を叩きながら、降谷の隣に並ぶ。
「満開の蓮の花ってのも風情だな。先人達が一句詠みたくなるのも分かる」
「今日は弁天様を拝みには行かないのか」
 降谷が皮肉っぽく訊くと、寺田は珍しい様子で顎に手を当て、考え込んだ。それも一瞬で、いつもの人情味ある笑顔に戻ると、唐突に「花火、観に行かないか」と言ってきた。
「花火?」
「今夜は隅田川で花火が上がるじゃないか」
 そういえばそうだった、という程度にしか覚えがなかった降谷も、河川敷に着くと、少し心を浮き足立たせていた。幼い頃、母親と手を繋いで、この両国橋の麓で、雑踏の中花火を見上げた。
 母は、名門出の令嬢らしく、馬車の乗り入れられない下町の混んだ雑踏にはいつも苦々しい顔をしていたが、それでも、瞳を煌めかせて夜空に咲く大輪を見る息子を、ぎこちなくも穏やかな眼差しで見つめていた。
 人でごった返した両岸の座敷、繁盛する氷屋に、射的で賑わう親子。隅田川を悠々と泳ぐ屋形船。遠くに見物の人力車も見える。酔っ払いの、一発目を待ち侘びるまるでお囃子の叫び声に、降谷が手にしたソーダ瓶を落としそうになった、ちょうどその時。ヒューッと、風を切る音が辺りに響いた。続く破裂音。遅れて、闇の中にパッと、光の花が現れた。
 どっと歓声が上がる。多彩色で艶やかな洋火は次に、パチパチと星を散らすような赤橙色の和火になり、そして、柳のように流れる、金の火線に変わった。
 藍色の空を照らす花火の向こうに、更に明るい、金の真珠のように輝く、月があった。残り火がひらりひらりと舞い、地上を待たずにふつりと消える。
 ──この景色を、赤井と見たかった。もう、三月も会っていない。
 唇を引き結んで、降谷はふと、横に立つ寺田を見た。寺田は、やはり珍しく、神妙な面持ちで、夜空に浮かぶ色火を眺めていた。


「『両国の花火大会は、例年の通り人の山で、玉屋鍵屋と調子を取る叫び声で賑わい、そして、』……馬鹿馬鹿しい」
 ペンを持つ手を止めて、降谷は静かに、空気に溜め息を馴染ませた。
 こうして、遠くフランスにいる赤井に向けて、文をしたためる真似事を、降谷はこの三月、何度となく繰り返した。赤井は日本を発って二月程した頃、葉書を一枚、屋敷の人間宛に送ってきていた。エッフェル塔の描かれた裏に、もう暫くかかると、達筆で、簡素な言葉を書いていた。文字を指でなぞる。去年のクリスマスに──正確には、年が明けてからだったが──降谷が贈った万年筆で、したためてくれたのだろうかと、自分勝手な期待すら生まれた。
 ふっとまたひとつ息を吐いて、降谷は席を立つ。喉が渇いた。裸足で畳を踏んで、部屋を出る為に下駄を履く。この屋敷では欧米風に、和室を除いて、室内では皆靴を履くのだ。
 一階の小台所まで降りて水を汲み、喉に流し込んでいると、夜半近くになって更に高く昇った月が、窓から仄かな白い光を差し込ませた。パリの月も今、白昼の空に密やかに浮かんでいるのだろうか。そう思うと、日本とフランスという、途方も無い距離が、ほんの少しだけ、近付いたように感じられた。
「会いたい……」
 ぽつりと無意識に零れた言葉に、降谷ははっとして唇を噛んだ。気が緩んでいる。いくら、使用人も仕事を終え、この屋敷にはたった今、降谷ひとりしか居ないと言っても。あの、赤井に肩を抱かれた日、蓋をすると決心したのに。
