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 俯き加減に歩き、どこか自信なさげに他人と話す。仲のいい友達とはそこそこ普通に話すけど、弱気な態度は変わらない。口べたで、自己主張の下手な奴。それが苗字の印象。
 苗字はどうも俺が苦手のようで、俺と話すときは普段の数倍どもる。挙動不審になる。すっ転ぶ。
俺は苗字に対して怒鳴るなんてことはしない。むしろ苗字にはかなり優しくしてるつもりだ。なのに苗字は、俺の前ではいつも以上におどおどして会話もまともにできやしない。俺が何したんだよ。
借りた漫画を返すときに、苗字と仲がいい吉川に聞いてみた。吉川は何でなんだろうねと笑うだけで、何も教えてくれない。吉川まで勘弁してくれよ。知らず苗字を見る俺の目つきは険しくなり、苗字はさらにおどおどする。悪循環に頭を抱えたくなった。
 入学したばっかの頃はここまで酷くなかったんだよな。あれは確か、ビデオ鑑賞で苗字と隣同士になったときだっけか。先生の趣味で選ばれた資料ビデオだったから、つまらなさ過ぎて内容は覚えてない。でも隣にいる苗字の目が輝いてたのはよく覚えてる。周りは皆うとうとしてんのに、苗字は食い入るようにビデオを見てた。
あんまり夢中で見てるから、好きなんだな、とつい声をかけてしまった。あのときの苗字は目をきらきら輝かせて、好きなの、と熱のこもった声で大きく頷いた。苗字は興奮で顔を赤くしながら、あのね、と続けようとしたが、後ろで目を光らせてた先生に私語をするなと叱られ素直に口を閉じた。
またあのときのビデオやってくんねぇかな。そしたら今度はもっとうまく苗字に声かけんだけど。
 今更どうしようもないことを、隠れてメールしていた沢村をシバきながら考えた。もう勉強見てやんねぇぞ、バカ村。

 奇しくも、今回の席替えで俺と苗字は隣同士になった。これは苗字と仲良くなるチャンスだ。ここで仲良くなれないなら、俺は苗字とまともに話せる日なんてもう来ねえ。
隣に座った苗字に、よろしくな、とできるだけにこやかに声をかけた。かけた、つもりだ。対する苗字は、うん、と蚊の鳴くような声で頷いたきり、また俯いてしまった。やっぱ俺が苦手か。そうだよな、俺と話すときだけどもるしな。何となく気分がくさくさして、頬杖をついてHRが終わるのを待った。
 HRが終わると、苗字は吉川たちのところへ小走りに行ってしまった。顔を真っ赤にして何かごにょごにょ話してる。何話してんだろ、あいつ。じーっと見てると苗字と目が合った。びくっと肩を跳ねさせる苗字。そのまま、俺の目から逃げるように吉川の後ろに隠れた。何で隠れんだよ、意味わかんねー。
ちぇ、と舌打ちし、苗字から目を逸らす。早く先生来ねぇかな。そしたら苗字が隣に戻ってくんのに。休み時間ごとにこうして逃げられたら、仲良くなれやしねぇよ。
自分で考えておきながら、らしくない考えに恥ずかしくなった。全部苗字のせいだ。腹が立ってきたからまた苗字に目をやると、苗字がいない。ん、あいつどこ行った?
