「暑い」が一時的に口癖になる季節が過ぎ去り、短い秋を超えて、景色が白んできた。ロンドン風のコートに身を包んで、彼は今は「寒くなってきましたね」が常套句になった。
 酒に酔う街を並んで歩く。ほろ苦いブランデーに、あたたかなグリューワイン。幸せそうなカップルの中に、退廃的な男女が入り交じるテラスを横目に、安室は不思議そうに口を開いた。
「なんで僕、貴方と一緒に歩いてるんでしょう」
 赤井は安室を見た。安室は、自分の息の白いことに驚いた様子で、片方の眼を器用に見開いていた。
「君がついてきたんだ。さっきばったり会ったのは偶然だったのか?」
「どうでしょうね?」
 かすかに口角を上げた安室は、路地裏で眼についた喫茶店に思い付いたように入っていった。赤井は一度嘆息して、その背中を追う。
 夜も深いというのに店内は意外と席が埋まっていて、煙管を愉しむような客すら眼に留まる。赤井の意見も訊かず、安室はブレンドをふたつ頼んだ。運ばれてきたコーヒーに店員が付け加える説明もそぞろに、赤井はカップに口をつける。
 ふと、安室が頬杖をついて、自分を見てくることに気がついた。眼が合うと予想外に優しげに微笑まれる。むず痒いような違和感。安室はどこから取り出したのか、チョコレートの箱を開けて赤井にひとつ差し出した。
「ブランデー入りか」
 甘いものは不得手だったが、水を差すようでなんとなく断れなかった赤井は、そのチョコレートを口に入れて、そう言葉を漏らした。鼻から抜けるようなアルコール感に、たった一粒で思考がくらりと傾くように感じたのは雰囲気に酔ったか。「貴方は僕の秩序なんですよ」そう言った安室を見て、赤井はなるほどと合点がいく。これは安室が酒に酔ったときに常から言う言葉だった。
「酔ってるな、安室君」
「ふふ、二粒しか食べてませんよ」
 充分だとは赤井は口にはしなかった。昔は知らなかったことだが、安室は驚くほどに酒に弱かった。加えて、酒が好きらしかった。
 タチが悪い。
 そうは思いながらも、赤井はチョコレートを口に入れる安室を黙って見ていた。
「おいしい。冬が来たって感じ」
 間接照明が弱々しく灯る店内でも目立つブルーの瞳を蕩けさせて、安室は続ける。こんな表情を、仮にも憎むべき相手に向けるというのは一体どんな心理なのか。安室透という人物が、赤井にはよくわからなかった。
 ときに、激しい憎悪の念をぶつけられる。そしてときに、こうして、まやかしではないかと疑ってしまうくらい、赤井にとって容易くなる。
 安室はもう一粒取って、赤井の口元にそれを寄せた。赤井が口を開く。チョコレートとともに安室の指先まで食んでしまうと、ピクリとその指が動いた。
 安室は締まりなく口を開けたまま、じっと見つめてきた。こんな表情、とは、まさにこれだった。
 なにをされても構わない。
 そんな雰囲気を言外に匂わせる顔。
「貴方の家、連れてってください」
 不意の要求でも赤井は驚かなかった。安室は続けた。
「大丈夫、部屋に着くまで眼は瞑ってますよ……それか、シャワールームか」
 微笑んでから安室は立ち上がった。結局手の付けられなかったコーヒーの勘定をして、店を出る。「ほら、」と安室は宣言通り眼を閉じた。まるで無防備な子供のような彼の腰に手を回して、赤井は歩き出した。身体が密着する。視界を自ら奪い、赤井に凭れておぼつかなく歩く安室は、また、ふふと笑った。
「おかしい光景ですね、きっとこれ。僕達目立ってますよ絶対」
「ああ、みんな見てるよ」
「ははっ、面白い。最高に興奮する」
 路地を進んで住宅街に入ると急に静かになる。安室がところどころで躓く度に、赤井は彼の腰を強く引き寄せた。さらりと額に垂れるブロンドの髪から、夜だというのに清潔な匂いが漂ってくる。
