薬指に先約を

 彼女には婚約者がいた。あの綺場家の息子で同い年のシオンという少年だ。
 互いによき友達だという認識ではあったが互いに恋愛関係に発展しない、親同士の付き合いの延長戦という認識だった。
 しかし、それは突如、綺場家の買収という形で崩壊した。
「お父様…、今のは本当ですか?」
 実の父親から聞かされた言葉に千影は眉間に皺を寄せながら問い返す。しかし、父親からの答えは変わらなかった。
――――――綺場家との婚約を取り消した。
 それが先ほど父から聞かされた報告。シオンはすでに跡取りの立場ではない以上、すみやかに婚約を取り消すように父が手早く回したに違いない。何せ我が家唯一の娘なのだから。
 若干年の離れた兄はすでに父の後を次ぐために日々、父の片腕として慌ただしく過ごしているのは千影とて知っていた。
 だからこそ、父は嫁にやらねばならぬ千影を大切に思うが故に、綺場家を選び、シオンの育ちのよさを知って千影の婚約者にしたてあげたのだから。
 当然と言えば当然の結末ではあったが、千影が心配だったのは綺場家そのものだ。
 幾度となく会食などを交わした仲である以上、その行方を心配するのは当然だろう。いくら気持ちが伴わない婚約だったとしても。
 その後父親から聞き出せたのは、両親と執事は一旦遠方の親族のもとへ、シオン本人は自分の意思で残ると独り暮らしを始めたということだった。
 独り暮らしなど、一番縁遠かっただろうにとその心労を勝手に想像して千影は胸を痛めた。
 会って話したいと思う気持ちはあったが、今の自分が会いに言ったところで、ただの嫌がらせに思われてしまうかもしれない。
 無力とはまさにこのことをいうのだろうなと千影は下唇を噛む。
何もできやしない。それでも何もせずにはいれず、送り迎えをしてくれる執事にルートを変えるようにお願いしたりもした。
見えた姿は三人。シオンと見慣れない女子と男子が一人ずつ。
たしかヴァンガードというゲームを通じて友達が増えたんだと最後会った日に言っていたはずだ。
それが彼らなのかもしれない。ああ…自分の烏滸がましい気持ちなど吹き飛ばすような現実に千影は震えた。
シオンのことをただ可哀想だと高をくくった己が恥ずかしかった。それ以来千影はシオンを気にかけながらも、出会おうとしなかった。
きっと邪魔になってしまうだろうと思っていた。自分などいなくても綺場シオンは己の力で立ち上がると信じていたから。

「千影お嬢様、お客様がお見えです」
「?今日はどなたもいらっしゃる予定はなかったはずですよね?」
「はい。アポイントもないかたので、本来はお帰りいただくところなのですが…」
 何故か執事は言葉を濁す。学友であれば事前に連絡が来るはずだし、と千影も首をかしげながらすぐに用意して行くから客間に案内するように指示した。去った執事の表情を見るに面倒な客ではなさそうということはわかったが、さてはて。
 鏡を手にし、メイクの崩れがないことを確認すると前髪をちょいちょいと直し、髪のはねがないことをチェックして千影は自室を後にする。
 自室は二階で、客間は一階だ。すぅ、と深呼吸をして千影はきりり、とした表情に切り替えると客間へと足を踏み入れる。
「お待たせいたしました」
その声に客間に通されていた客人が千影に振り向く。
金色の髪が窓から差し込む光を反射する。海のような青い瞳が千影を写す。
「シオン、さん…?」
 驚きに絞り出すような声で久方ぶりの名前を呼ぶ。先ほど作り上げた表情はすでにがらがらと崩壊し、目の前の客人に釘付けになっていた。
「お久しぶりです、千影さん」
にこりと差し当たりの無い笑顔を浮かべて綺場シオンは千影の前に再び現れたのであった。
 執事がいれた紅茶に口をつけながら、千影はちらちらと目の前のシオンを見てしまう。本来であればこんなことはしないのだが、目の前にいる人物が人物なのだから仕方ない。
「急にいらっしゃるなんて、びっくりしました」
「すいません。アポイントを取るにも今の僕では難しいと思ったので」
 通りで執事が言葉を濁したわけだと千影は納得しながらなんとも言えない表情を浮かべる。
「…。今日はどのような用件でいらっしゃったんですか?」
「千影さん、貴女と婚約を結ばせて欲しいんです」
「…は?」
普段ならば、ださないであろう素の千影に執事が"お嬢様"とたしなめる。ハッとした千影は混乱しながらも思考をまとめて口を開く。
「ごめんなさいシオンさん、急にそう言われても混乱して…」
「僕の今の身分からこんなことを申し出るのは礼儀知らずだと言われても仕方の無い行いだと承知しています。それを承知の上で、今日は参りました」
 参りました、と言われてもだ。
 それがどうして婚約を結びにくることになるのかと千影は内心疑問だらけで困惑するしかない。
「シオンさん…今はどうされているのですか?」
「一人の生活という意味でしたら、一応はそれなりに。
 まあ、友人達に色々教えてもらってはいるので新鮮な体験ばかりではありますけどね」
 利用価値があると言う意味でなら納得は行くが、だからといって今だに綺場家を取り戻せていないシオンが何故このタイミングで?という疑問は千影の中に当然沸いていた。
「そうなんですね。今日、その、婚約を申し出て頂いたということは、綺場家を取り戻す算段がついた、ということですか?」
「…ええ。流石千影さんですね。理解が早くて何よりです」
「ですが、あの、ただ疑問がありまして」
 どうぞとシオンは視線で促してくるので、千影はそのまま言葉を続ける。
「私と婚約を再度結びたいというなら、今の段階である必要はなかったんじゃないですか?手筈が整っている以上、取り戻されてからでもよかったはずじゃ…」
「…ああ。そうですね。焦っていたせいもあります。貴女が他の誰かと婚約してしまう前に、お話を通しておきたかったと言ったらどうしますか?」
 千影の言葉に、シオンは何処か納得の言った表情をしたかと思えば少し含ませるような今まで見たことのない笑みを浮かべて千影へと投げかけてくる。
 どう、と言われても、そんな感情をぶつけられたことなどない。ただ、その意味に名前をつけるとするなら。
「この気持ちが、恋と呼ばれるものかはわかりません。だから、僕を待ってもらえませんか。ふさわしい立場になって今度はちゃんと迎えにきます」
 おとぎ話の王子様のような台詞に、千影はどきどきしてしまい視線を泳がせてながらも最後にはちゃんとシオンに視線を向けて頷く。
「私も、まだわからないけど、これから、シオンさんをもっと知っていきたいです」
「是非。婚約のあかつきには、僕のことを名前だけで呼んでくださいね」
 にっこりと絵になるような笑みを浮かべる自分の王子様に千影はたじたじである。そんな姿を執事だけが微笑ましそうに見守っていた。



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