聖母のような女性だった。
 自分よりも人の幸せを願い、人のために涙を流し、いつも誰かのために笑いかけていた。
 幼くして両親と死に別れるという、なんとも不遇な人生。彼女はそれを他人には決して悟らせなかった。その凛とした姿は聡く明朗で、いじらしくなるくらい可憐だった。
 柄にもなく母性、というものを感じていたのかもしれない。
 まるで夜の海が織り成す雄大な静けさのような黒く深みのある瞳は多くを語らず、それでいて凝り固まった身体を優しく包んでくれた。ひどく、心を落ち着かせてくれる抱擁だった。

 不意に、身体を投げ出した男性を抱いた女性の姿が現れた。ここはどこだったろうかと、彼は記憶を思い起こす。そうだ、彼女が観に行きたいと言っていた像だ。全てを成し遂げた神の子と、それを腕におさめた聖母の像が、人々の信仰の対象として祀られていた。
 彼は胸元に手をやる。温かい感触がした。妙にリアルだった。
「Good evening, our lady.」
 血の噴き出る胸を抑えながら地上で最も純粋無垢だった女性に語り掛ける。
「そんなに悲しまなくていい。彼は全てを終わらせた。しかしすぐにまた蘇る。信じる限り、彼はあなたの中で生き続ける」
 祭壇に近付く男の姿が見えた。こいつは誰だ?着古した革のジャケットにニット帽。全身黒ずくめの男が呻いて膝から崩れていった。先程まで正面に捉えていた神の子と聖母の像を、彼は今俯瞰するように見下ろしていた。
 血の抜ける感覚がなくなる。呻く男はついに礼拝堂の床に突っ伏した。あれは誰だ?血の海が広がっている。彼は気が付いた。
 あれは……俺だ。

「大君」

 頭の中で愛らしく懐かしい声がした。真下の男はついに動かなくなった。不思議と満ち足りた気分になる。きっと幸せな夢だ。彼は思った。
 背中からあの優しい抱擁を感じる気がした。彼は口を開く。呪文のような言葉。音もなく吐かれたそれは、だがはっきりと彼の耳に届いた。

あ け み

 横たわった真下の男が、突然、最後の力を振り絞るように顔をあげた。瞬間、なくなっていた血の気が引く感覚が戻るように、彼は震え上がった。
 浅黒い肌の男の顔に見覚えがあった。
「安室君!!!」
 赤井はそこで目が覚めた。




 はあ、はあ、と短く息を吐いて辺りを見渡す。真っ白な壁と真っ白な桟の小窓。射し込む朝日の柔らかさに誘われたようにその空間に色が戻る。
 背の高い観葉植物。青のシーツ。床に固定されて宙に浮く真っ赤なバルーン。
 赤……
 赤井は必死に今しがた見た夢を思い出そうとしたが、なぜか靄がかかったように思考が働かない。垂れ下がった前髪を左手で掻き上げて、気が付く。 汗をかいていた。
 はっとして赤井は隣を見下ろした。もぬけの殻のベッドに手を伸ばすとまだほんのりと温かみが感じられた。胸を撫で下ろして、そしてベッドから抜け出る。床を軋ませて、彼は寝室からひと続きになった先に足を運ばせる。 聞き慣れた声が聴覚を通して彼を宥めた。
「New York…New York
I want to wake up, in a city that never sleeps
And find I’m A number one, top of the list
King of the hill,
A number one….」
 ダイニングの壁に肩を預け、赤井はベッドサイドから掴んできたリトルシガーに擦ったマッチの火を点けた。葉巻の本来の楽しみ方は心得てはいるが、煙草を吸っていた頃の習慣で銘柄を変えた今も肺で吸ってしまう。
 キッチンに立つ後ろ姿は、わずかに音程を外しながらでも無駄のない動作で朝食の用意をしていた。しばらくその様子を眺めながら葉巻を吸っていた赤井に、その独特な香りに気が付いたのか不意に振り返った安室が口を開いた。
「起きてたんですね。朝ごはんできてますよ」
「ああ、ありがとう……安室君、相変わらず発音は良いのに音程がズレているよ」
 む、とした表情で安室は皿によそったオムレツをダイニングテーブルに置いた。赤井の好きなベーコンとパルメザンチーズが入った、火のよく通ったもの。馴染みのホームフライがサラダとともに添えられている。
「どうせ僕は音痴ですよ。人生で唯一落第点だった教科だ。忘れもしない中学の時の音楽の歌の試験、課題曲が『Edelweiss』だったんです。ほらあれ、クリストファー・プラマーが映画で歌ってた。ギターだったら上手く伴奏できたのに、歌になるとさっぱりで。筆記で満点出しても評価は五段階の4でした。そういえばあなた、ちょっとプラマーに似てますね」
 冷蔵庫からサワークリームを取り出しながら安室は不貞腐れたように話す。向かい合わせに座って、同時に手を合わせた。いただきます。声が重なる。
 安室は飽きもせずにポテトにサワークリームをのせて食べるのが好きだった。
「でも君がシナトラを歌うときの''A''の発音は好きだ」
「あなたいつも言ってますねそれ」
 ふふ、と笑って安室はオムレツを口に運ぶ。赤井は無意識でじっとその様子を見てしまっていた。陽に透けた薄いブロンドがキラキラと輝いているように見えた。

 世間一般で言ういわゆるパートナーになって赤井が安室透と暮らし始めてから、そろそろ半年になる。厳密に言うととっくの昔に安室はもう安室ではなくなっていたが、赤井がそう呼んでも彼は特に訂正をしなかった。いまだに仕事の方で使っている名前のようだからさほど支障もないのだろう。
 仕事、と食器を洗いながらもう一度反芻して赤井は思考を巡らせた。
 名前のない巨大な組織の掃討戦は惨憺たるものだった。横浜の港の倉庫群の一画に隠れ潜んでいた幹部達との戦いで、FBIも公安率いる日本警察も多くの仲間を失った。名誉の死だったと、そう遺族に伝えてまわっても、帰宅を果たした遺体は五体満足のものは少なく、激しく糾弾された。
 安室、もとい公安所属の降谷零は、組織壊滅に一役買い大手柄をあげたとして昇進した。栄転に彼の部下達は大手を振って祝福したようだが、実際のところ後始末の役回りを押し付けられたにすぎない。組織のではない。庁内の後始末だった。庁内にも組織に内通していた者が少なからずいた。降谷は潜入捜査のかたわらその炙り出しに力を注いできて、そしてバーボンを降りると同時に一斉掃除を始めた。
 彼が珍しく早く帰ってきた夜、赤井は問い掛けた。仕事は順調か?安室は微笑みながら「ええ、もう片付きました」と言ってスーツを脱いだ。

