一番必要としていたもの
徐に瞼が押しあがった。…いつもの見慣れた景色が広がるはずだったのに、何故か目の前に広がった光景に千影は硬直した。
整った顔。誰かと問う前にその答えはただ一つなわけだが、どうしてそうなっているのかと声を上げるのをなんとか飲み込む。
昨日の夜、自分がどういった行動をとったのか必死に記憶を遡ろうと目を瞑った。
確か、此処の所は仕事が詰まりに詰まっていたので今週は一切キャピタルに顔出すこともできなかったし正式的に付き合い始めた櫂とすら連絡はままならず、もどかしい気持ちを抱えてはいたとはいえ、このシチュエーションは想像にしていなさすぎる。
…バクバクと煩い心臓を黙らせるように小さく深呼吸を一つ。
視界をきょろきょろと動かしてようやく気づいたのは、自室じゃない。
むしろ幾度も訪れていた櫂の部屋の内装であって、掛布団もそれを物語っていた。
此処まで来て、思い始めたことはもはや昨夜の自分を思い出したくないという気持ちだった。思い出すほど自分が恥ずかしさで死にたくなるのが予想できるので、その場で千影は頭を抱えてしまいたいと思っているほどだ。
「さっきから百面相して楽しそうだな?」
突然かけられた声に小さく悲鳴をあげて千影は顔を上に向けると、先ほどは静かに眠っていたはずの櫂の瞳はぱっちりと千影を見下ろしていた。
「え、えへ、おはよう?」
「…昨日のこと、覚えているか」
誤魔化すように笑いながら千影がそう口にすると、櫂は目を細めて挨拶をスルーして問いかけてくる。
今一番聞かれたくない事ナンバーワンに輝いているわけで、引きつった笑みを浮かべると櫂は「やっぱりな」と、溜息をついた。
「…えーと、おそらく昨夜はご迷惑をおかけしたようで本当に申し訳ないと思っている所存です…はい…」
そんな櫂の返事に千影は視線を下げて、謝罪の言葉を述べる。
いくら付き合ってるからと、合鍵を持っているからとはいえ無意識に年下の家にしかも真夜中に押しかけてしまったであろう自分の甘さに情けなさを感じるばかりだ。
「…怒ってはいない。それにお前が無意識に俺を求めていた事のほうが」
「す、すとっぷ、やめて、口に出されると本当に恥ずかしい…」
櫂の声音は確かに怒っているものではない、むしろ穏やかで優しくて囁かれている千影の方が恥ずかしくなってきてしまって思わず掌で櫂の唇を覆った。
疲れが限界だったのは確かで、そんな中で一番求めていたものが櫂だったなんて。
普段からそう言ったことを口にしない千影にしては本当に珍しい行動で、櫂からすれば逆に喜ばしい出来事ですらあることを千影は知らない。
唇を覆っていた手を降ろすと、櫂はそのまま千影を抱き寄せる。
「…何処まで覚えている?」
「会社を出て、電車乗ったところまで…」
「その足で俺の所にきたらしいな。スーツ姿で合鍵を使ったらしく、出迎えた俺に抱き付いたかと思えばそのまま寝始めた」
「スイマセン、まったく記憶にございません」
「流石にスーツは脱がせて俺のシャツを着せて、寝かせた」
「ああ、なるほど…なるほど!?」
今さらっと凄い事を言われた気がして千影は思わず二度同じ事を繰り返してしまう。脱がしてもらって着させてもらっている図を考えるだけで死にたくなってくるのだが、もう過ぎてしまったことに関しては思い返すのをやめようと千影は遠い目をするしかない。
が。はたと気づいたのは昨晩仕事上がりのままここへ来て眠っていたと言うことは?
「…シャワー浴びてない?」
「別に嫌な匂いはしないが?」
「ありがとうってばーか!!そういうことじゃない!!シャワー借りる!!!」
慌てて千影は櫂の腕をすり抜けて布団を飛び出す。櫂は小さく笑って言葉を返してくるが、そういう問題ではないと千影は言い返すとシャワー室へと赴き、そしていつものようにその扉を開けた。
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