コペンハーゲンの人魚が泣いた
   クレオパトラはそれ呑んで
   コロンブス、宝石箱を壊してった



「この世で最も尊い鉱物は何だ?」
「……吃驚させないで下さい。背後から盗み見ですか」
 英国から船で運んで来たという長椅子──ソファー、というらしい──に腰掛けた彼は、ほんの少し溜め息を零して、顔だけ後ろを振り返った。半月ほど前だったか、パリで発表されたばかりだという香りを纏ったその男は、薄灰の背広を脱ぎ、ソファーに手を付いて彼を見下ろした。
 緑柱玉を彷彿とさせる瞳。
 先日、不忍池で開催されていた博覧会で目にした貴石の輝きを、彼は思い出す。
「金剛石……ダイヤモンド、ですよね。ちょうどコレを読んでいたから?」
「ああ、『金色夜叉』じゃないか。懐かしいな」
「叔父が新聞社で働いていて、くれたんです。さすがに古惚けているけれど」
 黄ばんだ紙面を眼で追って、彼──降谷はそう言った。『天上の最も明なる星は我手に在りと言はまほしげに 、紳士は彼等の未だ曾て見ざりし大さの金剛石を飾れる黄金の指環を穿めたるなり 。』見せ付けるような華美な文章を降谷は朗読しながらも、意識をその男に持って行かれないよう努めた。香りが鼻につく。男はふっと唇だけで笑ってから、では、とまた彼に問うてくる。
「この世で最も儚い月のしずくは?」
「そんな言葉初めて聞きましたけど。でもきっと、『この幾歳か念懸くれども未だ容易に許されざる』、真珠でしょう?」
「ご名答。魚の目玉とは聞き捨てならないがな」
 今度は嘲るような笑いを落として、男は降谷の座るソファーから離れた。
「……香水、変えましたか?」
 男は懐中時計──清との戦争が始まった年に銀座に建った時計塔の持ち主から贈られたという──をクロスで磨きながら、降谷の質問に、ああ、と世間話のついでのように答えた。
「ココ・シャネルとかいうパリ女の作った香水らしい」
「よくご存知で」
「君のような年若い男にはまだ少し早い話題だったかな?」
 降谷は心中悪態を吐いて新聞を畳んだ。光沢の増した木綿の袴を、手ではたいてから立ち上がる。下駄の底がカツン、と床板を鳴らした。
「失礼します」
 軽く頭を下げると、金よりの茶の前髪が垂れた。元の姿勢に戻る。書き物机に浅く腰掛けた男は、姿勢正しい降谷を見て、懐中時計を背広と揃いのベストの胸元に収めた。
 ご苦労。男は降谷に言った。
 その緑柱玉の瞳は、毎度、降谷を男の前に居づらくさせた。

 男の姓は赤井と言った。歳は降谷の一回りより上だった。
 赤井の仕事は平たく言うと、宝石商──特に、専門は真珠のようだった。このご時世、磨かれたダイヤモンドと同じくらい、もしくはそれよりも秀でるくらい、真珠は日本の誇る、生ける産物だ。そう遠くない昔、日本は真珠の養殖に成功した。赤井の父親はその研究機関の一員だったそうだ。赤井は生まれたその瞬間から、真珠の雅びやかな輝きに触れてきた。特に照りのいい真珠はそれはもう女性の白い肌のごとく艶めいて、仄かに放つ桃色の光彩は処女が頬を染め上げるかのごとく清淑としていた。
 「女と同じさ」そう赤井はよく言った。事実、シベリアでは主に歩兵銃を扱っていたというその無骨な指は、そうだったとは信じられないくらい、愛おしげな手つきで真珠に触れた。幾年か前のこと、神戸の養殖場の人間がここ東都に外国の商人を連れてやって来たとき、降谷は初めて、赤井の仕事振りを見た。巧みに外国語を操り、慈しむような仕草で、いかに真珠の美しさを、魅力を、その商人に感じさせていたことか。
 魔術のようなその能弁さもさることながら、赤井は、人目を引く見目かたちをしていた。他のどの男よりも背が高かったし、他のどの男よりも瀟洒で、欧米の言葉で言うと、ハンサムだった。新政府体制になってから取り入れられたという洋装の三揃えスリーピースは、赤井という男の格をより高める効果があるように思えた。