 ふと葉巻を奪い取る指があった。横を向くと間髪入れず唇に温かみを感じる。すぐに顔を離した安室は、「ケチャップとチェリーの味がする」と言って赤井から奪ったそれを口に挟んだ。チェリーのにおいが改めて赤井の嗅覚をくすぐる。水道の栓も閉めずに赤井は安室に告げた。
「……もう一度してくれ」
「はいはい、ほら」
 仕方がないと言うふうに安室はもう一度キスをした。柔らかい感触。見兼ねた安室が蛇口を捻る。舌を捩じ込んでくる安室に赤井ももちろん応戦した。
 なぞるような舌先の感覚が脳を甘く痺れさせる。
 濡れた手にもかかわらず、赤井は安室を掻き抱いた。顔に似合わず鍛え上げた身体は赤井に興奮を募らせる。唇を吸って、舌を甘噛みして、唾液を送っての繰り返し。しつこいとも取れる愛撫に、安室は赤井の肩に手を回して短く切り揃えられた襟足を引っ張った。
 かすかな呻き声を上げながら、赤井は安室を解放してやる。
「30超えてるってのにがっつきすぎ……あなたに大人の余裕ってもんはないんですか」
「君を前にすると余裕もなにもなくなるよ。ベッドに誘っても?」
「呆れた、夜だけじゃ足りないんですか?」
 いたずらに吐き出した葉巻の煙を赤井に向けて安室は肩を竦める。シンクの横に置いておいた灰皿に紙で巻かれたそれを押し付けた。ほら、と差し出しされた手を赤井は握った。
 性急にベッドに向かって同時に倒れると、真っ青なシーツは起き上がったときよりも皺を作った。いくら頑丈なマットレスでも男ふたりの倒れる衝撃にはスプリングを軋ませずにはいられなかったらしい。
 長い口付けの後で、安室は濁りのない澄んだ青の瞳を寄越して囁いた。
「あかい……」
 瞬間。
 赤井の脳裏に、血の気の引いた男の顔が浮かんだ。浅黒い肌に虚ろな瞳、唇は震えている。
 誰だ?誰なんだ?
 鈴の鳴るような高い女性の声が聞こえる。懐かしい音。赤井は頭を抱えた。先ほどまで欲望に蕩けていた脳が今は熱くズキズキと締め付けるように痛かった。
 尋常ではない赤井の様子に、安室は訝しげに眉を寄せた。赤井?呼び掛けて背中をさすってやる。しばらくその行為を続けていると、やっと赤井は呼吸を整わせてきた。額に脂汗が浮いているように見える。
「赤井、汗が……タオル持ってきます、」
 ベッドを降りかけた安室の腕を引いて赤井は彼を抱き締めた。じんわりと体温を共有する感覚に正常な思考を取り戻す。迷い気に抱き返してきた安室に、赤井は呟いた。
「…すまない、少しこのまま……」
 それきり赤井は沈黙した。



 新緑の季節も過ぎ、だんだんと夜が寝苦しくなってきた。それでも赤井は寝るときに安室に引っ付くのをやめなかった。安室はというと、口では暑いだの離れろだの不平を言っていたが、無理矢理赤井の身体を引き剥がそうとはしなかった。
 赤井はそのことを不思議に思った。
 同棲を始めて半年くらいは、眠るときに抱き付いてみてもすげなくあしらわれてきたというのに。話題の最新型のファンクーラーのおかげだろうか。安室はエアコンの人工的な風が苦手だったから見繕ってきたものだが、買って正解だった。
 紙で巻かれたそれを口に咥えて、赤井はリビングから続くバルコニーに出た。東京湾とレインボーブリッジを一度に望めるロケーションが気に入って買った部屋なだけに、今日も眺めは最高だ。太陽の下サーファー達が穏やかな波と戯れるのを見ていると、玄関の鍵が開く音がした。赤井は口に咥えていたものを、ベランダに備え付けたウッドテーブルの上の灰皿に押し付けて火を消した。
「おかえり安室君」
「ただいま……今日はとくに暑いですね…僕が子供の頃は夏はこんなに暑くなかったのに」
 子供の頃。
 バルコニーから室内に戻った赤井はその言葉に安室を見遣った。深い関係になってからそれなりの月日が経つが、安室の幼少期の話は片手の指で足りるほどしか聞いたことがない。
 赤井が口を開こうとすると、あ、そういえばと安室は思い出したように喋り出した。
「裏の道のテナント募集してたところ、イタリアンレストランになるんですって。オープンは秋頃って書いてました。出来たら行きましょうよ。焼き立てのマルゲリータとか食べたいな。」
「そうだな…」
 赤井は口を噤む。切り出してもいないのに話を逸らされた気がした。
「イタリアはもう結構回ったけど、ヴァチカンには入ったことないんだよな。カトリックの総本山なんですよね。世界最大級の教会があって……」
「ああ、そうだったな」
 投げやり気味に応えてから、赤井の脳はふっとイメージを呼び起こした。
大理石だろうか、曖昧にしか思い出せない輪郭。亡骸と思われる身体を抱いた聖母の彫像。哀しみと慈愛に満ちた表情。
 また頭痛がした。このところ続いている。持病なんてなかったのにと赤井は嘆息してこめかみを手で押さえた。現状で支障がなにか出ているわけではないが、突然の病気というのも気味の悪いものだ。
 すっと赤井の視界に褐色肌の顔が覗き込んできた。さら、と垂れるブロンドが赤井の目にやけに眩しく写る。
 凝視してしまった赤井に、安室は少し窺う様子で声を掛けた。
「痛むんですか?」
 顔に出ていたかと赤井は苦笑いを零した。
「すぐに治まるさ……ああ、それはそうと寝室の風船が増えてたな。また結婚式でもらってきたのか?」
「ええ、この間話した部下の披露宴で。柄にもなくスピーチは緊張しましたよ。僕ももう部下の晴れ舞台にスピーチ、なんて歳になったんだな……」
 ダイニングテーブルの席に着いて頬杖をつきながらしみじみ安室は言った。それから披露宴の食事がどうだったとか隣の席の客がこうだったとか話し始めた。
 時折心配になるくらい、安室は場の空気を読むのが上手かった。
 赤井自身そこまで気にしているつもりはなかったのだが、深層心理は侮れないのか、頭痛のことはあまり口に出したくない話題だった。原因はわかっている。夜、満足に眠れないのだ。寝苦しいから、なんて生やさしい理由ではない。悪夢を見るのだ。決まって同じ夢だったが、赤井はその夢の内容を断片的にしか覚えていなかった。覚えていないのになぜ悪夢だなんてわかるのか、赤井にも見当がつかない。
 ただしひとつだけ、その夢に関して覚えていることがある。
 赤井が守り切れなかったと悔やむ女性。そして、恋人である最愛の男。
 その夢には、赤井の大切なふたりがいつも登場した。

 買ってきた食材で安室の拵えた夏野菜のソテーをのせたサラダと、昨晩の残りのミートローフで昼食を済ませてコーヒーを飲む。都会の真ん中とは思えないほど、ここは静かだった。高層階だから当然かもしれないが、夏のほんの一部の時期に押し寄せる観光客を除けば、普段は閑散とした海辺の街だ。それほど新しいマンションではなかったが、新居選びの際に訪れたこの部屋を安室は一目で気に入ったようだった。
「この後は?」
 シャワーからアンダーウェア一枚の姿で出てきた安室が赤井に尋ねた。
「ジェイムズに呼ばれている。三日前から東京に来ているらしい」
「ブラックさんが?あなたと同じで休暇ですか?」
「さあな。後でたっぷり話してくれるだろう……君は?出掛けるのか?」
「ええ…内閣の危機管理監の後任が決まったって話、知ってます?警察庁出身の方なんですよ。なんでも防衛事務次官と今夜会談するとかで、長官直々に僕も同席するよう言われたんです」
「名誉なことじゃないか、現職の防衛事務次官は次の参院選で当選確実と聞いたが」
「まあね……あ、一応これオフレコですよ」
 衣装部屋から吟味して選んだブルーグレーのスーツを来た安室は、その生地より濃い同系色のネクタイを締めながら「いってきます」と赤井の頬にキスをした。
「………。安室君、今のは反則……」
 ひらひら、と後ろ手を振る安室の背中は赤井の拗ねた声色に振り返らずに去って行った。これだから、と赤井は天井を仰いだ。