「君の言う秩序ってのは、一体どんな不貞の輩なんだ」
「それってこの状況のことを言ってます?」
「それ以外に何があるんだ?」
「いえ、もしかして貴方、もう勃ってるんですか?」

 赤井よりも遥かに背の高い柵を押し開けて、身体を滑り込ませる。この辺りでは珍しい洋造りの豪邸。ここが、現在の赤井の棲家のひとつだった。
 聡い安室のことだから、きっとこの場所がどこだかわかっているのだろう。安室はここに来たことがあるのだ。たった一度だとしても、ここまでの道のりを、例え眼を瞑っていてでも把握してしまうのが彼の地頭の良さだった。
 玄関で靴を脱ぐ間も安室は律儀に眼を閉じたままだった。赤井は彼をエスコートしてバスルームに向かう。「着きました?」飽きのきたように問い掛けてくる安室に、赤井は痺れを切らして彼の唇に吸い付いた。くぐもった声が唇の隙間から漏れる。その声がやけに色っぽく赤井の耳に届いて、彼は盛り付いた犬のように腰を押し付けた。
「はっ……はあ……あ、はは、意外と直情的なんですね」
「この状況で飾れるほどできた男じゃないんでね」
「ふぅん……」
 安室は眼を開けてそのブルーの瞳で赤井を見た。そして、慣れたように赤井の着ているジャケットに手を掛けて、彼の身体をあらわにしていく。見習うように、赤井も安室から衣服を奪っていった。大の大人同士がいそいそと互いの服を脱がし合う様はなかなかに滑稽だった。
 締まり上げられた身体に浮かぶ銃創ひとつひとつを撫でてから、安室は つ、と指を下へ滑らせる。アンダーウェアの色が変わったちょうどその部分をくるりと撫で、少し力を込めて指先で引っ掻く。眉を寄せる赤井ににっこりと微笑んでやってから、恥ずかしげもなく自分で最後の布を脱いで浴室に入って行った。
 同じようにして浴室に来た赤井を、安室は遠慮も恥じらいもなく観察した。たしかに主張した部分に眼をやり、こともなげに尋ねてくる。
「ここで自分で慰めたりするんですか」
「……訊いてどうするんだ」
「想像するんですよ。どういう風に触って、どういう風に快感を感じるのか……いいスパイスになりそう」
 シャワーの栓を捻った安室は、それを頭から浴びた。濡れていく髪を掻き上げ、わずかに開いた眼を赤井に向ける。「いつまでそこに突っ立ってるつもりですか」その言葉で赤井は彼のもとに行った。シャワーを顔に宛てられ、思わず眼を閉じる。「ははっ」と愉しげな声が反響した。
 眼を開けると安室は形の美しい唇を歪めて不敵に笑っていた。濡れた身体が淫靡にうつる。まるで自然なことのように吸い寄せられるまま口付けをすると、物分かりのいい彼は自分から唇を開いた。
 舌が触れ合う。まだ甘たるい味の残るそれを赤井は吸い上げる。淫らな音が鳴った。キスを交わしているだけなのに体温が上がっていく。
「熱い……」
 合間に安室が零す。熱に浮かされた表情に赤井は彼の頬を撫でた。そのまま首すじを伝い、鎖骨をくすぐり、肌よりも色の薄い乳首を嬲るように摩った。
 声を抑えるでもなく、安室は女のような吐息を漏らして喘いだ。
「あ、あっ……はあ……は………ひっ、」
 乳首を口に含んでやるとひときわ高い声が上がった。吸って、舌先で転がし、舐め上げてやれば、どんどんと脈も息も上がってくる。パタパタとシャワーの飛沫がふたりに降り掛かる。
 赤井はバスルームに置いてある小瓶からクリームを指先に取り、ひっそりと安室の後ろにその指を回した。表面を撫でて徐々に中にも塗り込んでいくと、シャワーに混じり次第に濡れた音が響いてきた。クリームのおかげで滑るように赤井の指は動く。安室の喘ぎに泣きが入ってきた。