 頭を軽く振って、降谷はもう寝てしまおうと台所を後にした。廊下を過って、洋風に設えられた手摺の階段を登る途中、閑静とした屋敷内に不意に響いた、甲高いベルの鉄の音が、降谷の足を止めた。こんな夜半に、一体誰が、どのような理由でこの屋敷のベルを鳴らすと言うのか。非常識なその来訪者に、降谷は眉を顰めながら、それでも登ったばかりの階段を降り直して、廊下の電燈を灯した。もう一度ベルが鳴る。続けてコンコン、と、扉を叩く音がした。
「夜分にすみません、原嶋と申す者ですが。降谷君はご在宅でしょうか」
 その言葉に、降谷は急激に気を病ませる思いがした。原嶋が、何の用があって、自分を訪ねて来るのか。裏しか読み取れないその行為に降谷は扉を開けるのを躊躇うが、明かりを点けてしまった手前、開けない訳にもいかなかった。
施錠を解くと、扉はゆっくりと、外側に開いた。
「今晩は。やっぱり居たな」
「……何のご用ですか」
「ふっ、相変わらずつれない態度だ。近くで飲んでいてね、酒が余ってしまったんだ。お裾分けをしに。赤井殿はお酒が好きだと聞いたもので」
「赤井さんは今仕事に出ていて、ここには居ませんよ」
「へぇ。ならより好都合だ」
 しまった、と降谷が思ったのも束の間、原嶋は玄関にすっと身体を滑り込ませて、降谷の目の前に立った。居間はこっち?と尋ねてくる原嶋を懐疑の目で凝視する。居間になど通す訳がないだろう。
「お酒なら渡しておきますが」
 暗に帰れと言ったつもりだったが、原嶋は素知らぬ振りで「客間でも構わないよ」と歩き出した。
「勝手に歩かれては困ります」
「なら君が案内してくれるんだな」
 くそ、言質を取られたか。重い足で客間まで案内すると、原嶋は、暖炉や天井の凝った模様に関心を集めたらしく、物珍しそうに見て回った。降谷は入口で、腕を組んだまま立ち竦む。睨むような目付きになっていたのか、「そんなに怖い顔で見ないでくれ」と原嶋は薄ら笑った。
「飲み直したいんだ。降谷、付き合ってくれないか」
 一杯飲んだら帰るよ。そう口角を上げる原嶋を置いて、降谷は台所に向かった。硝子のコップと水差しを盆に載せて、客間に戻ると、原嶋は客間の奥、赤井の書斎に入り、天井まで届く本棚に並んだ本に、魅入るように立っていた。
「勝手に歩かれては困ると言った筈ですが」
 降谷は苛立たしさを隠しもせずに言った。原嶋は気にもしていないように、図々しくもその中の一冊を手に取って、パラパラと捲った。
「海洋学か。随分と専門的な内容だな。赤井殿は、大学は何処の出で?」
「……飲み直すには関係の無い話ではないですか。その部屋から出て下さい」
 痺れを切らして強い口調で、降谷は原嶋を促した。客間の背の低い洋卓テーブルに、手にしていた盆を置いて、原嶋の持参した酒瓶の蓋を開ける。
 赤井の出た学校の事など、降谷は知らなかった。英国に留学していた時期があるのは聞いていたが、それ以外は、父親と同じ職業に就いている、という事くらいしか知らなかった。
どういった母親の元で、何処で生まれて、何処で育って、どういう風に戦争を経験して、いつ結婚したのか。死に別れた奥さんとの間に、子供は居たのか──。降谷は何も、知らなかった。
 子供。そんな事、今まで、考えた事もなかった。
 急に心がざわざわさざめいていくのが分かった。自分は、赤井の事を、何も知らないではないか。思い掛けない事実に落胆するも、それでいいのだと首を振る自分も居る。「知りたい」は欲求の末の衝動だ。これ以上、赤井の事で苦しい思いをするのは、もう耐えられなかった。
 酒瓶を盃に傾けていると、降谷の身体の両脇に、すっと手が伸びてきた。びくりと肩を揺らす。我に返ったのは、原嶋が後ろから降谷の耳元で、ぼそりと呟いた後だった。