 ブラックに指定された場所は虎ノ門に数年前にできた高級ホテルの最上階のバーだった。いくら気心の知れた仲間だからといっても、ブラックは赤井のボスにあたる人物。待たせてはまずいと余裕を持ってマスタングを走らせてきたが、約束の30分前にもかかわらず彼はすでに席に着いていた。
「Good to see you after such a long time.」
 1991年のシャトー・ムートン・ロートシルトのボトルを空けていたブラックに声を掛けると、「ああ、赤井君」と流暢な日本語で返される。普段は厳しい瞳が、ふっと細められた。
「お待たせしてしまいましたね」
「いや、約束の時間までまだ大分あるよ。飲むかい?」
「いえ…遠慮します。車なので」
 そうか、と頷いてからブラックは店員を呼んでノンアルコールのカクテルを注文した。
「つまみは適当に頼むよ」
「ええ、構いません」
 握りなど日本食のスナックを中心に軽く腹に入れる。
 およそ半年ぶりの再会にふたりの会話は弾んだ。秋に控えた大統領選から本部のバーベキュー大会の話、ブラック家の猫が子供を生んだ話まで、トピックは様々に及んだ。店員がワインクーラーから取り出したボトルをグラスに注ぎ足す。
 頃合いを見計らって、赤井は上司に話を振った。
「それで、本題はなんなんです?世間話をするだけのために私を呼び出したわけではないでしょう」
 ブラックは口角を上げて、冗談交じりに言った。
「相も変わらず勘繰り深いな君は。いや……35にもなる部下がいつまでも独り身で、親代わりとしては心配なのだよ」
「なるほど、正当な理由ですね……見合い相手の写真でもお持ちなのですか」
「ああ、『お見合い』は日本の文化だと聞いたよ……これだ」
 懐から取り出した一枚の写真をブラックは赤井の目の前に差し出した。それを眺めて、赤井はもう一度上司を見る。
「過激思想派のテロリストだ。1週間前に日本に入国したところまではわかっているんだが、その後の消息が途絶えてしまった。休暇中なのは承知だが、君の力を借りてどうにかして探し出したい」
「探し出した後は?」
「That's your task.」
 赤井は写真を掴み上げ、胸の内ポケットに収めた。ターゲットの顔を覚えるのは得意だった。
 写真の男はシアトル出身の日系アメリカ人。地元警察に長年マークされていたらしいが1年半前に行方を眩まし、ようやく姿を現したのが1週間前の成田空港においてだった。指名手配中の海外のテロリストともなると、入国と同時に日本警察も動きを見せたことだろう。この分だと安室のところにも情報が下りてきているはずだ。
 赤井は足を組み直して、再びブラックに視線を向けた。
「ひとつ聞いても?」
「なにかな?」
「なぜこの男を始末したがるんです?こう言ってはなんですが、たかだかテロリストがひとり国の外に出ただけだ…拘束するだけで済ませるには何か不都合が?」
 尋ねると、ブラックは今度は頷きも断りもぜすに赤井をじっと見てきた。人が良さそうに見せかけてポーカーフェイスなのだ。入局して彼の下に就いてから、本質的に彼の考えを見抜けたことは今までなかった。
「…結局は、私もこの狭い組織の犬にしか成り得ないということだよ」
 ブラックはグラスに残った液体を呷り、そして静かに赤井に話した。
「君のことを気に掛けているのは本当だ……どうだね、本当に誰か会ってみないかい。ひとりくらい気に入る女性がいるかもしれないだろう」
 赤井は窓の外を眺めた。さすがに地上52階からの夜景はマンションからのそれとは壮観さの違いが一目瞭然だ。しかし、その華やかさはどこか憂いを帯びて赤井の目に映った。同じ東京湾のはずなのに、全く違う景色に見える。
 「ジェイムズ」ふと落ち着いた柔らかな声が赤井の上司のファーストネームを呼んだ。声のした方に振り向くと、胸元を大きく取った白のシルクドレスを着た初老の女性が、嫌味のない歩き方でふたりの座る席までやってきた。赤井は恭しく立ち上がり、ミセス・ブラックとハグを交わした。
「お久しぶりです、Ma'am」
「なかなか会いにきてくれないから寂しかったわよ赤井さん」
「それは申し訳のないことをした。今度からはきちんとご連絡致しますよ」
「そうして頂戴。主人も安心するわ」
 ミセス・ブラックは上品に微笑んだ。日系人特有の瞼の掘りが、丸く愛らしい瞳を年齢より若々しく見せている。耳元に飾られた黒の真珠は控え目に輝きを放ち、彼女のくすみのない白い肌に奥ゆかしさを与えていた。
「節子、あまり赤井君にプレッシャーを掛けないでやってくれ。休暇中なのに無理を言って来てもらっているんだよ」
「そうでしたね。ふふ、可愛い仔猫ちゃんのための休暇だとしたら申し訳ないのはこっちだったかしら」
 妻のその発言にブラックは少し驚いたように赤井を見た。赤井はというと、苦笑いをひとつしてから「大丈夫ですよ」と答えてみせる。
「聞き分けがいいんです。まあ…仔猫というには少々気性が荒いですがね」
「水臭い。赤井君、いつの間にそんな相手が?」
「野暮ったいわよジェイムズ。赤井さんほどの素敵な人、周りのお嬢さん達が放っておかないわ」
「男性です」
 ウェイターが、まだ空き切らないボトルを、運んできたブラック夫人のグラスに傾ける。
 赤井の一言に彼の上司は目を見開いて今度こそ言葉にならないようだった。対してブラック夫人は特に驚いた様子もなく、「あらそうなの?野暮な発言は私だったわね」と困ったように頬を押さえた。
「It's okay. 彼とは一緒に住んでいるんです。ジェイムズには折を見て話すつもりでした」
 珍しく開いた口の塞がらない上司を見て赤井はなんだか可笑しくなってきた。それもそうだろう。久しぶりに会った部下に同性の恋人ができていたのだ。しかも、彼は赤井の以前の交際相手達を知っている。もちろん、全員女性であった。
「あら!ジェイムズあなた、Oh, my goodness! What a lovely thing you are having!」
 不意にブラック夫人は声高に、ウェイターが注ぐボトルを見て目を輝かせた。
「シャトー・ムートン・ロートシルトね!節子のラベルだわ。信じられない、ハニー、素敵な結婚記念日よ」
 ブラック夫人が夫の頬にキスをすると、我に返った彼は妻に説明した。
「ああ、1991年の物を取り寄せてもらったんだよ……僕らが結婚した年だ。期せずしてド・ローラ節子がこのラベルアートを担当した年と同じでね」
「彼女の生き方、すごく好きなのよ」
赤井はふたりを見て目を細めた。昔から仲の良い夫婦だった。自分のグラスをふたりに向かって掲げる。中身がノンアルコールなのは許して欲しいところだ。
「Have a toast to both your eternal love.」
 ブラック夫妻はお互いに見つめ合い、そしてグラス同士を軽くクリンクさせた。
「「Here's to you.」」