 色男め……。
 ここは俗に言う「サロン」かと疑いたくなる光景は最早見慣れたものだった。銀座で買い求めたであろう絹に繻子をふんだんに重ねた洋服に、耳を隠した流行りのマルセル・ウェーブ。まさに山の手といった婦人たちが赤井を取り囲み、品定めをするのは真珠か男自身か。降谷は嘆息して手にしていた盆を広い洋卓テーブルに乗せた。「降谷君、ご苦労だったな」そう声を掛けられる。今度は婦人たちが一斉に降谷を囲んだ。
「まあ、素晴らしいこと。なんて照りのいい」
「こちらの白金プラチナの指輪見てご覧なさいよ、大珠ね」
「あら、金の真珠!こんなの見たことがないわ」
 降谷が持って来た真珠のあれこれに、婦人たちは雨後の筍のように歓声を挙げた。その様はさながら昨晩読んだ『金色夜叉』の、金剛石に驚き惑う群衆のそれで、降谷は内心可笑しくて堪らなくなった。「さぞお高いんでしょうねぇ」誰かのそんな言葉に、赤井は商売人らしく笑顔を見せて「三百円でお釣りが来ます」そう答えた。婦人たちにしてみればそれは破格の値段だったらしく、我先にという剣幕で指輪首輪を引っ掴んだ。
 全く、喧しい光景だった。赤井は銀座四丁目の通り沿いにも店を構えている。にもかかわらず婦人たちがこの邸宅にまで押し掛けて来るのを、降谷は一歩下がった目で眺めていた。
 どの婦人も先の大戦で夫を失った未亡人だった。その寂しさを埋めるためなのかなんなのか定かではないが、婦人たちはこぞって赤井から真珠を買って、赤井のその緑柱玉の目を引きたいように見えた。あわよくば。そんな思惑が見て取れる度、降谷は「大人」の世界には足を踏み入れる気になれなかった。
 ひとりの婦人が淑やかに赤井に近付き、そっと耳打ちをする。他の婦人たちに見せ付けるように、赤井の駱駝色のベストの胸元に触れた。
降谷は目を逸らした。シャネルとかいうよくわからない匂いが充満する部屋を抜け、まだ履き慣れない革靴を鳴らして屋敷の外に出る。

 斜面と低地という土地柄を利用して造られたこの景観は、池之端に建つ、煉瓦造の豪奢な西洋風の屋敷と同じ、英国出身の建築博士の作だった。北側の丘陵に住居である茅葺き屋根の洋館があり、すぐ南の斜面には西洋庭園が設えられている。左右対称かつ幾何学的に配された小路はフランス式だというその設計に、まるで立体迷路のように造られた腰丈まである垣根はイタリーの庭園を模したもの。春と秋に二百近い薔薇を咲かせる壮観な様は、世間に「真珠御殿の薔薇園」とも称されていた。
 更に南に下った低地には、心字池を中心とした日本庭園があった。入り口の植込は主に椎を誂え、その奥、ちょうど今の季節は松の枝に積雪対策の雪吊りが張られ、低木の蘇鉄には藁が巻かれている。
 冬支度の最終確認をする庭師に会釈をして、降谷は庭に降りる。このふたつの庭には、四季を感じられるこういった趣があった。
 まだこの屋敷に世話になる前──とは言ってもふた月も経っていないのでもっと以前──降谷はこうしてこの庭園に来てはよく逍遥し、春は薔薇の香りを楽しんだり、冬は写生に興じたり、それ以外はベンチに腰掛けゲーテを原文で読んだりした。降谷がまだ高等学校に通っていた時分のことなのでそれほど昔という訳でもないのだが、まだ彼の母親が生きていた頃の話のためひどく懐かしい気持ちになるのだった。
 降谷の母親は女手一つで彼を育てた。とは言っても裕福な家の出の女だったので、男児ひとり育てることなど金にものを言わせてそこそこにやって来た。加えて、彼の母親は美しかった。彼女を取り囲む男共は皆、彼女を仙姿玉質の美女と称えて──時に密かに『真珠夫人瑠璃子』と呼び──援助を惜しまなかったため、生活は潤沢で、不自由なことなど何ひとつなかった。
