日曜の夕方、俺が机に向かって試験前の復習をしていると唐突にそれは訪れた。

「さーなだっ」

こんなふざけた声で俺を呼ぶ男にはただ一人を除いて心当たりがなかった。俺の後ろから聞こえたはずのその声は幸村のものとしか思えなかったが、しかしそれを確信するにはあまりにも大きな矛盾が生じる。俺は確かに幸村の声を聞いたと思った、しかしそれはあり得ないことなのだ。やはり俺はまだ幸村の死を受け入れられていないのか、声だけでも聞きたいと思ってしまったのだろうか、果たして幻聴はさも本物らしく俺の鼓膜に働きかけたらしい。俺がようやくそれを結論づけたとき、再び名を呼ばれた。

「真田ー、返事くらいしろよ」

俺は教科書の内容が全く頭に入ってこないのに気づきながら、しかし目で字面だけを追い続けた。後ろから微かに、しかし確実に聞こえる呼吸に戸惑いながら、俺は自身の呼吸がだんだんと乱れていくのを気づかれまいと咳払いを一つした。

「…真田?」

三度目の呼び方は今までの二回とは違っていた。呼ばれた瞬間に、最後に会った時の幸村の表情を思いだした。確かに笑いながら俺達は手を振り合ったのに、俺も、幸村も、悲しんでいた。それは幸村が死んでから何度も思いだしてはやりきれない気持ちをごまかし押し殺し、忘れようとしても忘れられなかった表情だった。俺は持っていたボールペンを取り落とし、振り返ろうとする自分を必死に抑えたが、

「真田は聞こえないし見えないのかな。まあ、真田だしなあ」
「聞こえている」
「えっ?」

返答してしまった。これ以上黙っていられなかった。たとえそれが俺の幻想だとしても、もう一度幸村と会話ができるならどうにでもなれと諦めてしまったのかもしれない。加えて言えば、幸村は寂しがっているようだった。生きている時ですらそんな素振りを見せなかった幸村が今、寂しがるのなら、もう無視など到底できなかった。

「聞こえてるのに無視してたんだ?」
「いや…その、」
「あ、分かった、俺が怖いんだろ」
「こ、怖くないに決まっている」
「真田もかわいいところあるなあ、幽霊が怖いなんて」
「怖くないと言っているだろう」
「じゃあどうして振り返らないんだよ」
「…」

返事に困らされるのも久しぶりだった。俺は気まずい沈黙を破れずにいる。振り返ったときに幸村がいないかもしれないと考えると怖かった。それが俺の幻想だったと思い知るのが恐ろしいのだ。確証など幽霊や幻に求めるのは全くの筋違いだと分かっていたが、俺はそこに間違いなく幸村がいるという証拠を欲しがっていた。だがしかし仮にその証拠を得られたとしても、俺は振り返れない。幸村ともう一度目を合わせてしまえばまた幸村の死を受け入れられなくなってしまうと思った。ただでさえ、乗り越えたとは言い難いのに。

「…すまん」
「いいよ。真田のことなんか、とっくの昔から許してる」
「…そうか」
「俺もさ、今日は真田に謝ろうと思って来たんだ」
「俺に?」
「うん、…」

いろいろとごめん、真田。暫くの沈黙の後、涙声でそれだけ言って幸村は再び口を閉ざした。俺はその言葉に打ちのめされたのは無論、しかしそれ以上に幸村がいなくなってしまうような気がして恐ろしくなった。

「ゆ、幸村」
「まだいるよ」

俺がごめんだけ言って消えるとか思っただろ、幸村はまだ少しかすれた声で、だが嬉しそうに話して俺の背に背を合わせた。その感触も体温もまるで生きた人間のもののようで、俺はいよいよ自分がどんな状況に置かれているのかが分からなくなった。

「でもそろそろ日が暮れるね」
「ああ」
「じゃあ、帰らなきゃいけない」
「…そうか」
「引きとめないんだね」
「いいのか、引きとめて」

幸村はくすくすと笑い俺の背中で揺れる。

「真田も寂しいとか思ってくれてたんだ?」
「当たり前だろう」
「…俺もね、寂しかったよ」
「…」
「それに真田のことは仁王の次くらいに心配だった。でもこうやって話してると、やっぱり真田も大丈夫そうだね」

淡々と話す幸村はもう泣いてはいない。しかし俺は、幸村が何を言いたいのか、分かった気がした。

「なんかいろいろ心配してたけどさあ、みんな、俺がいなくても大丈夫だよ。うん、安心した」
「他の奴らはどうだか知らんが」
「ん?」
「俺は、お前が居なくても大丈夫だとは思わん」
「…」
「俺たちにはまだ、お前が…」

机の上に落ちる涙の音はきっと幸村に聞かれてしまった。幸村は背中合わせで俺と同じように震えている。

「ありがとう」
「…幸村」
「死んでからも俺は真田に甘えてばっかりだね」

なんとも言えず黙っていると懐かしさが込み上げてきた。こうして返事に困らされたあの頃を思いだすのは悲しく懐かしく、忘れ難かった。

「…幸村、もう日が暮れる」
「うん」
「まだ、行かないでくれるか」
「行かないよ」

真田は俺がいないとダメダメなんだろ、そう言って幸村は俺の背にもたれたまましばらく黙っていた。俺はこの時間が永遠に続けばいいと、小説でしか読んだことのないような気分を初めて味わった。しかしまもなく日は暮れてしまうだろう。部屋は夕焼けに赤く染まり、空には既に月が出ていた。








「丸井、頼みがあるんだ」
「うん、なに?」
「真田が泣いてる」
「…男の泣き顔見に行くってのもな」
「頼むよ、慰めるのは得意だろ」
「しょーがねーなあ」
「恩にきるよ、丸井」
「幸村くんの頼みなら、な」
「またそんなこと言って、真田がかわいそうじゃないか」
「ちゃんと真田の心のケアだってするぜ?」
「そうだよ、生きてるんだから互いに支え合わないとね」
「………そういうこと、言うなよ、幸村くん」
「ああごめんごめん、丸井まで泣かすつもりじゃなかったんだけどな」




「ジャッカル、俺、丸井を泣かしちゃったんだ」
「…ち、ちゃんと謝ったか?」
「あたりまえじゃないか、お母さんみたいなこと言うんだね」
「ああ、いや…すまねえ」
「ううん、悪いのは俺だよ。それより丸井に会いに行ってやって」
「ゆ、幸村」
「ん?」
「わざわざ俺達に会いに来てくれたんだよな、ありがとう」
「そんなんじゃないよ、…泣かせるなよ、ジャッカルのくせに」







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