 ささやかながら夫妻の結婚記念日を一緒に祝い、赤井は一足早くバーを後にした。車の中で一服を済ませ、出ないだろうとは思ったが安室に電話を掛ける。案の定留守電に繋がり、赤井は一言だけ残してホテルを去った。
 今夜の安室らの会食場所は事前に聞いていたため、目と鼻の先の東都タワーの麓まで運転することにした。都道に入り芝公園を目指す。ものの数分で目的地に到着し、赤井は車から降りて安室にメッセージを打った。
 こういった秘密裏に行われる官僚達との会食に『降谷零』はよく駆り出された。良い意味で目立つ容姿の彼は、口を開いてもその聡明叡智さで場の空気を自分のものにする天賦の才があった。警察組織の将来性を国家側へアピールするには打ってつけの人材なのだ。自由の利かないエリートコースを甘んじるどころか自らその道に踏み出して行く姿には、意志を持たないこの国の行く末を転換させ得る可能性が感じられた。
 遅い……
 葉巻を1本吸い終わるところだ。腕時計を確認して、赤井は眉を寄せる。普段の会食ならもうとっくに帰路についていていい時間だ。
 過保護過ぎるのは赤井も承知だった。安室も30の大人なのだ。何もひとりで帰ることのできない幼児ではもちろんない。タクシーくらい拾えるだろうし、そもそも安室はそういう場では絶対に酔わないはずだ。
 襟足を掻いて歩き出す。料亭へと続く緩やかな坂道を下って行くと、前方からスーツ姿の男性がふたり、赤井のいる方向に向かって歩いてきていた。自然と歩みが止まる。
 隣の男と話し込みながら歩いていた安室は、自分達の進路の先に立つ赤井の姿に気が付き、些か驚いた様子で目を見開いた。夜目でもタワーのライトアップのおかげかその安室の表情は赤井にも伝わってきた。メールはまだ開けられていないのだろう。
 安室よりも少しばかり背の高いその男は、安室の視線に促されたように赤井を見た。必然と目が合う。安室に負けず劣らずの色男だ。もしかしたら自分と同じくらいの年齢か、少し上かもしれない。
 赤井は葉巻を咥えたまま立ち尽くした。
「お知り合いですか?」
「あ……ええ」
 男の質問に安室が答える。
「すみませんが、彼と少し話していくので僕はここで失礼します。今日はお話を伺えて光栄でした」
「こちらこそ、噂の敏腕捜査官の降谷さんにお目にかかれて嬉しかったですよ。また近いうちに」
 男は握手を交わしてから、安室の肩に手を置いてにっこり微笑んだ。では、とくるりと向き直り、赤井にも微笑んでから真横を通り過ぎて行く。拒まれることを知らないような笑顔だった。
 気に喰わない。
 まだ途中の葉巻を携帯灰皿に押し付ける。目の前に来た安室は酒が入っているとは思えないほど平常通りに話し始めた。
「迎えに来てくれてたんですね。待ちました?」
「ああ、待った。遅い」
「…不貞腐れないでくださいよ。謝ります。すみません……助かった」
小さくそう言った安室に赤井は目を向ける。心に棘が生まれた気分だ。
「いつから長いものには巻かれるようになったんだ?」
 その言葉に安室は眉間に皺を寄せて赤井を睨んだ。
「随分と棘のある言い方ですね。接待か何かと勘違いしてませんか。今の、防衛省の大臣官房の方で、調査課にいたこともあるんです。情報を得るにはまずコネクションが必要でしょう」
 心外だとでも言いたげに言葉を返して安室は再び歩き出す。タワー方面から来る車のヘッドライトがふたりを照らして、坂道に影が伸びた。安室が横を通り過ぎる瞬間、赤井はその腕を掴んで自分の方に引き寄せた。不意を突かれて驚いたような顔をした安室に、赤井は距離を詰めてキスをする。
「ッ…おいっ……!」
 唇の隙間から抵抗の声を漏らす安室に構わず、赤井は舌を突き出した。ただ唇を押し付けて、舌を合わせるだけの情緒のない口付けだった。車がふたりのすぐ脇を下って行く。赤井が唇を離すと、安室は怒りに震えながら唸った。
「…絶対に見られた」
「見せておけばいいだろう、しつこかったんじゃないのか」
「あの男、省庁内じゃ男も女も節操なしだって有名なんだよ。あんな場面見られたら遠慮は要らないと思われるだろう!」
「他の男に言い寄られて断れないほど君は俺に対して不誠実だったか?」
「……そういう話をしてるんじゃない」
 もういいです、と安室は話を切り上げて坂を登って行った。遅れて赤井もそれに続く。
 不誠実なのは自分だと、彼は自覚している。先ほどの上司とその妻の幸せそうな光景を間近で見て気が付いたのだ。
 何度試みても赤井は、安室との……『降谷零』との未来を思い描くことが、できなかった。


 翌朝の安室は前日の不穏な雰囲気がまるでなかったかのように「おはようございます。ご飯炊けてますよ。味噌汁はあっためてください。僕はもう食べたので行きますね」と言いながら洗面所から出てきた。寝起きの赤井とは対照的に皺ひとつない真っさらなワイシャツ姿。さらりと後ろに流した前髪から露わになった、一筆で描いたようなすっきりした額がなんとも清々しい。
 玄関へ向かう背中を赤井は少し焦りながら追った。
「ちょっと……待ってくれ、安室君」
 シューズクローゼットから紺のランバンをチョイスして、安室は振り返った。淡々とした青い瞳が赤井に突き刺さる。
「なんです?」
「…いや、その……昨日は、すまなかった」
 安室は黙った。赤井も黙るしかなかった。しばしの沈黙の後、安室ははあーっと重く長い溜息を吐いてかぶりを振った。
「だって、あなた……」
 そこで言葉を切った安室は、赤井を一瞥して、そして「行ってきます」と出て行った。
 赤井は困惑する。昨夜はお互い気まずい空気のままベッドに入ったので、起きても安室はすげない態度を取るだろうと予想していたのだ。
 だって、あなた……、?
 俺が、どうした?

 シャワーから出て一通りのトレーニングを終えてからまたシャワーを浴びる。冷蔵庫に放り込んでおいたプラスチックボトルの水を喉に流し込んでいると、ダイニングテーブルの上に置きっ放しにしていた携帯が短く音を鳴らした。携帯を拾い上げメッセージを確認する。PCに詳細を送ったとの内容だった。
 昨夜ブラックと別れた後に大方の手は回しておいた。各々持っている書斎に入り赤井はPCを立ち上げる。メーラーを開くと受信フォルダの一番上が該当のメールのようだった。添付ファイルを開く。
 そこには期待していたよりも多くの情報が記されていた。ターゲットの出生関連、犯歴、逃亡中の居場所、ビザの種類、入国方法、etc. 中でも赤井の目を引いたのはその出生についてだった。
 シングルマザーの母親に双子の弟と育てられるが、弟は初等科に入ってまもなく病死。母親も過労と栄養失調による衰弱死で喪った。
 そして、もうひとつ。
 ジョゼフ・ヨシキ・ハスキーの婚外子。DOJ──アメリカ合衆国司法省──副長官。家族想いの敬虔なクリスチャンで有名な人物だ。
 皮肉なものだ。聖書の中では自分のでもない腹の子をヨセフは受け入れたというのに。現代のこの世界では、実の子をも手にかけてしまう非人道的な人間が多過ぎる。
 だからと言って赤井はターゲットに同情する訳でもなかった。仕事は仕事だ。いくら不幸な生い立ちであろうと、政府の裏事情に加担することになろうと関係なかった。腑に落ちているとは言えなかったが、裏の世界を完全に敵対視しているほど正義感に溢れている訳でもない。
 ところで、知りたいのはターゲットの現在の居場所だった。
 安室に訊けば一発だろう。公安警察官としての彼は怖いくらい優秀だった。今頃法務省か外務省辺りの『ツテ』に連絡を取って、その後の消息をすでに掴んでいるかもしれない。プライドの高い彼等も、『降谷零』には秘密を囁いた。
 かと言って、安室にその事を追及する気も赤井にはなかった。プライベートではパートナーであるけれど、仕事上でのそれではない。FBIと日本の公安警察官。どうやっても相容れないのだ。
 加えて、十中八九公安はターゲットを情報収集のために捕獲する腹積もりなはずだ。赤井は、情報をターゲットの口から漏らさないように命じられたのだ。まず目的が違う。どうしても、公安より先にターゲットを見つけなければならない。
 赤井は葉巻にマッチで火を点けて嗤った。
 自分達は愛し合っているはずなのに、お互いに秘密があり過ぎる。