 そんな母親が傾倒した最後の男こそ、この屋敷の現在の主である、赤井だった。元々この屋敷は、赤井の亡くなった妻の実家の持ち物で、赤井が独立する際に大金をはたいて買い取ったのだ。
 当時からこの屋敷では上流階級の婦人たちが集い、赤井の披露する真珠を競うように買い求めた。その内のひとりが、降谷の母親だった。四丁目の貴婦人の名を欲しいままにしていた彼女は、銀座界隈に颯爽と現れた、よりにもよって年下の寵児に入れ込み、駿河町の一等地に建つ百貨店の跡取り息子の求婚をも撥ね付けたらしい。
 ご覧の通り彼女は赤井との結婚は果たせなかった。けれども彼女は結核で息絶える間際まで、幸せそうだった。世が世なら殿の側室のひとりくらいの立場だっただろうが、そんな母親に降谷は呆れ返っていた。
 愛されない女の末路。
 別に赤井を恨んでもいない。今はこうして下宿をし、大学へ通わせて貰っているのだから尚のこと。母の実家にはほとほと愛想が尽きていた降谷にとって、赤井からの資金援助は願ってもいないものだった。
 ゲーテや、たまに『舞姫』を読み耽ったベンチに腰を落とし、降谷は雪の降る予感をさせる空を見上げた。金よりの茶の伸びた前髪が最近少し鬱陶しい。自分で切ろうかどうか考えながら、吹いた北風に肩を強張らせる。やはり外套が必要だったか。指先が凍えるのを、白い息を吹き掛けて情け程度に温める。
 真新しい真珠の首飾りを着けた婦人たちが屋敷から出て来る。ひとり足らない。──今日はあの貴婦人か。降谷は立ち上がった。
 クレオパトラは酢に真珠を溶かして呑むことで、美しさを磨いていたという逸話がある。勿論のこと真珠は酸には弱いが溶けはしない。
 だが、この屋敷を訪れる婦人たちが皆溌剌とした生命力に溢れているのは、赤井というとびきりの宝石を、その身で感じているからなのだろうか。

***

「お、っと……」
 書棚の整理に勤しんでいた降谷が小さな衝撃音に振り向くと、赤井は屈んだ机の下から身体を起こしなにやら苦い顔をしていた。「どうされました」尋ねると、赤井は右手に持った万年筆を降谷に見えるように掲げ、数度振ってみせた。
「寿命だったかな」
「あ……ペン先が、」
 机に近付いて見てみると、堀細工の施された金のペン先が、在らぬ方向にすっかりひしゃげてしまっていた。落とした弾みで壊れてしまったらしい。赤井は顎に手を当てて、どこか残念そうに溜め息を吐いた。
「真珠と違って耐酸性のある金も、衝撃には敵わないな」
「高価そうな万年筆ですけど。いつも大切に使われてましたね」
「イギリス留学していた時の恩師に頂いた物でね。まあ、その当時からかなり年季が入ってはいたが」
 書き心地には劣るが予備を使うかな。赤井は呟いて、楢の木でできた机の引き出しを開けた。予備だという万年筆で再び書類に取り掛かる赤井を、降谷は立ったまま見下ろした。
 伏し目に懸かる黒々とした睫毛。しっかりと張った頬骨と、白樺のようにすっきりと通った鼻筋。弁が立つ薄い唇は、今は緩やかに引き結ばれている。
 講義で見たフィレンツェにある彫像のようだ。
 無意識のうちに見つめていた赤井の顔が、不意に降谷を見上げてきた。びくりと心臓が跳ね上がる。緑柱玉の瞳が見透かすように、降谷を射抜いてくる。
「どうかしたか?」
「……いえ、」
 不思議そうに片眉を上げる赤井から顔を背けて、降谷は傍らに置いた書籍の束を手に作業に戻った。心臓がまだどくどく言っている。
 くそ、と自分自身に罵りを掛ける。降谷が不自然に振る舞えば、当然赤井に訝しがられる。それだけは避けねばならない。絶対に、勘付かれては……
「降谷君」
 また降谷は心臓を跳ねさせた。赤井の低音の声はいちいち心臓に悪いのだ。なんですか、と本を棚に戻しながら努めて冷静に返すと、赤井は間を置いた後、静かに尋ねてきた。
「……年越しは家に帰るのか?」