教室を見渡すと、苗字はいつの間にか隣に戻っていた。忍者かよお前。もっと音出して動けよ。
苗字の顔は未だ林檎みたいになったまま。あっけー顔。指さしてそれを指摘すると、えぇ、と変な声を出して両手で頬を押さえた。何だこれ。こいつ面白いな。ニヤニヤ意地悪そうな顔になってるのが自分でもわかる。耳も赤くなってることを教えたら、今度は素直に耳を押さえた。押さえたって意味ねぇよ、つーか隠れてもねぇし。
苗字をいじって遊んでたら、あっという間に短い休み時間が終わった。先生、来るのはえーよ。

 息を小さく吸って、小さく吐く。たかだか授業で問題に答えるだけなのに、苗字はやけに緊張した顔だ。こいつ、あがり症だったのか。俺がぼーっと見てる間に、先生から○をもらった苗字は席についた。ほぅと小さくため息をついて、細いシャーペンを握り直した。そんな動作にも目が釘付けになる。
にしても、苗字って頭いいんだな。沢村に見習わせてぇ。やるなと小声で褒めたら、苗字は照れ笑いを浮かべた。今まで苗字から向けられたことのない表情を不意打ちで向けられ、一瞬息までも止まった、ような気がした。
 俺が苗字に話しかけたのを見ていた先生が、俺の名前を呼びながらチョークで黒板を叩く。その音でハッと我に返った。何だ今の、何だよあれ。鳴ってる音が聞こえるんじゃねぇかってくらい心臓が動きを早める。それに合わせるように顔が熱くなっていく。何だこれ、何なんだよこれ。
先生がさっさと答えろとまたチョークを黒板にぶつける。そんな叩かなくていいだろ。できるだけ何でもない風を装いながら立ち上がる。頑張って、と苗字の小さな声が聞こえた。
問題の答えを弾き出す傍らで、授業が終わったあとのことに意識が飛んでいく。次の休み時間、どうやって苗字に声をかけようか。逃げられる前に話しかけねぇとな。せめてあの授業で見たビデオの内容さえ思い出せれば、話しかけるネタにもなんだけど。
別のことを考えながら出した答えは不正解、しかもとんでもなく的外れだったせいで、クラスの奴らに笑われた。チクショウ、恥ずかしい。けど苗字の小さな励ましで、俺の気分はどうにか持ち直した。

 身の置き場もない、というのは言い過ぎか。百人を超える部員がグラウンドにひしめく。身を切られるような寒さの中、今日も俺たち野球部は朝練に励んでいた。暑い中での練習は辛く苦しかったのに、いざオフシーズンになるとあの暑さが恋しくなる。不思議なもんだ。
ランニング中に目をやったフェンスのそばに、いつも教室で見るシルエットを見つけた。前を走ってた沢村も気付いたらしい。俺を振り返って、苗字がいる、とニヤニヤ楽しそうに大声で報告しやがった。俺だって見えてるっつの。つーか苗字、何でこんな時間にここにいるんだよ。
朝練が終わっても、苗字はまだフェンスの向こうにいる。いつの間にかしゃがみ込んだようで、さっきより小柄なシルエットになってる。いつもなら寮に戻って学校へ行く準備をするけど、動かない苗字が気になって仕方のない俺は、寮に戻る列から一人離れてフェンスへと走った。
 苗字は猫と遊んでいた。しゃがむ苗字の足にまとわりつく黒猫は、やけに馴れ馴れしい。首輪がついてるし、どっかの飼い猫なんだろうな。それにしてもこのやろう、俺でも見たことないような苗字の顔を見やがって。猫相手に嫉妬する自分がみっともなく思えて、もう猫を見るのはやめた。苗字も、今は猫ではなく俺を見ている。
「あ、えと、金丸君」
「ん」
 春乃ちゃんにね、と苗字が俺を見上げる。ハルノって誰だ。顔に出てたのか、吉川さんが、と言い直された。ちゃんと目を合わせようと苗字は努力したけど、結局俺を見つめ続けられず、その目線は俺の足元に移った。練習後じゃなきゃ、もうちょっとキレイなんだけどな。