 …おい、大丈夫か?
 遠くで声がした。方向すら見当がつかないくらい、彼には遠くに思えた。
 おい、おい。
 ここはどこだったか、必死に思い出そうとする。わかるのは、これが夢だということだけ。ここ数ヶ月でよく見る夢だ。
 聖母の像。衰弱し事切れた男性を抱いている。骨の浮き出たその身体は手足を投げ出し、もう動くことはないのだと見る者全てに悟らせる。聖母の穏やかだが哀し気な表情は、鮮明に思い出せるほど見慣れてしまった。
 大丈夫か?おい!
 身体中の血が抜ける感覚。震えてくる。血が足りないのだ。ガタガタと歯が上手く噛み合わない。脳の中枢に針を刺されるような痛みが襲う。彼は聖母を見上げた。
 突然、視界が反転する。
 床に転がるモノ。全身黒ずくめの男。彼が『自分』だと思っていた男。暗がりに溶ける、褐色の肌をしている。
 その男に手を伸ばした。その瞬間、また声がした。先ほどまで聞こえていたものとは違う、鈴の鳴るような声。今度ははっきりとクリアに聞こえた。

 大君

「もうやめてくれ明美!」
「赤井秀一!!」
 はっと赤井は目を開けた。視界が曇っている。否、暗闇だったからそう感じただけだった。
 窓から差す月の光が、目の前にいる人物を照らす。怖しいほど美しい顔だった。その顔が、眉を寄せて悲痛の表情をしている。既視感。額からこめかみへと汗が流れた。赤井は重い唇を開いた。
「あむろ、くん………どこか、痛いのか……?」
 安室はさらに眉間の皺を濃くした。すっ、とタオルで赤井の汗を拭く。柔らかい感触に赤井は呼吸を深くした。
「赤井……」
 小さく安室は赤井の名を呼ぶ。赤井はまた目を瞑った。

 目覚めたとき安室は横にいなかった。随分と天気の良い朝だ。白い壁が重い瞼には眩しい。赤のバルーンはまた増えていた。
 背中が汗に塗れて気持ち悪い。頭痛の名残りもあった。シャワーを浴びるため赤井は浴室に向かう。頭から水を被れば少し思考がクリアになった気がした。
 浴室から出ると、洗面台に置いていた携帯が画面を光らせ通知を知らせていた。たった一言。それだけで十分だった。
『Found him.』
 赤井は携帯を洗面台に放り投げた。

 ダイニングでは、安室がテーブルの席に着いて (くう) を見ていた。いや、何も見ていなかった。ただ視線を落として、無言で座っていた。
 それだけで安室は絵になった。誰も干渉できない、完成された個体。
 離れていてもわかる長い睫毛が瞬き、角度によっては灰色に見えるその透ける碧眼が、ふっと赤井を捉えた。
惚れた弱味だと赤井は思った。この男になら、赤井は殺されても良いと思った。
「すっきりしました?」
 淡々と安室は問い掛けてくる。赤井はろくに拭いてもいない濡れた髪を掻き上げて、ああ、と頷いた。
「マリファナよりも?」
 耳を疑った。赤井はゆっくりと目を凝らして、安室を観察する。相変わらず表情は読み取れない。
 怒ってもいない。
 ──笑ってもいない。
「知ってましたけどあなた度胸がありますよね。警察官の僕と一緒に暮らしてて堂々と大麻やるんですから。ていうか、ビュローの人間がいいんですかそれ。ご自分の国を舐めすぎじゃないですか?DEAも名ばかりの機関じゃないだろう」
 言い連ねて安室はふうと一息吐いた。沈黙が落ちる。ようやく声を出したのは、やはり安室だった。
「別に……咎めるつもりもありません。吸いたければ吸えばいい。ただ、僕はあなたのことが好きだから、手を出す前にせめて何か言って欲しかった」
 赤井は何を言えばいいのかわからなかった。わからないなりに考えたが、結局口を突いて出たのは、ちんけでありきたりな台詞だった。
「……すまない」
「謝って欲しい訳じゃないんだよ!」
 声を荒げた安室は、またそれきり黙り込んだ。沈黙が永遠に思えた。
 もう、音を立てて崩れ落ちていくものが、手から零れ落ちていくものが何か、赤井には考える力もなかった。



 決行開始は午前零時。あと一時間を切った。チェリー味の葉巻を口に赤井はライフルの調子を整えた。
 持っていたマリファナの葉はもう全て捨てた。紙巻き機も、ごみ箱送りにした。安室は吸いたければ吸えばいいと言った。けれど赤井は、本当の不誠実な男にはなりたくなかった。
「帰ってきたぞ。シュウ、やるのは最後の晩餐まで待ってやってくれ」
 ジェイムズ・ブラックが今回の作戦用に本国から調達したFBIの仲間が、何が面白いのかイヤホン越しに下品に笑い声を上げた。少々騒がしいが実戦においては赤井にも引けを取らない頭脳と決断力がある。ホテルのロビーを固めた彼は、今からターゲットはメインビル最上階にあるラウンジに向かうと伝えてきた。
 赤井は、自分よりもターゲットに近い位置で待機している別の仲間に無線を入れた。万が一、第一発が外れた場合の配置だ。赤井にとっては気休めにもならないが、ルールには則っている。
「部屋は?見えるか?」
「はい」
「照準は?」
「良好です」
 ライフルスコープから顔を離し、紀尾井町の象徴でもあるホテルを眺めた。メインビルの最上階である17階のラウンジは円盤状に張り出していて、客室である下層階からは独立した造りになっている。ターゲットは14階の部屋だ。赤井のいる北側の大学の建物からの距離はおよそ620ヤード。
 造作もない。任務をしているという認識すら忘れてしまうほどの狙撃だ。
研究室の狭い窓から室内に身を戻すとき、ちょうど建物の脇の道路を黒塗りのセダンが何台も通って行ったのが確認できた。来たか。赤井が目を凝らしていると、遅れて見慣れた白のFDもやってきた。
 ホテルに配置された仲間から無線が入る。公安達が集まってきた。赤井のいる場所からは大学の学舎に阻まれてホテルのエントランスまでは見えない。待機を命じて、赤井は再びスコープ越しにラウンジに目をやった。
 回転式のその窓際の席にターゲットが着いた。ビュッフェ形式ながらなかなか豪奢な夕食に、ターゲットは胸の前で十字を切り食事を進めていく。
 最後の晩餐、とはよく言ったものだ。ダ・ヴィンチの有名な絵画の、端から順に赤井は頭の中で聖人達の名前を挙げていった。対してターゲットの最後の晩餐は、周りに弟子どころか仲間のひとりも見当たらない。
 食事を終えて席を立ったターゲットを見送り、傍らに置いた腕時計を見やる。十五分を切った。赤井は携帯を取り出して、何度も掛けた番号を呼び出した。4コールで彼は出た。
「仕事前に呑気なものですね」
 彼は呆れたように言った。電話の向こうはやけに静かだった。
「君の声が聞きたくなった」
「罵声、浴びせ足りなかったみたいですね」
「そうだな。君にしか従順じゃない俺をもっと罵ってくれ」
「よくそんな気障な台詞思い付くな」
「安室君」
 安室は返事もせず、赤井の言葉を待った。顔が見えない分、赤井は、ゆっくりと言葉を発した。
「夢を、見るんだ」
 安室は何も言わなかった。ただ、赤井の話そうとすることを、聞こうとしているようだった。
「いつも曖昧にしか思い出せないんだが」
 前置きして、赤井は続けた。
「必ず、聖母を見上げるところから始まって、俺は……血を流しているんだ。夢だと理解した途端、今度は俺はもうひとりの『俺』を見下ろしている。でも気が付くんだ。そのもうひとりの『俺』は……安室君、いつも、君なんだ」
 電話の向こう側は依然として静寂だった。赤井は再び口を開く。時計の針の音が、無情にもタイムオーバーまでのカウントダウンを始めていた。
「君は血を流しながら横たわって、俺に助けを求めるように手を伸ばしてきて、そこで声がする………もう、夢でしか聞くことのできない、懐かしい声なんだ」
 赤井が言葉を区切るとまた静寂が落ちる。零時まで、あと五分。
 なるほどね、と安室は不意に発した。そして話し始めた。赤井の初めて聞く話だった。
「ここ数ヶ月寝てるときにうなされてたのはその夢のせいか」
 その言葉に赤井は内心驚いていた。うなされている自覚がなかったからだ。なんとなく眠りが浅く、起きたときにひどい不快感と頭痛に襲われてはいたが、安室がそのことに気が付いていたとは考えもしなかったのだ。
「気付いてたのか…」
「そりゃ毎晩隣で寝てるんだから当たり前でしょう……でも、まさかその夢に僕が出てくるなんてのは、さすがに見当つきませんでしたけど。僕は、てっきり……」
 途切れた言葉の続きを待つ赤井に、安室はふっと息を零して、気を取り直したように「赤井」と名前を呼んだ。
「なんだ……?」
「いいこと教えてあげます。『目先のことに囚われて、狩るべき相手を見誤らないで』ください」
「………それは、」
「じゃあ、待ってますよ。僕の愛しい人」
 ぷつっと通話が切れた。赤井は手の中の携帯を眺めて、そして思い立ったように窓から身を乗り出した。ライフルの照準器を望遠鏡代わりに狙うべきホテルのターゲットを覗き込む。
 14階の部屋に現れたターゲットは、窓際のデスクに近付き備え付けのメモになにか書き始めた。赤井は目を凝らす。
『It is finished.』
 無線から「I don't get that means,」と仲間の声が聞こえる。
 It is finished.
 赤井は考えた。
 終わった…?何がだ?
「っ……!Damn it…」
 唐突に頭に刺すような痛みが走った。くそ、こんなときに。目を細める。ターゲットは窓辺から姿を消した。
 Where's he gone?
 無線から入る声がやけに耳に障る。赤井は頭を押さえた。くそっ!頭の中で怒鳴る。まるで押し潰されるような圧迫感に唸った。おかしい。これは一体なんだ。やめろ。脳が潰れる。おかしい。薬の副作用だとでも言うのか。まさか。やめろ。いい加減、

