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「こいつどうにかしろ」

そう言った倉持に後ろの襟ぐりを掴まれて連れてこられたのは、既にぐでんぐでんに出来上がっている御幸であった。右手には空のグラスを握っており、ようやく私と目が合った御幸はそのグラスを上にあげて「名前ちゃんもう一杯〜」と、どこか怪しい口調でそう言った。


二十三歳の冬、肌寒い朝郵便受けに入った新聞を取りに行くべく上着を肩にかけ、黒の愛用サンダルに足をつっこみ外に出たところ、想像以上の寒さに四回ほどくしゃみが出たのはまだ新しい記憶である。はやく家の中に入って暖をとりたいものの、このアパートではどの部屋の郵便受けも一階の踊り場に行儀よく並んで設置されていたため、この寒さの中薄い寝巻きと上着一枚で下から上へと行き来しなければならなかった。

あー寒い寒いと独り言を呟きながら階段に足をおろす。二階造りのアパートなだけ幸いである。最後の一段をおりた先に見える郵便受けに素早く駆け寄り、中央につくつまみを右に捻って前扉を開いた。
丸めて入っている新聞を取り出し扉を閉めようと思ったそのとき目に入ってきたのは、新聞の後ろに上手い具合に隠れていた、宛名面が表になっているハガキであった。綺麗な活字で苗字名前殿と書かれている。見覚えのあるその字に寒さなど忘れ、ハガキを取り出し裏面にひっくり返して目をやった。添え付けされた集合写真の下には間違いない、結城先輩の字が並んでいた。

「かつての仲間、私結城哲也がキャプテンとなり率いた代、青道高校野球部総勢数十名での宴会を開きたく思い、この度苗字名前殿に手紙をお送りした次第です、ご都合が合えば是非来ていただきたい、御幸もきっと喜ぶでしょう」


あなたはーもーおーわすれたかしらー

グラスに水を注ぎちびちびと口に運びながら、この場に似つかわしくない歌を口ずさむ。右膝を立ててグラスを持つ手の反対では机に頬杖をついていた。高校の時から変わらない黒縁眼鏡のレンズの奥の瞳は幸せそうに三日月を作っている。

◆◆

結城先輩からの招待状に書かれた最後の一文の意味を読み取ることができないほど、私は馬鹿ではない。高校生活という甘酸っぱく汗臭い時間の中、私たちは他の誰よりも、恋人に近い友達であったと我ながら思っている。御幸に好きだと本当の気持ちを伝えることができる場面などいくらでもあったものの、否定されることが怖くて目をそらしてきたのは紛れもない私であった。高校生活というふわふわした時間はもう過ぎ去ってしまい、気付けば二十三歳になっていた。御幸とは卒業式のあの日から、一度も出会っていない。

それなのに彼はまるで、昨日も会ったかのような軽い口ぶりで、「よお」と片手をあげてみせたのだ。

信じられない馬鹿あほ変態めがねやろう。

◇◇

わーかーかーあーたーあのころー

グラスを手に持ったまま机にうつ伏せてもなお歌い続ける御幸は、見るからに泥酔状態であった。うつ伏せているせいでくぐもってきこえてくる声が、どこか寂しさを含んでいるように聞こえたのは気のせいなのか。しばらく経ち今にも寝落ちてしまいそうなほどへにゃへにゃと脱力した御幸は、見ていてこちらが不安になってくる。はやく帰らせたほうが良いのではないかと察し、結城先輩に詫びを入れてから帰ろうと思い席を立つため片膝を立たせたそのとき、右肘から下にかけてべったりと絡みついてきたのは御幸の両腕であった。

「どこ行くんだよ」
「結城先輩のところに、挨拶しに行くだけだから」

まるで欲しいものが手に入らず駄々をこねる子供のように、私の腕を引っ張って離さない御幸に、険悪な雰囲気(私から一方的に出していたものの)などいつの間にか忘れてしまってどこへ行ったのやら。と同時に彼はこんなにもお酒に弱かったのかという驚きと、その扱いづらさからきたであろう疲労感が入り混じり、自然と口からため息がもれた。

「すぐ戻るから、ちょっと待っててよ」
「はやくしろ〜」

普段の御幸とは打って変わって甘えたな態度に苦笑を隠せないまま結城先輩のもとへと訪れたところ、勘の鋭い小湊先輩は面白そうに口の端を釣り上げながら「御幸と何かあった?それともこれから?」と耳打ちをしてきた。

「違いますよ!違います!」
「はは、顔真っ赤」

顔が赤いと指摘され、両手のひらで逃げるように顔を隠したところ小湊先輩の笑い声はいっそう高く響くだけである。諦めてまだ火照る顔のまま結城先輩と「この度はどうも」と二三言、言葉を交わして御幸のことを話題に出したところ、お先に席を立つことについて快く了承してくれた。「気をつけろよ」「うん、気をつけて」

