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まずい、と思った。デスクに置いてあるデジタル時計はもう結構遅くの時間を表示していた。今日帰るのが遅くなるのは本当によくない。なんせ今日は、名前の誕生日だ。同棲し始めて2回目の名前の誕生日、間に合わなかったらどうなるか、だいたい想像がつく。恐ろしいくらい機嫌が悪くなるのは免れないだろう。今日こそは残業を呪ってもいいと思う。
さらに悪いことは重なるもので、あるものを予約していた時間を忘れていたのだ。残業をなんとか切り抜けて店まで走った。店はぎりぎり空いていて、入ったときには「お待ちしておりました」と愛想のいい店員が待ち構えていて、その手には小さな紙袋が用意されていた。前払いだったから袋を受け取って一目散に店を出た
そのとき店員さんに「早く帰ってあげてくださいね」と小さく言われた。どうやら俺みたいな人はよくいるみたいだ。
タクシーを捕まえて、行き先を伝えた。やっと一息つけると思っていたら、ケータイが震えた。相手は信二だった。
「信二?」
《よお東条。お前今日苗字の誕生日なのに家帰るの遅れてるらしいな》
「うん…ごめん」
《謝る相手がちげーだろ。ったく、お前らはほんとに…で、あれは取りにいけたのか?》
「なんとかいけたよ。…喜んでくれるかな」
名前の笑った顔を思い浮かべると、自然と頬が緩む。電話の向こうで信二が《のろけんな》って悪態をついていた。
あれ、とは。婚約指輪だ。今年の誕生日の相談を信二にしたとき、『お前ら結婚とか考えてねーの?』と言われて真剣に考えてみた。高校時代から付き合ってもうずっと一緒にいる。今では同棲、名前なしの人生なんてもう考えられなかった。
なら、名前の誕生日を記念日にしたい、そう思った。『ならそうすればいいだろ』と背中を押してくれたのは、信二だった。ちなみに指輪のサイズを調べてくれたのも信二だ。
「ありがとな、信二」
《礼は今じゃなくていいからよ、早く帰ってやれって。あいつ怒ってんぞ》
「うん、大体想像つくよ。…じゃあまた今度」
そこで電話が終わり、ちょうどタクシーも家についた。お金を払って急いで走る。早く、早くと急く気持ちはどうにも抑えられそうになかった。
家の扉を開けて、膝に手をついた。音に驚いて名前がリビングから玄関まで出てきた。最初は驚きだった表情も、少しずつ怒ったものに変わる
「遅くなって、ごめん」
「ほんとに、遅い。」
「うん…」
これはもう責められても言い返す言葉はない。完全に俺の失態だった。俯いたまま言葉を待っていると、ふうと優しい吐息が聞こえた気がした。
顔をあげると、小さく微笑んだ名前がいた。
「…おかえり」
「あ、た、ただいま!」
ちょっと許してくれたかな、と胸を撫で下ろす。なんだかんだ彼女はお人好しで優しい。ごはんできてるよ、と身を翻した名前の名前を反射的に呼んで、腕を引っ張った。彼女はぽすっと胸の中に収まった。小さい肩は、もうずっと変わっていないものだった。壊れないように、抱き締めた。
お互いの鼓動が、早い
「誕生日、おめでとう」
「…それ、今言うの」
「いや、毎年最初に言ってるから…」
自信なくそう言うと、名前はそう、と笑った。やっぱり笑った顔が一番好きだ。ずっと見てきたその笑顔を、自分のものにできたら、どれだけ
彼女の左手をとって、握った。
「俺たち、ずっと苗字違うまま一緒に住んでるよな」
「そりゃあね、同棲してるだけだし」
ポケットに突っ込んでいた指輪の箱を、中で開けて指輪だけ取り出す。光に当たってきらりと光った。冷たく固い感触が、鼓動を早くした。
名前の左手の中指にゆっくりはめた。息を呑む声が聞こえた。
「…っ、秀明」
「俺と同じ苗字になりませんか。…結婚しよう、名前」
「喜んで…っ!」
涙声になっている名前が愛しい。抱き締める腕に力が入る。
きみが生まれた日、それを俺たちの最高の記念日にしたかった。いつまでも忘れない、永遠にするために。
「よかった…指輪予約してた時間忘れてて、急いで取りに行って遅くなったんだ。どうしてもなまえの誕生日に渡したくて…ありがとう、名前」
「…もう次は許さないから」
名前の言葉に厳しいなぁ、と苦言をこぼした。でも表情は緩んでたと思う。彼女は悪戯っぽく笑って「早くごはん食べよう」と足早にリビングに戻った。その横顔に見えた耳は、赤くなってたと思う。どこまでも可愛い俺の彼女に、俺はもう落ちようがないくらい溺れていた。
机に用意されていた料理は豪勢で、名前の誕生日なのに自分でこんなの作ったのかとびっくりした。しかもなぜかどれも俺の好物。彼女はやっぱりどこまでも彼女だった。
温かい時間はこれから永遠になる。これから君と、もう一度歩いていこう。