「やめてくれ!」
 怒鳴り上げた瞬間。
 赤井はもう久しく目にしていなかった、返すことのできなかったメールの文面を思い出した。

『大君…
もしもこれで組織から抜けることができたら
今度は本当に彼氏として付き合ってくれますか?』

 "He said, It is finished: and he bowed his head, and gave up his spirit."

 赤井の脳裏に不意にイメージが浮かんだ。何度も夢に見た、憂う聖母。腕の中の痩せこけた男。そうだ…あれはミケランジェロだ。
 なぜ、今思い出したのだろうか。
 聖母の子の、最期の言葉。
 ''It is finished.''
「『目先のことに囚われて、狩るべき相手を見誤るな』……」
 赤井は押さえていた頭から手を離し、そして口を覆った。辿り着いた可能性に思考が固まる。
最後の晩餐。イエス・キリストの周りには旅の仲間がいた。
「あ、むろ、くん」
 声が漏れる。赤井はライフルを投げ捨て、研究室から飛び出した。エレベーターに乗り込んで待機中の仲間に指示を出す。
「目標を変える!男と公安の動きを見張っていてくれ」
「え?どういうことです?」
「シュウ?何が起こったってんだ?」
「蘇ったようだ」
 あの世から。
 建物を出てキャンパスを抜けたところに立つ教会へと走る。中庭には、白く浮かぶ聖母子像が暗闇にひっそりと立っていた。
 違う、ここじゃない。
 引き返して大通りに停めたマスタングに乗って、赤井は初っ端からアクセルを全開に踏んだ。すぐに交差点で曲がり新宿通りを抜けて北に向かう。零時を過ぎた真夜中だからか、法外な速度で飛ばしても他への害は最小限で済むだろう。実際のところ法定速度など気にする余裕は今の赤井にはなかった。
 一刻も早く、安室に会いたかった。



 根拠も確証もなく赤井はそこに辿り着いたが、どうやら嫌な予感ほど当たるらしい。大型のバイクと黒塗りの車が一台、近代的な建物の前に停められていた。四方に張り出たような造りは教会にしては珍しく、おそらく上方から臨んだときにクロスになるように設計されたのだろうと想像できる。
 赤井は革のジャケットの懐に手を忍ばせて、拳銃に触れた。ベレッタのモデル92。古い物だが手入れは怠っていない。護身用には充分だ。
 北西に回り込んでエントランスの前で銃を構える。ここからでは聖堂の中の様子までは窺えない。舌打ちをしてから自動ドアをこじ開け、足音を立てないように侵入する。
 暗い。
 祭壇の方向からか、微かに明かりが漏れていた。一歩、二歩と進んで行く赤井の視界の隅に、それは、突然映り込んだ。
 息を止めた虚ろな身体を抱いた、聖母。
 ミケランジェロの有名な彫刻を模したピエタ像。
 思わず息を呑む。
 何度も夢に見たそれだった。彼女の憂い気な表情までそのままだ。
 引き金に掛けた指先が震える。心まで打ち震えた。
「明美………」
 声にならない声で、赤井は呟いた。
 何故、忘れていたのだろう。
 ──あれはまだ、彼女が生きていた頃のことだ。




『大君、マリア様が処女のまま妊娠したなんて話、本当だと思う?』
『………どうだろうな。生物学的には有り得ないが、あれは天使だの悪霊だのが出てくる世界の話だ。信じたい奴だけ信じればいい』
『的を得ない答えだね……私はね、都合の良い話にしか思えない。聖書なんて詳しくないけど、処女崇拝もいいところだよ。しかもほら、無原罪の御宿り?とか言うじゃない?存在からして人の罪から免れてるなんて、良い子ちゃんが過ぎるよ。セックスすることが罪、みたいに聞こえる』
『どうしたんだいきなり』
『…ねえ、私ね………。やっぱり、なんでもない』
『………そうか』
『あ、ねえ、大君。今の任務が終わったら旅行しない?ヴァチカンのね、サン・ピエトロ大聖堂に行きたいの。この間講義で行った教会にピエタ像のレプリカがあって、本物が見たいのよ』
『ピエタ?』
『十字架から降ろされたイエス様と、その身体を抱く哀しみに暮れるマリア様の像よ。すごく奇麗だったから……』
『……そうだな。任務が終わったら…』