「え?」
 思ってもいなかった質問に降谷は呆気に取られたように眼を丸くした。唐突になんだろうか。家、とは恐らく降谷の母親の実家のことだと思われるが、降谷がその家ともうほとんど縁切り状態にあることは赤井も知っている筈だ。
「いえ、その予定はありませんが……」
 迷惑でなければ正月だって居させて欲しい。遠慮がちにそう述べると、赤井は言葉が足りなかった、と珍しい様子で弁明するように話した。
「志津さんが腰を悪くしただろう。人手が入用ではないかと思ってね。私は週明けすぐに英虞の養殖場に行って暫く留守にするから、正月は休めと言ったんだが」
 志津とは、赤井が雇った、この屋敷の家事を任せている所謂使用人のひとりである。初老ながら元気の良い婦人だが、持病の腰痛症を更に悪くしたようで、降谷も気に掛かってはいたのだ。
「勿論、お手伝いさせて頂きます。志津さんにはお正月しっかり休まれるよう僕からも言っておきますよ」
 内心ほっとしながら降谷は答えた。母親が死んだあの時から、もう彼にこの家以外、帰る場所などないのだ。
 赤井は助かるよ、と一言落として、また机に向かった。

 銀座の街はすっかりクリスマスに浮かれ上がっていた。通り沿いの店はどこも西洋風に電飾を点灯させ、クリスマスにかこつけた歳末売り出しを謳い、真っ赤な服を着たサンタクロースが店頭で配られるチラシに並んだ。降谷が生まれるずっと以前から、既にクリスマスという年末にやって来る行事は人々の生活の中に溶け込んでおり、それは降谷の母親も例に漏れなかった。
 そういえば、と思い出す。子育てに不器用な母親ながら、毎年誕生日とクリスマスには何か品を買い与えられた記憶が確かにある。まだ珍しかったチョコレートや、習字の道具、外国から輸入されたという胡桃割り人形。大学に合格した時に贈られたのは、最新の独和辞典だった。
 降谷は白い息を吐きながらすっかり柳から銀杏に植え替えられた通り沿いを歩いた。降谷が幼かった頃はまだガス灯が建ち、ロンドン風に煉瓦で出来た家屋や店が多かったが、今では人々の住み良いように和風に改装された所が多い。松屋通りと交差する角にある書店の回転扉を潜り、『暗夜行路』が掲載された雑誌と、講義の参考になりそうなキリスト教関係の本を数冊購入した。
 待ち合わせに指定された場所は降谷が予てより訪れたいと言っていた日吉町のカフェーだった。文学サロンとも名高いこの場所で、様々な作家たちが交流を育んでいたと思うと少々緊張を覚えて、珈琲カップを持つ手も忙しない。約束の時間を少し過ぎてから、待ち人は愛想良く降谷の座る席にやって来た。
「ごめんな、零。ちょっと新人がやらかして」
「大丈夫ですよ、叔父さん。僕も来たばかりなので」
「それにしては珈琲の嵩が減ってるな」
 降谷は苦笑いを叔父に向けた。
 新聞社に勤めている叔父は、降谷の母親の弟だ。母方の実家とは彼はもうほとんど関わりを絶っているが、この叔父とはたまに会って近況を話し合う関係だった。今日も、叔父の仕事について──先日締結されたばかりの四カ国条約の話題が主だった──や、降谷の大学生活についてなど、話の種は尽きなかった。
 現在講義を受けている、一六世紀の宗教改革の興りについて話を終えたところで、降谷はふと叔父に尋ねた。
「そういえば、もうすぐでしたよね。ご出産」
 その話題に、叔父の人好きのする瞳はすぐに目尻を下げて、どこか照れ臭そうに話し始めた。
「ああ、そうなんだ。年明けすぐの予定日で。ああ、なんだかここ数日は特に落ち着かないよ。俺よりも、家内の方が大変だってのにな」
「はは、赤ちゃんを抱っこする叔父さんの慌てふためく姿、目に見えますよ」
「そうだな……いや、想像しないでくれ」
 そこで言葉を切った叔父は、「なあ、零」と打って変わって慎重な声色で言った。
