見えない愛がそこにある

普及協会の本部長となってからの伊吹の仕事は元々少なくなかった量が倍になり、山積みとなっていた。
もちろん十朱千影はそれをこなす伊吹の手伝いもしているが、手伝うのには限度がある。
現に今伊吹が書類に目を通し、それを承認するかの判断などに至っては千影ではできない仕事だ。
少しでも彼の助けになりたいと千影は常々思っているが、どうにも限度がある。
眉間の皺が一つ増えた。そろそろ休憩時だと千影は思うと、朝からずっと隠し持っていたラッピングされた袋を取り出し伊吹へと歩み寄った。

「いーぶきさん」
「なんだ」
「こっち見てください」
「見ての通り、今仕事中だ」

千影の呼びかけに耳は傾けているが、一切視線を寄越さないその姿に書類への嫉妬心が若干沸いた。
今、この瞬間だけ自分がそんな紙よりも下だと思うとぐらぐらと嫉妬心が湧き出てくる…が、なんとか押し止めると千影は手持ちのラッピングされた袋から一つ指でつまみあげて、一切こちらを見ない伊吹の口元へと運び、押し込んだ。

「なに、むぐっ……、…甘い」
「ええ、何せチョコですから。甘いですよ」
「千影…何の真似だ」

突然口の中に押し込まれたチョコに伊吹は味を確かめながらようやく千影へと視線を向けた。
赤い瞳のすぐ下にはうっすらと隈ができ始めており、働きづめであまり眠っていないのも見て取れる。
そんな様子に千影は呆れたように溜息をついて口を開く。

「伊吹さん、食事もしてないですしちゃんと寝てないでしょう?」
「そんなことは」
「…同じ部屋で暮らしてるのにバレないとでもお思いです?」
「う…」

ないと言い切る前に千影はぴしゃりと伊吹の言葉を食い気味に発言を重ね、チョコを再び伊吹の口へと放り込む。
もごもごと若干気まずそうに伊吹はチョコを味わっていた。
同じ部屋で暮らしていると言うのはもちろん本当だ。
二人で眠るベッドですら用意したのは一つで、それは千影が望み伊吹が承諾した上での事。
だが眠るとき大体千影一人きりの事が多い。無論伊吹が仕事に忙殺されているのもあり、帰ってくるのを待っていたら伊吹に怒られた事がある。
それ以来千影はしぶしぶ先に一人で眠ることにしている。
伊吹が帰ってきてちゃんと眠りにつくのもこっそりと気づいているのだが、今月は特に部屋に帰って来た事は少なく、ベッドで眠っている事もあまりなかった。
だからこそ千影はただ心配だった。この人は誰よりも自分を後回しにしてしまう人だと知っているから。

「どうせ今食事をお持ちしても食べてはくれないのは目に見えていますし。
 とりあえず栄養補給、ですよ。チョコは栄養バランスがいい食べ物ですから」
「こうやって食べさせる必要はなかっただろう」
「後で食べるって言って食べない姿が目に浮かびます。
それについて反論ありますか伊吹さん?」

せっせと雛に餌をやるように千影の指から伊吹の口元に運ばれるチョコ。
抗議の声をあげる伊吹にこれ以上の反論は許さないと千影は口元だけ笑みを浮べ、伊吹に詰め寄る。
これ以上の反論は無意味と悟った伊吹は降参だと言わんばかりに溜息をついた。

「それに今手が汚れるのは嫌でしょう?」

くすくすと笑いながら千影はぺろりと、チョコを運んでいた自身の指を舐めた。
甘い。その食べさせたチョコが市販の物でなく、千影の手作りだと言うことを伊吹は知る由もないだろう。そして千影もまたそれを告げることはなく、2/14だと言うことも知らせることはなかった。



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