 結局、ローマどころか旅行のひとつも連れて行けなかった。
 赤井は、彼女の遺体の解剖結果を聞かされるまで、知らなかった。

 彼女が、堕胎手術を受けていたことを。




 パンッ、と鋭い破裂音に赤井は大聖堂に注意を向ける。小さく呻く声が聞こえる。破裂音がまた続いた。心臓が握り潰されたように、焦燥に鼓動を打った。
 抜き足すら忘れ、赤井は走った。
 走った先で目に入ったのは、薄暗い聖堂内で、まるで十字架に祈るように膝を折った、男の姿だった。
 赤井は目を疑った。
 月を覆っていた雲が晴れるかのように、十字を象った巨大な天窓から月明かりが漏れる。
「がっ……!は…!」
 膝を折った男が苦しそうに呻く。
 月明かりに照らされたその男は、赤井のよく知る、愛しい男だった。
 全身から血の抜ける感覚がした。
 祭壇の奥、天井まで続く十字架の麓に、銃を前方に構えた男がいた。
 考えるより先に赤井は、その亡霊に左手の銃口を向けた。
 一発目。
 肩を撃たれた男は、痛みに呻きを挙げ銃を床に転がした。
 二発目。
 命中した太腿から血を流し、男は膝から崩れ落ちた。
 三発目。四発目。
 ダ・ヴィンチが描いた食卓を模した祭壇の下に平伏し、男は動かなくなった。
 血の海が、辺りを覆った。
「もうやめろ赤井!!」
 五発目のトリガーを引く直前に、制止の声がした。
 遅かった。
 弾丸がもう動かなくなった男の身体を弾ませた。
 赤井は静かに左手を降ろして、そして愛しい男を見た。
 胸を押さえ、愛しい男は吐き捨てた。打って変わりその言葉は、荘厳な静寂の中に溶けていった。
「とっくに…死んでる……」
「安室君!!」
 赤井は走った。祭壇を見上げるように配された信者席が邪魔だった。
 椅子の上を土足で走る。
 駆け寄って安室の身体に触れた。ボディアーマーも付けていない。咄嗟に首の総頸動脈に指を置いて脈拍を測ろうとしたが、どうも上手く脈を掴めない。手が震えていた。
 ようやく捉えた脈は異常に早かった。赤井は凭れてくる安室を気道を確保した状態で寝かせ、見下ろした。
「安室君……おい……安室君!返事をしろ!」
 返事はない。
 褐色の肌が青ざめていく。
 ぬる、と気味の悪い感触が左の手のひらに伝わる。一張羅の胸元が血だらけだった。
 その手で赤井は携帯を取り出した。話のわかる知り合いの医者にコールを掛けた。とりあえず事情は後だ。そう言い捨て携帯を床に投げ、赤井は安室の着ているジャケットの前を広げ、血塗れのシャツを破り裂いた。弾は二発、胸に撃ち込まれていた。
 赤井は革のジャケットを脱ぎ、自身の黒のシャツを剥いで安室の胸に押し付けた。止血を試みながら肺に耳を近付ける。ヒュ、と、息を吸っているのか吐いているのかわからない短い呼吸の音がした。
「クソッ!」
 まずい。肋骨が折れて肺に突き刺さっているのかもしれない。いつもは活気に満ちた肌がさらに血色を失っていくのが月明かりでわかった。酸素濃度が下がっているのが一目瞭然だった。
肺に空気が入り過ぎて心臓を圧迫し始めたら手遅れだ。
 呼吸のままならない安室の様子に、赤井は立ち上がって入り口の管理室まで急いだ。施錠されたガラス扉を突き破り、室内を物色する。なけなしのガーゼでは心許なく、赤井は救急箱を床に投げ付けた。
 ようやく見つけたビニール袋とガムテープを手に、安室のもとに戻る。銃創部位にビニール袋を押し当て、三辺をガムテープで塞ぐ。
 シャツを当てた部分の止血を続けながら、赤井は願った。神なんて彼女が死んだときから信じていない。赤井は彼女に願っていた。
 俺の命を君にくれてもいい。だから、この男を助けてくれ。
 安室の鍛えられた上半身を抱き上げる。力のない腕が床に垂れた。震えながら触れるだけのキスをする。いつもは熱く応えてくれる唇が、今は目も当てられないくらい紫に染まっていた。
 最後に電話越しに聞いた、自分にだけ向けられた言葉を思い起こす。
 来たぞ、安室君。待っていると君は言っただろう。目を醒ませ。俺を、その美しい瞳で見てくれ。頼む。明美……お願いだ。
「生きろ………降谷零……」
 赤井は項垂れて呟いた。
 と同時に、腕に抱いた安室の呼吸が、僅かに、本当に僅かだが落ち着いてきたように赤井には見えた。
 目を見開く。重そうに持ち上げられた瞼から、美しい、透けるようなブルーの瞳が赤井を捉えた。
 赤井はその瞳の中に自分を見つけた。おぼろげな輪郭だった。想いが通じ合った瞬間を思い出して、胸を震えさせた。安室の唇が開く。赤井は首を振った。
「やめろ……喋るな、」
「あか…い……はは、……泣いて、る、のか……?」
 その言葉で赤井は初めて、自分が涙を流していることに気が付いた。投げ出していた腕を持ち上げて、安室はおぼつかなく赤井の頬に触れる。赤井の痩けた頬が血で汚れた。
「久しぶりに……見る、な。泣いてる………赤井。はっ、はぁっ……、あーー…俺、今度こそ、死ぬ、のかな」
「馬鹿なこと言うな。俺が死なせない。もうすぐ救急隊員が来る。いいか、気をしっかり……」
 赤井は言葉を途切れさせた。重傷を負っているというのに、安室が微笑んだからだ。赤に染まった指先が赤井の唇に触れた。形を確かめるようにその指は動き、赤井が口を開くのを阻止した。
「あなたの、この、うすい……唇、に……キスするの、好き、でした……あなたの、瞳に…僕が、映るのも。はは、は……最期に、あなたに、っ……さんざんに、抱かれたかった、なぁ………」
「…ッ……何を、言って……、これが終わったら君が気をやるまで滅茶苦茶に抱いてやる。だから、そんなこと…」
「ははっ、あんた、なに……真面目にそんな、宣言……っあ…」
 シャツを押し当てた部分の出血が止まらない。救援はまだなのか。肺の方はなんとかなったとしても、これでは出血過多でショック状態に陥るのも時間の問題だ。唇に触れる指が心なしか冷たくなってきた。
 頼む。明美。まだ早い。頼む。お願いだ。
 連れて行くな──
「安室君!!!」
「は………ばか……さいごまで、それ、かよ……」
 入り口が騒がしくなった。
 あっちだ!担架持ってこい!そんな声が聞こえてくる気がした。
 救いの手を待たず、安室はまた目を閉じた。