「本当に、俺たちと暮らす気にはならないか?」
 その質問に、降谷は黙り込んで、空の珈琲カップを見つめた。暫くそうしてから、漸く顔を上げて叔父を見やる。心配げな表情。こうして自分を案じてくれる人が居ることに、降谷は少し、気恥かしくなった。
「叔父さんの家、横浜じゃないですか。通学には遠いかな」
「……そうか」
 ありがとうございます。礼を言うと、叔父は僅かに不満げではあったが、すぐに話題を、今度は珈琲の銘柄についてに替えた。
 叔父のその再度の申し出は確かに嬉しかった。だが、やはり新婚生活に水を差すような真似は降谷には到底できなかった。叔父のことは好きだし、尊敬している。しかし、降谷が叔父の家に厄介になることで、叔父とその家族に負担を掛けるようなことはしたくなかった。
 それに、本当は……
「零は居るのか?ガールフレンド」
 唐突の思い掛けない質問に、降谷は へ?と素っ頓狂な声を出してしまい、はたと気が付いて口を噤んだ。少し間を空けて「そういった類の友人はいませんね」と返すも、叔父は目を光らせて「相変わらず堅苦しい言い方をするなお前」と頬杖を付いた。
「お前みたいな好色顔の男、女が放っておかないだろう。今迄にもいないのか?そういう相手」
「僕はこれまでも、これからだって勉学一筋ですよ」
「ふぅん……まあ、日本の将来はお前たち若者に掛かっているからな」
 ようく聞いておけよ、と一言置いて、叔父は真面目千万な顔付きで降谷に言った。
「今は勉学に心血を注げ。俺だってそうしてきた。でも、男の本懐は出世して、女房と子供を苦労なく食わせてやることだ。お前だって、将来男の子ができたら同じ帝国大に行かせたいだろう?」
 叔父の気迫に降谷は勿論否定などできずに、そうですねと頷いた。それに気を良くした叔父が更に、社会がどうの女がどうのと説いてくる。

 夕刻近くになってから降谷は叔父と別れた。銀座七丁目から市電に乗り日本橋で降りる。駿河町の象徴、呉服店から端を発した百貨店で、これまた名物のエスカレーターに乗り込み、輸入雑貨を扱う階の文房具売り場に来た。あった、と降谷の手が硝子のケースに伸びる。
 目当ての物を見付けたは良いが、いかんせん種類が多過ぎてどれを選べば良いのやらさっぱりだ。商品を見比べながらうんうん唸る降谷を見兼ねてか、人の良さそうな店員が色々と説明をしてくれた。
 最終的に奮発して六円を支払い店を出る。再び帰路の市電に飛び乗り、はやる心を深呼吸で落ち着かせる。手提げ袋に目をやり、喜んでくれるだろうかと笑みを零した。
 ふと、降谷は前方に立つ父子が目に付いた。丁寧に包装された、恐らくクリスマスプレゼントを手に、小さな男の子が父を見上げて笑っている。父親は、それは大変愛おしそうに、息子の頭を撫でた。
 そんな、全くの他人の些細な場面を目の当たりにしただけで、降谷は心の奥底から、得体の知れない靄が沸き立つのをはっきりと感じ取った。
 これまでに、降谷は叔父に嘘をふたつ吐いた。
 ひとつ目は、一緒に住もうと言われる度に、遠慮する振りをして断ったこと。
 ふたつ目は、ほんの先刻前。結婚して子供を作り、立派な家庭を築く。
 そんな世間一般に幸せだと言えることを、降谷は赤井という男に出逢ってから、夢見たこともなかった。

 屋敷に帰って書斎を覗くと、ちょうどいつものように、けれどひとりだけ、美しい婦人が後ろから赤井に真珠を首に当てられて、恥ずかしそうに頬を染め上げていた。真珠がひとつひとつ、大きさも輝きも、放つ光彩も違うように、赤井は女性がそれぞれ持つ特性を見極め、その美しさを助長させるように彼女たちに一等似合う真珠を選んだ。
 まさに魔術師のような男なのだ。
