罪過

懇々と説教を続ける伊吹に千影はただ嬉しそうに耳を傾けていた。
どんなにささやかな事でも伊吹コウジが自分の為だけに感情を向けてくれる事がどれだけ千影にとって嬉しい事が目の前の彼は知ることはないのだろう。
生まれて誰にも望まれたことのない自分が欲した、たった一人。
生みの親ですら育てる事を放棄し、施設とて有象無象の中の一人でしかなかった自分が欲しいと求めたもの。
千影は諦めて続けていたのだ。
何かを望んでも自分が手に入れる事は不可能であり、誰かに自分が望まれることもないのだろうと。
だがその意識を変えてしまったのは誰でもない伊吹コウジだった。
彼に連れ出されて、世の中と世界を知っていくたびに千影は変わってしまったのだ。
そして彼に伊吹コウジに惹かれ、自分を知ってほしいと思ってしまうのはもはや必然だった。
なんど傲慢で強欲だろうか。その感情を恋と呼ばれるくくりだと気づくまでそう時間はかからなかった。
ただ気づいてからが問題だった。伊吹コウジは望月千影を恋愛対象として見ていないと言う事。
でなければ、歳がほぼ変わらない女と旅などしないだろう。
その事実に気づいてしまえばただ、貫かれる現実から訪れる胸の痛みに蹲るしかない。
頬を伝う一筋の涙が地面へと落ちて吸い込まれていくのを眺めながら、千影はどうすればいいのかただひたすらに考えた。
どうすれば彼が自分を異性として認識してくれるのか。変わらなくては、変わらなければ痛みが消えない。
だからまず手初めの段階として、名前を読んでもらおうと思った。

「望月」
「…」
「望月?聞こえているだろう、返事を」
「千影、ですよ。伊吹さん」
「何だ突然」
「私の名前は望月ではなくて千影です。ちゃんと呼んでください、ね?」

念を押すように笑いかけると伊吹は一瞬困惑しながらも口を開いた。

「千影」
「はい、なんでしょうか伊吹さん」

しぶしぶ呼ばれた名前とはいえ、呼んでもらうことだけでこんなにも世界は鮮やかになるものだろうかと千影は胸の高鳴りを隠すように笑みを向ける。
そうやって少しずつ距離を詰めていこうと思った。
もともと二人っきりの旅だ。寝食を共にするのは当然であり、ホテルに泊まるときも状況によっては同室。
そして一つのベッドで眠ることだってざらにある。
同じベッドで眠った時に一夜の過ちが起きればいいのにとすら願ったし、勿論幸せな時間だった。
当然なにも起きないまま朝を迎えるだけだが。そうやって幾度も過ごした日々の中で、千影は嘘を口にする。

「伊吹さん、寒いです」

と。大して気温も低くないそんな夜に千影は決まって伊吹に言うのだ。
最初は訝し気にしていた伊吹も千影の言葉を拒絶する事もなく、寄り添って眠るようになった。
今ではそれが当然になり、千影が口にせずとも伊吹は当然の様に抱き寄せてくれるのでそれを当然の至福とほくそ笑む。
月日を重ね、恋は次第に熱を強く放ち、次第に千影の中に独占欲を生み出す。
新導クロノにすら嫉妬している事もあったがその感情をどう表せばいいのかわからなかった。
何故なら誰も千影に教えてはくれなかったのだ。愛も、恋も、与えることも、与えられることも。
そうして、ゆっくりと静かに千影の恋愛は歪んでいく。自分を見てもらうにはどうするべきか。
誰かを傷つけたとしても伊吹がそれで自分を叱ってくれるのだと言うなら、それを望んだ。
だから今こうやって伊吹は千影を窘めるように目の前で眉を顰めながら千影に説教をしていたわけだが。
どんな事をしていても伊吹が格好いいと千影はただ目を細めて嬉しさを滲ませるだけだ。

「ちゃんと聞いているのか」
「はい、もちろんです。伊吹さん」

そんな風に歪んだ想いを抱えたまま千影は伊吹の言葉に頷きながら思うのだ。
あの日あの時デリートされてよかったと。きっと他の人には憐れむような出来事なのだとしても。
デリートされなければこんな感情も世界も知ることはなかった。
何より目の前の大切な人に出会うことすらなかった。
ただこの気持ちを伊吹に伝えれば伊吹はきっと傷つき悲しむのだろう。
そんな伊吹を見てみたいと言う気持ちもあったが、嫌われてしまうかもしれない事を考えればその気持ちはただそっと千影の中だけに留めるしかない。
伊吹が罪を償い終わる日はこないのだ。彼女は過去を取り戻したいと思っていないのだから。



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