金丸君って、と苗字は言い出そうとしては口ごもる。猫が苗字の足元に体をこすりつけ、ちりん、と鈴が鳴った。先を促すと、苗字はやっと話し出した。
「金丸君、星が好きだって聞いて」
 一言も言った覚えがねぇんだけど、とは言わずに黙って頷いた。
「私、今度の土曜日に星を見に行こうと思ってるんだけど。その、良かったら、良かったら、あの……」
 そこまで言って、苗字はまた黙り込んだ。先を促さなくても、苗字が言いたいことはわかったつもりだ。
「俺も一緒に行っていいのか?」
「う、うんっ。一緒に行けたら、嬉しいな」
 そんなもん答えは一つだ。行く、絶対行く、雨が降っても行く。
力を込めて返事をすると、雨が降ったら星は見えないよ、と苗字は笑った。今、ようやく苗字と目が合った。

 宇宙一の幸せ者は俺だという自信がある。苗字に誘われた。夜に、しかも二人きりだ。チャンスだろ。逆にこれをチャンスにできねぇなら男じゃねぇよ。
そう思いながら俺が向かったのは図書室。星の名前も星座の位置もわかんねぇし、付け焼き刃でも何も知らないよりかはマシだろ。本棚から星関係の本を数冊選び、机の隅っこを陣取った。ページをめくっていきながら、今の時期に見える星座を調べる。流星群も見えるのかよ、すげーな。急いで知らなくていいところは流し読みして、ぱらぱらとページをめくっていく。あるページを開いたところで、ようやくあのとき見せられたビデオの内容を思い出した。あのビデオ、そういえば星のビデオだったな。星の解説の合間に宇宙誕生の秘話だとか、そんなのが混じった小難しい内容だった。俺、よく寝ずにいられたな。
休み時間と寝る前のほんの数十分をフル活用して、星座と星の名前はある程度叩き込んだ。あとは当日にボロを出さなきゃいいだけだ。できるだろ、たぶん。吉川が何で俺が星好きなんて嘘を言ったのかわかんねぇけど、結果オーライだな。土曜日までの短い時間、俺は何をするのも苦じゃなかった。
 そうして迎えた土曜日の夜。練習から上がって、苗字と待ち合わせの公園へ走る。練習後の体でも寒く感じるほど空気は冷えている。途中で缶コーヒーを買ってカイロ代わりにした。ポケットに二本の缶。待ち合わせの公園で先に待ってた苗字に一本やると、ありがとう、とまたあの笑顔を向けられた。
公園には俺たち以外にも人がいた。皆して空を見てるから、きっと俺たちと同じく星を見るのが目的なんだろう。ほんとはね、と缶コーヒーで手を温めながら苗字は俺を見上げて笑う。
「ほんとはもっと遅くに、流星群が見えるの」
「じゃあそれまで待つか?」
「ううん。寮の門限よりずっと遅いから、無理だよ」
 私も門限があるし、と残念そうに言う苗字。せめて俺が寮じゃなかったら遅くまで付き合って、そのあと一緒に親に謝ってやるんだけどな。
ありもしないことを考える俺の袖を遠慮がちに引きながら、あっちだよ、と苗字は高台に向かって歩き出した。苗字に引かれるまま、俺もぎゅっぎゅと芝生を踏んで歩き出す。何か、いいな。こういうの。彼女に引っ張られるとかけっこう憧れる。しかも今の苗字は遠足に来たみたいにはしゃいでて、俺とかなり普通に話せてる。
「あの木が植わってるあたりにね、遊具があるんだけど、金丸君見える?」
「ジャングルジムか?」
「ううん、反対! あっちの、大きい滑り台」
「ああ、あれな」
 いかにも子供が遊ぶものです、なデザインのでかい滑り台。苗字が言うには、あそこは大人じゃ登れないから誰にも邪魔されずに夜空を楽しめるらしい。よく知ってんな。
「この公園はそんなに見晴らしは良くないんだけど、私はあの滑り台から見るのが一番好きなの」
