アンヌアーレ

もうすぐ、千影が櫂の姓になって一年が経つ。
と言ってもあっという間に海外進出を決めた櫂についていくことになった千影はそれを実感する余裕もなく、ユーロリーグで通じる言語の習得に勤しむことで精いっぱいだった。
といっても、ガイヤールやネーヴをはじめとする元カトルナイツのメンツもあり日本語である程度通じる界隈で過ごさせてもらっているおかげで本来よりは大分楽をさせてもらっている状態だが。
自宅というのも、点々とする櫂につきそうことも多いためガイヤールが手配してくれた家を間借りしている。
何から何まで本当に申し訳ないなと思うのだが、ガイヤールからすれば当然までのことですと優しくしてくれるものだからつい甘えてしまう。
ネーヴもまた、ユーロリーグに出ている時は何かとこちらに顔を出して気を使っている。
…そういう所が櫂は複雑らしい、と聞いてからはあまりそうならないようにはしているのだがいかんせん傍に居ることが少ない櫂にはサポートできることも限られているので千影はそれに対して何も言うことはなかった。

「…あ。もう今日だったっけ」

誰もいない部屋に帰宅した千影は、掲げられたカレンダーを見てぽつりと呟いた。
籍を入れて一年、巷でいう所の結婚記念日と言うやつだ。
といっても、がらりと変わった環境に適応するために日々を過ごしていた千影にとってそこまで大きいイベントとして認識していなかったせいで気づいたのがまさかの当日だなんて皮肉だなものだと千影は肩を竦めて苦笑いを浮かべた。
特別な日だとは思うがそれを祝うにはもう一人の主賓でもある櫂トシキの姿は今日もこの仮住まいにはない。
当たり前だが、プロファイターは多忙なのだ。
何より日本から来た噂の櫂トシキ。
こんな美味しい逸材をユーロリーグ主催者はみすみす逃すわけがなかった。
生身の姿を見るよりもおそらくテレビなどのメディアを通してみることのほうが多いだろう。
それについても別段不満はなかった。櫂トシキがやりたいことを己の力で成し遂げようとするその道筋を隣で眺めるのは誰でもなく自分だと千影は理解している。
なので今日がちょっとした特別な日だとしても、拗ねたりなどしない。
祝うのは今日でなくともいい。祝うなら櫂とがいいのだから。
そう自分の中で整理を終わらせると買ってきた食材を冷蔵庫へと詰め始めるのだった。

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今日という日付を櫂トシキにとってどれだけ大切なものか、知っているのは櫂トシキ自身だけだろう。
一年前の今日、櫂は一人の女の妻に迎えたのだ。
どれだけ切望していたのか、妻になった千影は理解できていないかもしれない。
それでもその選択を、自分と言う人間を受け入れてくれた彼女を櫂は重すぎるほどに欲して愛している。
櫂と言う人間が記念日などというものに振り回されている様など、彼を知る人々から見れば驚くことは間違いないだろう。
本来であればこのシーズンはユーロリーグ側の用意した施設に寝泊まりしているが、今日に限っては辞退し一時的な拠点としている自宅へと足早に帰ろうとしていた。
なんやかんやと、二人の世話を焼くガイヤールやネーヴのおかげで、いつも足止めされるところをなんなく通れたのも大きいと櫂は感謝を感じながらも千影を慕う二人には若干複雑な思いもある。
そんな思いを抱えながらも、櫂は扉を開くと暖かい光と共に千影が「あれ、櫂だ!?おかえり!」と驚きと喜びを交えた笑みをこちらに向けているのが見えた。
その姿が愛おしくて、そして帰るべき場所なのだと実感する。
今のこの満たされた気持ちをどう表すべきか、わからない櫂は何も言わず千影の元まで辿り着くと小さなその身体を抱き寄せるとふわりと彼女の香りが鼻腔をくすぐった。

「…どしたの?」

急な出来事に若干面食らいながらも櫂を見上げる千影に何も言わず、櫂は口づけを落とす。
ここのところ、本当に顔を合わせる時間もうまくいかずようやく触れることができた。
離れていた時間を埋める様に櫂は口付けを落とし続ける。

「ん、っふ…ちょ…!」

振りやまない口付けの嵐に千影は困惑しながらも、受け入れていた。
気が済むまでその行為が続いた頃には千影が少し怒ったように櫂の顔を小さくぺちんと叩く。

「返事するよりも先になんでキスするかなぁ!?」
「…すまない」

叱るような千影の言葉に櫂は勢いだったとしか言えなかったので謝罪を口にする。
その言葉に、はぁと溜息を千影は改めて櫂に「おかえり」と口にすれば櫂もまた「ただいま」と答えるのだった。



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