「湯上がりの匂いがするな」
 着物の、帯の隙間から腰を撫でられる。ぞくぞくと、背筋に悪寒が走った。
 まずい。
 そう思った時にはもう、原嶋の腕は降谷の腰に絡み付き、降谷は身動きすら許されぬ状態になっていた。
「何を……っ…」
 べろ、と耳の穴を舐められて、抗議の言葉が途切れる。悪寒が止まらない。抵抗の為振り上げた右手が、いとも簡単に原嶋の手に掴まった。
 そうだ、こいつ。確か武道を……。
 降谷の呆気なさを揶揄するかのように、原嶋はくすりと笑って、今度は襟足に隠れた肌を舐め上げてきた。ねっとりと、しつこいくらいのその攻めに、崩れた体勢が洋卓をガタガタ揺らした。水差しが倒れる。零れた水が絨毯に染みを作る様を見て、原嶋は呆れたように言った。
「降谷、お行儀良くしてくれ。こんなの、慣れっこだろう?」
「誰が……っ!やめろ、離せ!」
「仕方がないな」
「っ……!」
 ふっと息を吐いた原嶋は、羽交い締めにした降谷を来客用のソファーに仰向けに押し付けた。蹴り上げられた足を、組手でも取るように押さえ、あろう事か、片手を降谷の股間まで持ってきた。薄い布の上から、ぎゅっと握り込まれる。容赦の無い力で、降谷は痛みから顔を歪めて声を挙げた。
「やめろ、汚い手で触るな!」
「汚い?随分な言い様だな。君だって同じようなものだろう」
 その言葉に降谷は一寸口を噤んだ。その隙を見逃さず、原嶋は降谷の上半身に覆い被さり、着物の合わせを広げて浅黒い肌を曝け出してくる。そこでちょうど気が付いたのか、原嶋は降谷の首から提げられている、小さな巾着袋を手に取った。
「!おい、返せっ……!」
 手を伸ばしてきた降谷から届かぬよう、原嶋はその巾着の中身を確認して、そして、てんで面白くなさそうに、無表情で吐き捨てた。
「成る程。とんだ、大層な情だ。涙ぐましいね……引き裂きたくなるよ」
 興味が失せたように、原嶋は手にした巾着を放り投げる。
 あ、と声を出すよりも先に、気紛れのように乳首を舐められ、降谷は嫌悪感から強く目を閉じた。ざわざわと、気味の悪い濡れた感触が肌に広がる。
「この奇麗な身体を使って、男達を誘ってるんだろう?去年大学で君を初めて見た時、すぐに分かったよ。こっち側の人間だって……ああ、ほら、濡れてきた」
「な……っ、そんな訳、」
 一層強い力で急所を擦り上げられ、否が応でも反応させられる。明らかに、今まで降谷を抱いてきた男達とは違う。こんな、他人を見下すような男に触られて、気持ちの良い、筈がないのに。
 熱を持ち掛けたその先端をぐりぐりと弄られると、広がり始めた腰の痺れに驚愕して、降谷は更に抵抗した。絶対に、この男の前では間抜けに絶頂に達してたまるものか。けれど、抵抗の際に肌蹴た着物の合間から、直に急所を掴まれて、降谷は喉から溜飲が込み上げる思いがした。すっとそのまま、傲慢な指が降谷の尻にまで下がる。焦って、もがけばもがく程、目の前の男の良いようになっている気がした。
「赤井殿は、君にどんな言葉を掛けてここで番うんだ?」
 頭の中で、何かが切れたような音がした。
 ソファーの下に投げ出された手が、固く、冷たい物に触れた。──中身の零れた、酒瓶だった。無我夢中でその冷たい凶器を手にする。
 ぐ、と。原嶋の指が、降谷の中に埋まり掛けた、その時だった。

 コンコン、と、客間の扉が叩かれた。

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -