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 東京の空は明るすぎる。久しぶりに空を見上げても、見える星は限られている。
最悪にも、今日は満月だ。街明かりに負けずに煌々と輝く月に負けないように星たちも、懸命に光を放つが、はっきりと見えるのは一等星くらいだった。
 今日の夜から流星群が見れるらしいと聞いて、懸命に目を凝らしているけれど、あまり期待はできないかもしれない。
私はクリスと実家の近くの公園へ、わざわざ足を運んだのだけれど、予想以上に星が見えない。ベンチに腰をおろして、空を見上げる。チカチカとゆっくり流れる星をみつけたが、なんてことないただの飛行機だった。
 
「見えたか?」

 缶コーヒーを買ってきたクリスが私の隣に腰を下ろすと、私と同じように空を見上げた。

「全然見えないよ。流れてくる気配全然ないし」

 クリスの買ってきた缶コーヒーを受け取りながら、そう言うと、クリスは「やっぱりな」という表情を見せる。
しばらく黙って空を見上げたが、やはり結果は同じだった。もう少し夜も更ければわからないが、学生の私達にはタイムリミットがある。
  星が見たいといったのは、私じゃなくてクリスのほうだった。本人いわく、息抜きらしい。
ここのところずっとリハビリ通いに加え、野球部ではルーキーの教育係を任せられたらしく、何かと大変だと言っていた。野球部のルーキーには、ずいぶん手を焼いているらしい。
あまり自分のことは口に出さないクリスがぼそぼそと零す愚痴は、充実の証のようなもの。前よりずっと饒舌で、いい表情をしているような気がする。

「野球部も大変ね」

 私がそう言うと、クリスは少し戸惑いながら「まあな」と微笑んだ。

「でも、リハビリはちゃんと通ってよ、野球バカやって無理しないでね」
「……そうだな」
「お父さん、心配してた」

私の父は整形外科医をしていて、クリスのお父さんとは古い付き合いらしい。その事がわかったのは、うちの病院に診察に来ていたクリスとばったり会ったからなのだ。
同じクラスにいてもほぼ接点のない私とクリスだけれど、肩の故障を治して復帰をめざすクリスと、いずれは父の病院を継ぎたい私になると、話は別。
お互いのために情報交換しあったりするうちに、私たちはなんとなく打ち解けていった。
最近は、クリスのリハビリにも、父に無理を言って立ち会わせてもらったりで、学校の外でも、よく一緒に過ごすようになった。
 缶コーヒーのプルタブをあけて、一口飲む。クリスはブラックだが、私のほうはカフェオレだった。
苦いコーヒーは飲めないと前に話した事を、しっかり覚えているのはなんともクリスらしい。そういう気づかいができるあたり、クリスはできる男だと思う。

「そのことなんだが…」

 夜空を見上げながら、クリスが、ゆっくりと話し出す。相変わらず星が流れる気配のない空をクリスに倣って、私も見上げた。少し間が空いた後、クリスが言いづらそうに、「リハビリへ通う回数を、減らしたいと思う」と言った。
なんとなく予想はついてた。最近のクリスは、”沢村くん”にかかりきりだったから。
 "沢村くん"は、野球部の一年生投手で、明るくて、真っ直ぐな男の子だ。最近、よくクリスについて回っているのを私も見たことがあるし、クリスからも何度も何度も付きまとってきて、やれやれ大変だ、少し迷惑だ、なんて話題に上っていた。
しかしどうやら、"手のかかる野球部のルーキー"は、ついにクリスを篭絡したらしい。きっと、勉強熱心で、素直で真っ直ぐな沢村くんに、クリスのキャッチャーとしての気持ちがうずいたに違いない。
最近クリスがとてもいい表情をしているのは、なにより、"沢村くん"のおかげなのかもしれない。それを思うと、なんだか、少しくやしい気がする。

「彼の球を受けたいと思うなら、なおさらリハビリは、ちゃんと通って欲しいよ」

 私は、わざと厳しい事を言った。きっと、何も知らない私だったら、クリスの提案に賛成したのかもしれない。
しかし、クリスの肩の状態は、目標にしている夏の大会までの復帰がギリギリ間に合うかどうかの瀬戸際な事。
ほぼ毎日、ハードなリハビリをして、努力している事、それを何より待ち望んでいる人がいる事。それを知っている私には、簡単に賛成はできない。

「いや、それは、」
「クリス、まさか夏までに復帰しないつもり?」
「そんな事は言っていない」

 クリスと目が合う。じっと、私を見つめるクリスの瞳は、真剣そのものだった。
私の心の内は、賛成半分反対半分で、半分は賛成してあげたいと思っている。
 最短復帰のリハビリスケジュールは過酷だった。復帰、復帰、と周りもクリスにプレッシャーをかけ過ぎているとは思う。それでも、それを許してしまったら、今までの努力が全部ダメになってしまうような気がする。
変な使命感にかられて、私はクリスに対して、イエスとは言えなかった。
それに、なにより心配だった。もし、万が一があってはならないのだ。苦しんでいるクリスは、何度も見てきているのだから。

「リハビリはちゃんとしないとダメだよ。きっと、お父さんもそう言う。私も賛成できない。プロの話もきてるんでしょ?棒に振るの?その、"沢村くん"のために」

 プロ、と言う言葉にクリスは一瞬眉をしかめたが、クリスの真剣な表情は崩れない。
少し熱くなりかけている私は、すっと深呼吸をする。

「沢村云々は、置いておくとして、自分の肩の事は自分が一番よくわかっている。リハビリを完全に辞めるわけじゃない。俺はただ、部活にちゃんと出たい」
「なに、それ」
「最短復帰は諦めていない。沢村と、1度、ちゃんとバッテリーが組みたい」

 クリスが、ゆっくりと話す。確固たる意志が込められている言葉は、私の胸に確かに響いていた。
ばかなひと、プロ入りよりも部活が大事だ、と言いきるなんて。クリスのお父さんは、断固反対すると思うけど。
クリスの突飛な発言に、思わず吹きだした私をみて、クリスも表情を緩めた。

「ばかなひと」

 私がそう言って空を見あげる。いつの間にか、少しだけだが空は暗くなっていて、ちらほらと星が目立つようになっていた。

「なんとでも言えばいい」
「クリスの馬鹿、オールバック似合わない」
「それは関係ないだろ」
「あはは!」
「名前、」
「なに?」

 名前を呼ばれて、視線をクリスに戻すと、クリスは咳払いをして私に向き直る。
クリスの瞳は、真っ直ぐ私を見つめていた。さっきとは違って、なんだか照れくさい。

「これからも、よろしく頼む」
「急にどうしたの?」
「いや、なんとなくな」
「へんなの。まあ、こちらこそよろしくって、言っておく」

 ぼそぼそ、とそれだけ言って、クリスはすぐに、視線を私から星にうつした。
私も、急に恥ずかしくなって、はぐらかしてしまったけれど、クリスに言われた一言がとても嬉しかった。
 心の奥が、少しだけあたたかくなって、くすぐったい。ふふ、と笑った私に、クリスも照れくさそうに笑った。


 空をゆっくり眺めるなんて、本当に久しぶりだった。
結局、流星群は、流れてこないまま時間は過ぎたが、クリスといた穏やかな夜の時間は有意義だったかもしれない。
月明かりに照らされた夜道を、二人で並んで歩く。
肩が触れそうで、触れないような微妙な距離が、今はとても心地いい。
 何故か少しだけ速まった鼓動にあわせて、私は軽やかにスキップを踏んだ。なんだかとても気分がいい。きっと、クリスのあの一言のせいだと思うけど、今は気付かないふりをしよう。

「月が綺麗だな」
「えっ、星を見に来たんだよね?」
「……」
「流れ星が見えたら、クリスが早く復帰できますようにってお願いしたのにね、ざんねんでした」
「次、見たらいいさ」

 帰り道、キョトンとした私に、クリスが小さく微笑んだ本当の意味は誰も知らない。
そのうち夜も更け、私たちの知らないところで、星はいくつも流れていく。