「ぅあっあっ……ひっ…ぁ……熱、あつい……っ」
「……ッ…そんな効果はないはずなんだがな」
 ぽろ、と安室の透き通る瞳からしずくが一筋垂れた。赤井はそのしずくを舐め取って、彼の耳元で囁くように問い掛ける。
「俺が君の秩序なら、君は俺の狂気だ……当たってるか?」
「ふ、はっ……はは、ひどい言い様ですね……僕がいつ、貴方を、狂わせました?」
「ニーチェ的に言うとこの世の理だ。音楽や芸術には明るくないが、物事の道理にも通づるものがある……」
「ね……あつい、から……ぁっ……はや、く……」
 赤井は安室の片方の脚を抱えて、素早く彼の中に自身を捩じ込んだ。安室は陶酔が極まったように、天井を仰いで背中をしならせた。下半身が汚れたそばから、シャワーがその白濁を洗い流していく。
 はあ、はあ、はあ。
 息を荒くしながら安室の痙攣が収まるのを待ち、赤井は腰を突き上げた。もう片方の脚も掬い上げ、安室の身体を壁に押し付けたまま中を犯していく。
 鳴き声がこだまする。
 シャワーの雨足が熱い。
 安室の褐色の肌にも赤が差している。
「俺は君から、大切なものを奪った……そんな俺がなぜ、君の秩序に成り得る、?」
「は、はは、アッ……貞操の話ですか、?そんなもの、抜きに、してもっ……ああっ、あなたは、いつも正しい……っ…!」
「……っ、君はいつも美しいな…」
 安室はまた果てた。飛沫を上げて震えるその猥りがましい様子に、赤井もついに彼の中で爆ぜた。








 かくして、 酒神讃歌 ディテュランボス を歌うディオニュソスの従者は、彼の同類によってのみ理解される!アポロ的ギリシア人は、いかに驚きをもって彼をながめなければならなかったことか!この驚きには恐怖がまじっていただけに、それだけに、驚きはいっそう大きかった。 ──アポロ的ギリシア人は恐怖を感じたのだ。もともと自分にもこれは無縁なことばかりだとは言い切れないのではないか、という恐怖を。いや、それどころではない、自分のアポロ的意識など、しょせんは一枚のヴェールのように、目の前からこのディオニュソス的世界をおおいかくしているだけではないか、という恐怖を。
                 Nietzcshe, F. (1872) 『Die Geburt der Tragödie』西尾訳








「先生、彼が酒に弱いのをご存知か」
 赤井はソファーにゆったりと腰掛けてそう問うた。久しぶりに燻らせた紫煙が宙に消えていく。質問を投げ掛けられたその人物は、白衣を翻して振り返った。
「ええ、もちろん。それがどうかしましたか?」
「では何故あのとき酒の入ったチョコレートを?」
 その人物は「おや、」とわざとらしく首を傾げた。
「それは私の過失ですね。申し訳ありません、お酒が入っているとは知らず」
 赤井は煙を吐いて、諦めたように火を点けたばかりの煙草を灰皿に押し付ける。
「……我々は貴方のチェスの駒ではありませんが」
「面白いことを言いますね、赤井さん。貴方も……」
 その人物は笑った。窓から入る朝の光を受けて、逆光で表情は見えなかったが、赤井にはわかった。
「光明神ぶるのはいかがなものかと。彼は私の患者ですよ」
「……その前に、降谷零というひとりの男です」
 赤井は立ち上がってその人物に背を向けた。「お大事に」そう声が掛けられる。
 外に出ると、陽が一層と照っていた。赤井は眼を伏せて、思いを馳せた。
 この仄暗い世界が、永遠に続くようにと。




pixiv掲載/16.10.24
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