 不意に婦人が細い踵を鳴らして立ち上がり、これまた高級そうな革の鞄から、手重い包装の箱を取り出した。控え目な態度で、その箱を赤井に差し出す。箱を開けた赤井は、ふっと柔らかく笑みを浮かべて、彼女の陶器然とした手を取り甲に口付けた。
 思わず見惚れてしまった。奇麗だ。そう思った次の瞬間、書斎の中のふたりは降谷の居る扉の方まで歩いて来た。咄嗟に降谷は自分が持っている手提げを後ろ手に隠し、目が合った婦人に折り目正しく「いらっしゃいませ」と挨拶をした。
「まあ、降谷さん。ご機嫌よう。お出掛けでもしてらしたの?」
「はい。只今戻ったところです」
「残念だわ、私ももう行かなくてはいけなくて。あ、そうだわ、ロンドンのお土産のお紅茶、赤井さんと是非召し上がって下さいね」
 膝下まである長さの軽やかな洋服の裾を摘み、婦人はヨーロッパの女性たちがするように片膝を曲げて跪礼Curtseyしてみせた。まるで百合の花の背中を見送っていると、ふと赤井に名前を呼ばれ、降谷は急いで返事をして寸ばかり背の高い赤井を見上げた。
「立ったままでどうした?入ると良い」
 促されるまま室内に脚を踏み入れる。卓上に置かれた箱の中には、真新しい万年筆があった。十五円はするような質の良い物に見える。
「今日は洋服なんだな」
 赤井の言葉に、降谷は上の空も甚だしく ええ、と頷いた。間が空いて、新たな問い掛けが降谷の耳に付く。
「誰かと約束していたのか?」
 降谷は赤井がどうしてそんなことを聞きたがるのかと不思議に思いながら、「叔父と日吉町のカフェーに行ってました」と昼間のことを話した。
「ああ、そうか、叔父さんと……」
 それきり会話が途切れたまま、沈黙が落ちる。
 赤井は近年めっきり台頭してきたシガレット──‘‘Who will light my Chesterfield?’’の広告文が記憶に新しい──を口に咥えて窓辺に向かった。装飾の煌びやかな木箱から取り出した燐寸マッチを擦り、火を点ける。煙たさが降谷の嗅覚にも届いて来る。
 女性的なシャネルの香りは今日はしなかった。いつものように、煙たさの中に、フゼアの清涼な苔の香りが混ざり、まるでどこか異国の民族的な、水辺に吹く風のようだった。
「月が明るいな」
 赤井は静かにそう言った。降谷も窓辺に近寄り、同じように空を見上げる。赤井は以前、真珠を「月のしずく」と例えた。全くもってその通りである。暗がりの西の空に見え始めた月は、窈窕たる光を放ち、まさに磨かれた金剛石よりも嫋やかな、つるりとした真珠を溢れ落とすかのような佇まいだった。
 ふと、視線を感じ取った。月から視線を外し、降谷は隣を見遣る。
 真っ直ぐに見つめてくる緑柱玉の瞳の中に自分を見つけて、降谷は心底、思った。
 ──この男が、欲しい。
 降谷の知る誰よりも自由に、気高く生きる、この男を。

***

 二十四日にはしんしんと大粒の雪が空に舞った。伝えられていた通り、赤井は英虞に発ち、年が明けるまでこの屋敷には帰らない。
「あ、ひっ……あっ、ぁ」
 己の体内に男を受け入れながら、降谷は喉をしならせて細い声を挙げた。腰を打ち付けられる度に彼の水宝玉の瞳が涙を溢す。
 ふと、降谷の顔に影が落ちる。唇が重なる寸前で、降谷は顔を逸らしてその行為を拒絶した。気を悪くさせたのだろうか、男は更に降谷を追い詰めた。奥深くまで届く快感に、遂に降谷は精を放って果てた。腹が白濁で汚れる。
 降谷にとってこの瞬間が一番、虚しい時だった。この身に男を受け入れる感覚には我ながら慣れたと彼は思う。けれど、好意を寄せてもいない男に抱かれて容易く極めてしまう自分を、降谷はその度に蔑んだ。
 ──まるで母親の二の舞だ。
 好いた男に抱かれることができただけ、まだ彼女の方が賢明だったと思える。
 一物を引き抜かれる感触にも身体を震わせ、降谷は漸く、宙を彷徨っていた脚を蒲団に落とした。荒れた息を整える。男は降谷の濡れた眦をそっと拭い、衣装を整えて静かに部屋を出て行った。