結城先輩の気をつけてはまだしも、結城先輩のあと付け加えるように言った小湊先輩の言葉には何か別の意味の気をつけてが含まれているような気がしてならない。けど、ないないない、私と御幸に限ってそんな、不健全なことあるはずがない。
さようならと駆け出す私の後ろ、「あ、逃げた」と愉快そうに弾む小湊先輩の声がとんできた。

◆◆◆

「え、苗字先輩、もう帰るんですか!?」

悲しげに瞳を揺らす沢村君に向かい、両手を合わせ頭を下げた。帰るついでにお手洗いにと思い御幸を置いてそそくさと歩く狭い通路でばったりと、沢村君に出くわしてしまったのだ。「御幸のとこでばっか飲んでないで、俺たちのとこにも来てくださいよー!」昔と変わらぬ無邪気な笑顔を向けられて、何もしていないのに罪悪感に似た感情が浮き上がってくるのもまた、昔と変わらないようだ。「実は…」を前置きに要点をしぼった御幸の話しを沢村君にしたところ、あれれと首をかしげ始める彼につられ私も四十五度ほど右に首をまげる。

ぐぬぬと一人頭をひねる沢村君の手前、どうすることもできない私は腕時計に目をやり急ぐ素振りをして見せたところ、それがどうやら効いたようだ。

「あ、もしかして急いでますでしょうか!」
「いや、そこまで急いでるってわけじゃないけど」

酔っ払いを一人待たせてるし、ね。そう言った私を見て思い出したように眉間にしわをよせ、またも首をいろんな方向に傾け始めた沢村君に痺れを切らした私はどうしたの、と一言声をかけた。

「いやあ、それがっすね、実際一緒に飲んでたわけじゃないし…俺の見間違いかもしれないすけど…」

一体誰の話、一人ハテナを浮かべる私に「ここだけの話」とでも言うように口元を右手で覆った沢村君が、ぐんぐんと、私の耳に顔を近づける。すう、とはかれた前置きの一息が耳をくすぐりこそばゆい。乾いた唇の上に舌を滑らしたとき、彼の声に髪が揺れた。

◇◇◇

あらいーがみがーしんまでひえてー

「また歌ってんの?」
「最近のー俺のーヘビロテ曲〜」

駅への道のりはそこまで長くない。歩道と道路を区画する縁石の上、なぞるようにふらふらとおぼつかない足取りで歩みを進める御幸に合わせて足を動かす。しかしながら御幸の歩調はあまりにもゆっくりであった。ふらりふらりよたよたと、一瞬ではない一歩を噛み締めて歩く御幸の横、足元に頃合の石ころを見つけた私はつま先を小さく振り上げそして、蹴った。数メートル先、歪な弧を描いた石ころはステンステンと油が切れたロボットのようにぎこちなく歩道の上バウンドを繰り返す。

「へったくそ〜」
「うるさいな、御幸もサッカー下手くそだったじゃん」
「それ今関係ねえじゃん」

見とけよ、そう言って片足をあげる御幸の足下、縁石の上には丁度良く転がる百円サイズの石があった。勢いよく足を振り抜く御幸がバランスを崩し、縁石から落ちてしまわないかとハラハラしていた私の目に映るのは、宙を切る御幸の足とブンと虚しい風の音。見事に空振った御幸に笑い声をあげるつもりが、おっとっとと予想通りバランスを崩しこちらに倒れ込んできた彼に口から出たのは悲鳴であった。

「あっ…ぶな」
「わりーわりー」

まさに危機一髪、華麗なる私の瞬発力が功を奏し、無事私より体重はある御幸の体を両腕、全体重を使いながらも受け止めることができた。震える両腕を見て可笑しそうに笑う御幸は私に体を預けたまま、バランスを戻そうとしてくれない。

「重い、死ぬ!」

はっはっは、相変わらず人を小馬鹿にしたような御幸の笑い声が、肌寒い夜の空気に馴染むように溶け込んで、消えていく。「ん」体にかかる重みが消えて、私より高いくせにさらに二十センチほど高いところにいる御幸がなんの前触れもなく右手を差し出してきた。

「高い」見上げてそう言うと、馬鹿、と言って軽くジャンプをした御幸はいつもの高さに戻ったもののまだ私よりは全然高い。差し出された手のひらを強く握り返した。さらに強く、握り返された。

「ねー御幸ー、こんなことしていいのー」
「はっはっは、俺酔ってるから全然わかんねーな」

暗闇の中、レンズの奥、瞳は見えないけど何故だか幸せであった。嘘つきの酔っ払いの、初めてこんなにも長く意図的に触れた手はゴツゴツしていて頼もしい、キャッチャーの手であった。真実を知る私を、御幸は知っているのかな、よたよたな足取りも、随分前になおっていた。へったくそ、へったくそ、頼もしい右手は暗闇の中でもはっきりと私を導いていく。
試しに、終電に遅れるよ、と言ったところ、あっさりいいよと返ってくるものだから、これはますます沢村君の言うとおりだ。ケタケタと笑う私の顔を覗き込んだ御幸が、意味わかんねぇと呟いて、笑った。




「御幸先輩、メロンソーダしか飲んでませんでしたよ」