※結婚させてみた







俺としたことが、もういい年なのになんとも情けない理由で喧嘩などしたものだと思う。仁王の怒りのポイントと沸点は往々にして変化するものだと分かっていたはずなのに、その掌握に失敗した俺は気づけば声を荒げて反論に反論を重ねていた。昨晩、仁王は夕飯も食べなかったし寝室にも入ってこなかった。そして今朝、俺はテレビの前で毛布をかぶってじっと身を固くして寝ている仁王を起こさないよう早めに家を出た。俺は苛立ち半分後ろめたさ半分のなんとも形容し難い気分になって朝から絶不調だった。結局ずっと仁王のことが気になって気になって、仕事は手につかず些細なミスを連発し周りから珍しい珍しいと連呼され、俺は今日少し良い肉を買って帰って仁王に謝ろうと決心したのだった。

普段なかなか買おうとは思わない100グラム500円の肉を買って足取りはまあまあ重く家に帰ると、玄関の前に座りこんでこちらをじっと睨んでいる猫に遭遇した。ガラス玉のような翡翠色の大きな目に薄い灰色の体毛で、尻尾をゆらゆらと揺らして俺から目を逸らそうとしない様子がいかにも、という雰囲気だ。洗ってやれば、あるいは美しい白猫なのかもしれない。近寄ってもニャアアと鳴いて俺を睨み付けたまま微動だにしないので困ってしまった。

「どいてくれないか」

そこにお前がいると中に入れないんだ、と仕方なしに話しかけてみると意外に猫はすんなりと俺の申し出を聞き入れその場から立った。人間よりよほど聞き分けの良い猫もいるものだと感心していると、猫はまた鳴いて俺が開けた扉からすっと部屋の中へ入った。まるでここは自分の家だとでも言うように。なんだか仁王みたいだ、と思って呆れた。猫にも、俺自身にも。

仁王がいるかもしれないと思い多少緊張していたところに猫という突然のイレギュラーな存在が乱入してきたので俺の心は少なからず乱れていたが、予想に反して仁王はいなかった。拍子抜けした気分で猫に目をやると、奴は部屋の中をうろうろと嗅ぎ回って俺のところに戻るとまたもニャアと鳴いた。猫が見ず知らずの人間に媚びを売る理由なんて大抵エサの要求に決まっている、と思った俺は煮干しか何かがあったような気がして冷蔵庫を開けた。
食べることにさほど興味のない人間と暮らしていると日に日に冷蔵庫のアイデンティティが失われていくような気がしてならない。特に冬場はその感が強い。今日も殺風景な冷蔵庫の中を見て、買ってきた肉のことを思い出した俺は買い物袋に入った少しの食材を冷蔵庫に入れていった。猫は待ちきれない様子で俺の足に体をすりつけた。
しかし残念ながら、いや案の定、冷蔵庫に猫にやれるようなものは入っておらず戸棚を探してもコンソメと小麦粉くらいしか出てこなかった。仕方なく期限が今日までのハムを見せてみたが、猫は顔を近づけてふんと鼻を鳴らすとそっぽを向いて毛づくろいを始めた。

ふと時計を見るといつもなら仁王はとっくに帰ってきているはずの時間だった。少し気が引けたが携帯に電話をかけてみると聞き慣れた着信音が隣の部屋から聞こえて、携帯も持たずに仁王がどこかへ行ってしまったことが分かった。さて、どうしたものか。家出という単語がぼんやりと頭に浮かんだが、だとしても携帯くらい持っていくはずだ。俺が首をかしげていると猫が今朝仁王の使っていた毛布の中で丸まってくつろぎ始めた。目を閉じると気持ちよさそうに伸びをして欠伸をして、もぞもぞと動く。俺は、この猫が仁王だったらどうしようか、と考えている自分に気づいてぎょっとした。しかし見れば見るほど猫は仁王に似ている気がして、今にもしゃべりだしそうだ。俺は猫から目を逸らして馬鹿げた考えを全否定しようと努力したが、猫はそれを知ってか知らずかはじめと同じようにニャアアと鳴いて思考の展開を邪魔した。





「ただいま」

振り返ると仁王がばつの悪そうな顔で立っていた。コンビニの袋をがさがさいわせてこちらへやってくると猫のエサを取り出してパッケージを開く。俺がハムの時に使った小皿を渡すと、それに中身をあけて猫の目の前に置いてやった。猫は飛びついて嬉しそうにがっついた。

「それ、買いに行ってたのか」
「うちになんもなかったけ、買いにいくしかないじゃろ」
「…心配した」
「たかがコンビニ行っとっただけじゃ」
「ああ、どうかしてるな」

本当に、どうかしていた。仁王が猫になったかもしれないと思ったなんて、墓場まで持って行こうかと思うほどの恥だ。しかし俺は玄関に立つ仁王を見た瞬間に心から安堵して、些細な喧嘩なんて正直どうでもよくなっていた。昨日はすまなかった、と謝ると、仁王もゴロゴロと喉を鳴らす猫を撫でながらぼそぼそと謝った。
今日は、少しくらい野菜を残しても大目に見てやろうか。



翡翠の猫


title by 腫瘍

20120710・加筆修正



















仁王の目の色に少しくらい夢を見たっていいよね







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