 男色の行為はこうして、ひっそりと終わる。この屋敷に世話になる前から、もっと言うと高等学校を卒業するよりも前から、欲に塗れた身体を宥めるために、降谷は女を抱くよりも、男に抱かれることを選んだ。
 童貞はとうの昔に捨てていた。女と交わることは少年だった降谷にとってこれ以上ない悦楽を味わわせた。
 しかし、彼は出逢ってしまった。気紛れに母親に付いて来たこの屋敷で、媚羞の女たちに囲まれる、眉目麗しい男に。
 なんて数奇な運命と、降谷は自身を憐れんだ。よりにもよって母親が熱を上げている男に心を奪われるなど。あってはならぬことだと禁じ得ても、一度募った思いはなかなか降谷の胸襟から姿を消そうとはしなかった。
 そうこうして、降谷は青年になった。すっかり男に貫かれ慣れてしまった身体はいつのまにか、降谷も目を見張るほど快楽に忠実で、自涜しても呆気なく達してしまうほど、淫ら甚だしかった。
 不意に叔父がした、男の本懐の話を思い出す。叔父の前では胸を張って、正直に生きたかった。
 ──今更、後の祭だ。
 着物もまだ身に付けず、降谷は窓の外、縁側を見つめた。雪が寸ほど積もっている。
 赤井に抱かれたいと願うことは、小さな雪の白にすら恥じるべきほど、罪深いことに思えた。

***

 年が明け、正月飾りも外れる頃、漸く煉瓦の屋敷は主人を迎え入れるための仕事を思い出したように、洋燈を灯した。大きなトランクを手に、磨かれた革靴をペルシャの絨毯に滑らせて、赤井は颯爽と帰宅を屋敷中に報せる。出勤していた志津に労わりの言葉を掛け、クレバネットの外套を託すと、さっと書斎に向かってしまった。
 長旅の帰りでさぞ疲れていることだろう。そう思って一言奉迎の意を表したい気持ちを抑え、降谷はそろりと脚を忍ばせながら、赤井の書斎の前を通り過ぎようとした。
 ああ、本当は、顔を見て話がしたい。
 そんな降谷の願望を天が聴き受けたのか、ふと書斎の扉が僅かに開き、顔を覗かせた赤井が 降谷君、と彼を呼び止めた。どきりと降谷は心臓を一鼓動させて立ち止まり、お帰りなさいませ、と赤井に向き直る。
「君は下戸だったかな」
 唐突な問いに降谷は え?と驚きを口に出し、脳内で赤井の言葉を反芻した。
「ひとりだとどうも、深酒になってしまいそうでね。付き合ってくれはしないか」
 招かれるまま室内に脚を踏み入れる。煙草とフゼアの香りが何故かとても懐かしく降谷の鼻腔を擽り、それだけで彼は胸をいとも簡単に高鳴らせた。
 赤井は相済茶色の背広姿のまま革張りのソファーに腰掛け、降谷にも腰を下ろすように促した。切子硝子のカップに注がれる琥珀色の液体を目にして、降谷は恐る恐るといった様相で赤井に問い掛ける。
「米国のウィスキー、ですか?どうやって手に入れて……」
 米国では禁酒法とか言う奇妙な法律が施行されている真っ只中であるのに。赤井は降谷のその質問には答えず、酒を注ぐのとは反対の右手の人差し指を立て、口元に持っていった。眼差し柔らかに微笑まれ、その色を携えた様子に、降谷は何も言えなくなる。
「君はプロテスタントだったか?そうじゃないなら酒を呑むのは享楽だ。たまには羽目を外してもバチは当たらん」
「……一応。文学を志しているので、宗教に興味はありますが、プロテスタントでも、はたまたクリスチャンでもありません」
「なら一層のこと勧めよう」
 赤井は‘‘Try it,’’と悪戯のように言って、硝子のカップを降谷の前に置いた。カラン、と氷が軽快に鳴る。
 降谷はあまり酒に明るくはなかった。即ち自分が下戸かどうかも分からなかった。ウィスタン、とか言う酒のようなソーダのような物を、発売当初に呑んだことはあったが、あれは口に合わなかった。
