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暖房、付けっ放し。
テレビ、付けっ放し。

ふぅ、と俺はひとつため息をついて、無防備に眠る名前の隣に座った。
机に突っ伏したまま顔を餅のようにとろけさせて眠る名前に思わず笑みが零れた。
よだれがノートに垂れ、書きかけの文字が力なく這い回り、その先に小さな水たまりまで出来ている。

起こさないように、俺はビデオを巻き戻し、スコアブックともう一つ別のノートを取り出した。
起きて俺が隣にいたらきっと名前は驚いて、それと同時に少しだけ頬を紅色に染め上げるんだろう。
その表情を見るのが楽しみで、その為のポーカーフェイスくらい容易なものだ。
二冊のノートを広げて、名前が見ていた先日の練習試合のビデオを初めからぼんやりと見直した。
実際はもう見る必要もないのだが、隣に座って名前が起きるのを待つ言い訳をするために、右手に銀のシャープペンシルを握りしめ、さも真面目な振りを装う。

よし、完璧。
あれ先輩いたんですか、ずっと前からいたよ、あたし寝てたんですか、よだれたらして可愛い顔でな、何言ってるんですかからかわないで下さい、とまぁこんな感じだろうか、名前が起きたらこんな会話が待っている。
そうして俺は名前に言うんだ、本当に可愛いと思ってるよ、って。
そうしたらきっと名前は、目を逸らしてそれでも顔は真っ赤で、いつもの癖で小さく右側に首を傾ける。
やめて下さいそんな冗談。
その言葉を遮るように、俺は名前の左側から触れるだけのキスをしてやる。
そうすると、名前は少し怒った風に、少し泣きそうな顔をして、真っ赤なまま小さく笑うから。
きっと、きっとだ。

早く起きねーかな、気持ち良さそうに眠るその顔を覗き込む。
机と重力に板挟みにされ、突き出された唇がぱくぱくと何やら小刻みに動いていた。
金魚みてぇ、込み上げる笑いを手で抑え込み、俺は名前の口元にそっと耳をそばだてる。

「……、ん」

小さな寝言が聞こえて、何を一生懸命に呟いているのだろうと俺はより一層その唇に耳を近付けた。

「……ら、ん、……むらくん、」
「…ん?」
「……さ、むら、君」
「え?何?」

「……沢村、君」

寝言に返事をしたらだめだ、とそんな迷信が頭の中にちらりと浮かんだ。
はっきりと聞こえた名前の寝言、その名前に耳がひやりと冷たくなる。
俺は一つ、ごくりと唾を飲み込み、ゆっくりと静かに、近付けていた耳を離した。

金魚みたいな間抜けな唇がまだぱくぱくとその名を呟いているのが分かった。
ふいにへらりと微笑んだ名前は、口角を小さく引き上げたまま一際大きな声ではっきりと言った。

「ごめんね」

いつもの優しい目元から、眠っているのに涙が零れた。
一粒、頬を伝ってノートを濡らしたその滴が乾く前に、名前は笑顔を消して、口を閉じた。
俺は思わず、息をすることも考えることも出来なくなった。
ごめんね、その一言は、誰に?

浮かんだ疑問を眠る名前に投げかけるか迷った、同時に鈍器で殴られたかのように頭に重い痛みが響く、一瞬だけ。

「………あ、れ?…御幸先輩」

その小さな間に名前は眠い目を無理にこじ開けながら首をもたげゆっくりとこちらに目を向けた。
心臓がぐっと握り締められた感覚がして、詰まった言葉に名前は不思議そうに首を傾げた。

「…あれ、あたし寝てました?」
「あ、あぁ、…寝てた、よ」

俺の顔を見て少しだけ頬が染まる。
誰が見ても分かるほどに分かりやすいその反応、それなのに。

「えぇ…先輩いつからいたんですか?起こしてくださいよ」
「…あんまり気持ち良く寝てるからさ」
「趣味悪いです…」

まだぼんやりと喋る名前に、表面では笑顔を保ててるはずなのに俺の胸中は穏やかではなくて。
さっきまで考えていたやり取りが、名前を照れさせる算段が、根こそぎ頭から飛んでいた。

「なんか…夢、見てたの?」

口をついて出た疑問に、え、と名前は少しだけ考え込んだ。
それからそういえば、とふんわりと優しく微笑んで、いつものように右側に首を傾けた。

「なんか、幸せな夢、見てました」

ほんのりと染まった頬が、俺のせいなら良いのに。

「覚えてねーの?」
「んー、なんか、あったかくて、ふわふわしてて、幸せだなって、そんなことしか覚えてないです」
「…何も覚えてねぇの?」
「んー、…恋、してるみたいな、幸せな夢」

唇に指を軽く噛ませた名前が、どこかうっとりとした顔でそう言った。
恋、してる夢だったのか、力を入れ過ぎた右手から硬いシャープペンシルの感触が伝わってくる。

「もしかしたら御幸先輩の夢、だったかも」

名前はそんな俺の気も知らないでいつものように、本当にいつものように小さく小首を傾げて、ふにゃりと微笑んだ。
俺はその笑顔に釣られて情けなくただ笑顔を返し、その頭を撫でる。

いつからこんな不毛な恋をしていたのだろう、早く気付くべきだった。
今はまだ、気付いたのは俺だけで。
だからもう少しだけ、このまま。

「夢でまで俺のこと想うなんてな」
「ほんとに、すんごく幸せであったかくて、楽しい…夢、だったんですもん」

笑う名前の心はもうきっとあいつに奪われている。
これで良いんだ、でも叶うならもう少しだけ。
もう少しだけ、名前が俺の物であるように、俺は小さく、小さく祈った。