 ホテルにいたターゲットは、公安に捕まる直前にシャワールームで服毒し、搬送先の病院で死亡が確認されたと赤井は報告を受けた。同じ顔をしたふたりの男が同じ日に死んだことは、世間ではなかったことになった。
 日本は平和だった。
 テロリストなど入国してもいないし、戸籍を持たない人物などもはなからいなかった。
 ジェイムズ・ブラックは赤井に「ご苦労」と言った。それ以上やそれ以下の言葉はなかった。
 結局、あの兄弟達が日本でなにをしたかったのか、今となっては誰も知る術はなかった。
「母親が日本人だったんですよ」
 安室は病室のベッドで窓の外を見つめながら言った。
 関口の教会で被弾したあの後、安室は赤井の知り合いの個人病院に運ばれ処置を受けた。運ばれたとき安室の意識はなく、肺損傷から大量の血液が胸腔内に溜まり緊急に手術する必要があった。
 助かったのは奇跡だった。
 赤井は憔悴し切っていたが、術後穏やかに眠る安室の頬を撫でただけで、彼はその場を後にした。入院なんて心優しい措置はなく、次の日安室は眠ったまま大きな総合病院に移された。
 赤井は、見舞いにと持って来た真っ赤な薔薇をベースに活けながら、耳を傾けていた。
「熱心なクリスチャンだったみたいで。あの教会で洗礼を受けたのがきっかけで、来日中のハスキーと出会いそして双子をもうけた……最後の舞台に選んだのにも納得がいきます。全てが始まった場所で全てを終わらせたかったんでしょう」
 さざ波のように穏やかな声だった。赤井はベッドサイドにアームチェアを持って来て腰掛けた。安室はまだ、空を見つめたままだった。
「あそこで死ねたのは本望だったんじゃないですか。日本警察としては、情報がまたひとつ失われたことになりますけどね」
「そして、俺達は情報を守った……か?」
 安室は向き直って目を細めた。唇に弧を描く。魅惑的な笑顔だった。
「やっぱり僕達って相容れない運命ですね。これから先も、きっと」
「……それなのに、君は俺の告白を受け入れてくれたのか?」
 きっと部下からであろう数ある見舞い品から真っ赤な林檎を取り、手の中で転がす。
 安室はふっとまた笑って、ベッドのリクライニング部分に上半身を預けた。首を傾げながら赤井を見上げてくる。
「あなたに好きだって言われたとき、妙に溜飲が下がりましたよ。何故だかわかります?僕達の関係って、生産性がないんですよ」
「…生産性?」
「子孫を残せないってイミ」
 赤井は眉を寄せた。安室が何を言いたいのかわからない。わからないのに、やけに心臓が早鐘を撞いた。
「どう頑張ったって僕とあなたじゃ子供はつくれない。僕の言いたいこと、わかりますか?」
「……わからない」
「じゃあ教えてあげます。宮野明美さんの遺体解剖を指示したのは、ご存知の通り警察なんです。彼女は、あなたとの子供を身篭って、そして堕ろした。あなたはそんな事実すっかり忘れて、再会した男の僕に愛を囁いてくる。女性とセックスするの、怖いんでしょう?」
 林檎を弄る手を止めて、赤井は口を開いた。そんなこと思ったこともないのに、ひどく図星を突かれた気分になった。
「男だとか女だとか関係ない。俺は、もう君としかセックスしたくない」
「僕だってそうだ」
 赤井は安室を見た。笑顔が悲痛の表情に変わっていた。彼のブルーの瞳に自分が映っていることに、今更ながら気が付いた。
「心底自分が男でよかったと思った。だから……自分が嫌になった。あなたにも、明美さんに対しても後ろめたくなった。あなたが毎晩のようにうなされてるの、正直怖かったです。寝言で彼女の名前を呼んでたから…。僕は、彼女に許されていないと思ってた。明美さんを犠牲にして、赤井、あなたを手に入れたんだから」
 安室の眉根が皺を作った。
 赤井は困惑していた。安室が内心でそんなことを考えていたなんて、今まで思いもしなかった。
 自分を殴りたい。恋人同士なのに、一緒に暮らしているのに、愛を囁くばかりで赤井は安室の深層までは踏み込んでこなかった。
 こんな状態になるまで、ふたりの間に確実に溝があったことに、気が付かなかった。
「君は……一体、何の話をしているんだ?何故安室君がそう思う必要がある?確かに、あの夢は気持ちの良いものでは決してなかったが、俺はあの夢のおかげで、君を守れたと思っているよ」
 訳のわからないといった面持ちで安室は見てきた。一呼吸置いて、赤井は話した。昔話を語るように。
「聖母の像が出て来る、と話しただろう。あの教会にあった、聖母とイエスの像のことだったんだ。はっきり思い出した。以前……明美がまだ生きていたとき、その話をしたことがあった。あれはレプリカなんだ。ヴァチカンにミケランジェロが作った実物がある。明美に、実物を見に行きたいと言われていたが、結局、どこにも連れて行ってやれなかった…」
 安室は口を閉ざしたまま、赤井の言葉を聞いていた。赤井は林檎を弄るのをやめ、フルーツが乗った籠の中にそっと戻した。
「明美と…お腹の子を犠牲にしたのは俺だ。その犠牲の上に今の俺がある。こんなこと何故忘れていたんだろう。明美が教えてくれていたんだろうな。あそこに行けと。今回の件とは無関係とは言えど、なにか因縁を感じるよ」
「…夢、まだ見るのか」
 赤井は首を振った。今回の件が終わってから三日、あの夢は見ていなかった。
 憑き物が取れた気分だった。同時に、隣に体温がないことに落ち着かなくもなる。
「不思議だよ、大麻でもあんなに深く眠れなかったのに……」
「まだ吸いたいですか?」
「君の嫌がることはもうしないさ」
 赤井は身を乗り出した。安室の唇に軽く口付けを落として、瞳を覗き込む。
 いつ見てもそれはガラス細工のように繊細で美しかった。この瞳に自分が映っているのは、とても甘美な気持ちになった。
「だから君も、後ろめたさなんて感じないでくれ。君のものになったことを俺は、後悔なんてしたことがない。ふたりで明美に助けられたんだ。これ以上の祝福はないと思わないか?俺達は、俺達だけの愛の形を築いていこう」
 安室は真っ直ぐ赤井を見上げていた。見上げて、そして、また微笑んだ。
 再会した頃、赤井がどうしても引き出したかった表情だ。
「じゃあひとつ苦言を呈します」
「ん……なんだ?」
 唇をもう一度合わせて、赤井は促した。
「どこの世界に、恋人の死に際まで偽名で呼ぶ男がいるんです」
 その言葉に赤井は目を瞬かせた。呼び方に関して何か言われたことがなかったから、少なからず驚いたのだ。
 口を開く。
 柄にもなく緊張した。
「………零」
 安室は破顔した。ほんの少し少年らしさが混ざるそれは、赤井の自惚れではなく、幸せそうだった。
「零……零、君」
「くん?はは」
「うん……どっちがいいかな」
「どっちでも……」
 降谷零は赤井に手を伸ばした。後頭部に回したそれを自分に引き寄せる。
 赤井は目を閉じた。








 ローマ皇帝コンスタンティヌスが創設したその建物は、まさに時を超えた芸術の様式美の集合体であることを誇示するように赤井の眼前に広がった。仰ぎきれない天井はまるで遥か彼方のように高く、緩やかな曲線を描いている。均整と調和の取れた美に目を見張る絢爛さ。まさにルネサンスとバロックの融合体として、世界最高峰の宗教建造物だった。
 立ち止まる赤井を人々は煩わしそうに、ときに身体をぶつけながら通り過ぎて行った。
 ''Scusi''、''Entschuldigung''、''Perdon''、行き交う言語は様々で、久しぶりに味わう日本以外の空気の新鮮さに意識が研ぎ澄まされていく気分だった。
「ほら、赤井、こっち」
 聞き慣れた声がして、赤井はその方向を見た。降谷が子供を呼び付けるように、こっちこっちと手招きしている。
 雑踏を掻き分けて赤井は彼に近付いた。入り口の門を潜ってすぐの、右側の側廊に当たる部分にそれはあった。
イエス・キリストの亡骸を抱いた聖母の彫刻。ミケランジェロがまだ20代半ばの頃に完成させた傑作だ。
 自分でも驚くほど、赤井は落ち着いていた。落ち着いて、その白く滑らかな聖母子像を見上げた。
 永遠とも感じられるほどにその像を注視していた赤井に、降谷は独り言のように言った。
「このマリア……随分と若く見えますね。イエスが磔刑に処されたとき、彼女は初老でもおかしくない歳のはずだ」
「マリアは処女のまま懐胎したからな。処女性を鑑みてのミケランジェロなりの解釈なんだろう……」
「へえ………」
 それきりふたりは黙り込んだ。どれくらい時間が経ったのか、ふと、赤井はぽつりと零した。
「ずっと…疑問だったんだ」
「…え?」
「何故、明美は……この像を見たいと言ったんだろうか。『死』を表した、この像を。亡くなった子を尊ぶなら、生まれたばかりのイエスをマリアが抱く聖母子像が沢山あるだろう。なのに、何故……」
「…なんとなく、わかりますよ」
 赤井は隣の恋人を見た。降谷は、まっすぐピエタを眺めながら、続けた。
「愛する人に、死の瞬間まで側にいてもらいたい。子供でも、恋人でもそれは変わらない。亡骸すら腕に抱けなかったことを、きっと、ここにきて昇華させたかったんじゃないですか」
「…………」
「だって、ほら」
 赤井は再びその彫像を見上げた。降谷が言葉を紡ぐ。
「哀しい場面のはずなのに、彼女の表情には慈愛すら感じられる。生への希望が見て取れませんか」
 我が子を見下ろす聖母。
 不意に頭の中で、彼女の可憐な声が聞こえてきた気がした。
 嘘を吐き続けた。
 騙し続けた。
 労わってやれなかった。
 ──最期に、側にいてやれなかった。
「……行きましょう。まだ先は長い」
 降谷は赤井の頬を拭って、先を歩いた。
 赤井は、彼女に笑い掛けてから、彼の後に続いた。

 信じる限り、生き続ける。

「零君、帰ったら裏の道のイタリアンでも食べに行こう。本場の味とどう違うかな。来月は大統領選も大詰めだから、誰が当選するか賭けをしないか?後は……」




pixiv掲載/16.09.19
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