 赤井の前で初めてのことをするのは、とても勇気が要った。まるで処女のようにどぎまぎして、ウィスキーを口に流す。──苦い。なんだこれは。言いようのない癖のある舌触りに思わず眉を寄せると、赤井は耐え切れないと言ったように、はは、と破顔した。
「バーボンはまだ、口当たりが甘くて呑み易い筈なんだがな」
「……そうですか」
 赤井の言うことは降谷にはさっぱりだった。ただ赤井の、笑った顔をしたときの目尻の皺が、何だかとても、若く、少年らしく思えて、降谷はじっと見て居られなくなり、苦い液体をちびちび喉に流し込んだ。
 肘掛に肘を付いてカップを口に運んでいた赤井は、ふと思い至ったように立ち上がり、洋卓に置いたトランクを開けて何やら取り出した。白い絹の手巾ハンカチーフを手渡され、降谷は首を傾げて赤井を見上げる。
 開けてくれ、その言葉に、折り重なった布地を捲る。手の中で絹の滑らかさが解かれ、降谷の眼前に飛び込んで来たのは、目の覚めるような、力強い、金色の真珠だった。
 そのハッとさせるような美しさは類を見なかった。金茶の色は濃く、十五夜の月が輝くように発光し、研磨されたのかと思うくらい艶やかな照りがあった。何より、かなりの大きさだった。
「うわ……奇麗、ですね」
 これは、相当の値が付く代物ではないだろうか。驚く降谷に、赤井は存外ゆっくりと話し始めた。
「かなりの別嬪が採れたと言うから、奄美まで脚を伸ばしてきた。私も驚いたよ。今年の浜揚げではもうそこまでの物は採れないだろう」
「凄い……指輪にでもして、お店に置くんですか?銀座の貴婦人たちがこぞってこれ目当てに来店するでしょうね」
「それは君の物だ」
 一寸降谷は赤井の言葉の意味が分からなかった。傍らに立つ赤井を見上げる。緑柱玉の瞳が、まるで地中海の穏やかな波のように、大らかに降谷を見下ろしていた。
「大分遅くなってしまって申し訳ないが、クリスマスだったろう。これを君に渡したかった」
「くり、すます……」
「そう、‘‘Christmas’’」
 小さな子供に教えるように、赤井は発音美しくそう言った。
 降谷はもう一度、手の中の真珠を見つめた。何という神々しさ、何という存在感だろう。じわりと、しかし瞬時に、高揚感が降谷の胸に込み上げる。ああ、お礼を言わなくては。嬉しい。いや、お礼もそうなのだが。
「あ、あの……少し、少々、お待ち頂けますか?」
「ん…?」
「すぐ戻って参りますので……!」
 訳知らず顔の赤井を残して、降谷は自室に駆けた。桃花心木マホガニーの箪笥の奥、箱に入れたまま大事に仕舞っておいたそれを引っ掴み、足早に書斎に戻る。赤井はタイを崩した格好で、シガレットを吸いながらソファーに落ち着いていた。
 ああ、もう一々、些細な仕草が様になる男だな。
 半ば自棄になりながらも、降谷もソファーに腰を下ろし、手にした箱を赤井に差し出した。赤井は目を見張ったように、反射でその箱を受け取る。何だ?と、シガレットを灰受けに下ろし、箱を開けた。
「あの、もっと上等な物を頂いていたのは承知ですが、予備のひとつくらいにはなるやもと思いまして、その……」
 赤井は箱の中身を注視したまま黙っていた。そろそろとその様子に眼を向けて、降谷が、やはりそのような安物では満足して貰えないだろうと後悔したところ。
 赤井が真っ直ぐ、降谷の瞳を見つめて、その薄い唇を開いた。
「ありがとう。降谷君……思いがけないプレゼントだ……」
「あ……」
 泣きたくなった。
 赤井のその瞳は、降谷も見たことのないくらい、優しい色をしていた。
 お礼を言わなくては──。
 そう思いながら降谷は、赤井が、六円の安物の万年筆を、真珠に触れるのと違わぬ手付きで撫でているのを、心を震わせて、じっと見ていた。

 
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