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私はスコアブックを取りに事務室に向い、扉を開けると明かりの灯らない部屋で監督が椅子に膝を組んで腰掛け、煙草を吹かしながら窓の外を見ていた。電気が付いていないから誰もいないと思っていて、だからノックをしなかったことを酷く後悔した。

「何か用か」
「すみません、いらっしゃるとは知らずにノックもしないで」
「構わん」

監督はそういうと煙草を灰皿に押し付けて消した。気遣ってくれているのだろうか。私は今更ながらに失礼します、と言って中にあがり、スコアブックを探す。

「スコアブックと撮影したDVDを借りに来たんです」
「そうか。熱心なんだな」
「そりゃあそうですよ、あれだけ部員が頑張てるんじゃ、何かせずにはいられません」

私は笑いながら監督を見上げると、監督はただじっと私を見ていた。なんだろうと思って首を傾げると、監督が私の右腕を指差す。

「袖が汚れているぞ」
「え、あ…本当だ。いつ汚れたんだろう…」

指摘された右袖を見ると、広範囲に茶色が広がっていた。恐らく泥が何かの拍子に付着してしまったんだろう。染み込んでしまっていて、跡を残しそうだ。

(私の心も、この汚れみたいに気が付いてくれたらいいのにな)

決して口が裂けても言えない想いだった。私は片岡監督の事が好きだった。未だに好き、なのか、大人の男性に憧れているだけなのか、それはイマイチわからない。けど、あの逞しい腕に抱かれたいだとか、カサついている色っぽい唇に唇を重ねたいだとか、そんな不埒な考えを持ってしまっているということは、私が女として監督を男と認めてしまっていることになる。しかしこんなことが世間に許されるはずもなくて、恐らく誰に気が付かれることもなく私自身すらも忘れ去ってしまうのだろう。

(…忘れ去ってしまう、のかな)

私はふと袖のよごれを見つめる。忘れ去ってしまうのは何か違う気がした。何故か私はこのよごれを見る度、監督を思い出すに違いない。まるで青い春の若い痣みたいだと思った。暫くぼうっとしてしまった私を訝しんだのだろうか、真っ直ぐに前を向いていた監督は再び私を見た。

「なかったか?」
「いいえ。…監督、私はこの袖のよごれがあれば、どんな時も頑張れる気がします」

再び笑いながら監督を見上げる。恐らく、サングラス越しの監督の目と見つめ合えているはずだ。子どもな私にはそれだけで十分幸せなことに思えた。

「どんな時も?」
「そうです。選手が弱ってしまっている時も支えてあげられる気がするし、監督や他の指導者の方たちのサポートもできる気がします」
「今だって十分苗字は頑張っているだろう。それこそ、袖のよごれにも気が付かない程度には。…それはな、部員のためのドリンクを外に運んでいる時に出来たものだ。机が汚れてしまっていたようだな」

私は驚いた。その言葉に、監督は私のこともしっかり見ていてくれているのだと知る。本当に視野の広い、大人の男性なんだなと思った。まだまだ私なんかが手を伸ばしていいような人ではないことを知った。少しだけ寂しくて、困ったように笑う。

「監督は、…視野が広すぎます」
「視野が広すぎる、か」
「そうです。裏方は、見えないところで頑張らなければいけないのに、監督は裏方まで覗くから」

何故か、私は涙が出てしまった。本当はこの人に全て見透かされてしまっている気がして、怖くなった。嗚咽まで出てきて、涙が一粒袖のよごれの上に落ちて、シミを薄めて広げていった。

「っ…そんなところまで見られたら、頑張るしかなくなっちゃいます」
「……サボる気だったのか」
「そうじゃないですよ!」

声を張ると、監督は口角を持ち上げてクツクツと喉奥で笑っていた。今度は凄く凄く恥ずかしくなって、耳にまで熱を集める羽目になる。

「それだけ元気があれば大丈夫そうだな」
「……本当に、ズルい人ですね」
「大人はそんなものだろう。苗字は忙しい奴だな。さっき笑っていたと思ったら泣き始めて、泣き始めたと思ったら拗ねるのか」
「……監督のせいです、私が笑って泣いて拗ねたのも、この袖のよごれも」

子ども染みた言葉にまた監督が喉奥で笑い、一つだけ頷いてから組んでいた脚を崩して椅子から立ち上がった。

「そうか、それじゃあそういうことにしておくか」
「はい。監督が監督じゃなくなっちゃっても、私が此処の生徒じゃなくなっちゃっても、ずっとずっとです」
「なら、見返りは期待しておけ」
「は…え?あ、ちょ、監督…」

はい。と言葉を返す前に、私は監督の言葉に疑問を感じ、急いで監督に視線を向けたけどしらっと事務室を出て行かれてしまった。一体、見返りとはなんのことだろうか。それはどういうことだろう。その結果を知ることができたのは、私が青道を卒業した次の日のことだった。

袖のよごれ
( それに見合うだけの見返りとは? )