「好きなんだな、星見るの」
「うん、大好きっ」
 これが俺のことだったらな! いいんだけどな! な! 思わず関先輩の口調にもなるような笑顔だった。
「えっと、あれが北極星だから……こっちを見るんだよね」
「こっち見るんじゃねぇの?」
「あれ?」
 滑り台の上で空を見上げながらくるくる回る苗字は、教室じゃ考えられないくらい楽しそうに笑ってる。ああくそ、可愛いなぁ。必死で覚えた星の名前も星座の場所も忘れるくらいだ。二人きりって嘘みたいだよな。二人で空を見上げながら、あの星とこの星を結んでペガサス座、あれがアンドロメダ座だからあの星はアルフェラッツ、と空に絵でも描くように指を走らせる。苗字の顔が近い。このまま時間が止まってもいいな、と俺は割と本気で考えた。
 時間よ止まれ、と念じたところで時間は止まらない。現実っていうのは残酷だ。苗字の鞄から高い音と耳慣れた振動が聞こえる。慌てる苗字が鞄を探って取り出したのは、ストラップもついていないケータイだった。あ、とぷるぷる震えるケータイの画面を見て固まる苗字。つい俺も覗きこむと、そこにあったのは『お父さん』の文字。画面上端に出てる時計は寮の門限を越えようとしている。ああ、これはやべぇな。
苗字の声の合間に低いオッサンの声が混じる。何を言ってるかまでは聞こえなくても、苗字んちの親が怒ってるのはよくわかった。しょんぼりとケータイを閉じた苗字は、ごめんね、と眉を八の字にした。それには返事をせず、帰るか、と呟くように言った。こくんと頷いた苗字の顔に、さっきみたいな明るさはもうない。
 滑り台から降りて、すっかりしょげ返った苗字の手を引いて歩いた。少し濡れた芝生を踏むたび、ぎゅっぎゅと音が鳴る。さみーなと呟くと、寒いねと小さな声が返ってきた。握る手にも声にも元気はない。公園の出口が見えてきた。このまま別れるのは惜しい。どうすっかな、と頭をフル回転させる俺の手を、苗字が急に強く握った。どうしたと振り向いた俺の耳に、苗字が俺を呼ぶ小さな声が届く。
「金丸君」
 苗字は、この暗い中でもわかるほど顔が真っ赤になってる。
「好き、です」
 あの苗字が、俺にそう言った。これは夢かとも思ったけど、苗字が俺の手をさらに強く握ったからたぶん夢じゃない。おお、マジかよ。マジで夢じゃないのか。
 俺が何も返さずぼけっとしていると、聞こえてないとでも思ったのか、苗字は何でもないのと謝りだした。
「な、何でもない。何も言ってないよ、ごめんね、金丸君」
「いやいや、謝んなよ。落ち着けって」
 俺の手を離して、いつもみたいに逃げ出そうとする苗字を半ば無理やりに引き止めた。走ろうとしたところを無理に引き戻したせいで、苗字の体がバランスを崩す。わ、と気の抜けた声を出して苗字が俺に向かって倒れ込む。苗字を抱き止め、俺も苗字も仲良く地面になだれ込んだ。思い切り打った頭、主に後頭部が痛い。まあでも、苗字を下敷きにしなかった俺の運動神経は褒めていいよな。ナイス俺。
俺を押し倒した苗字が涙を滲ませ、ごめんねごめんねと謝りながら俺から離れようとする。俺は苗字の体に腕を回して、それを阻止した。苗字の顔は赤くなりすぎて、もうこれ以上赤くなれないだろってくらいに赤くなってる。
 けど俺も、苗字に負けないくらい赤い。
「俺も好きだよ。苗字が好きなんだよ、悪いか!」
 もう心臓の音は苗字に丸聞こえだ。こんだけくっついといて平気でいられるほど、俺の心臓は頑丈じゃない。ひゅーひゅー、と古い囃し声が周りから聞こえた。うるせーな、星でも見てろよ!
腕の中の苗字から返事がない。おい、返事は。照れてぶっきらぼうになりながら聞くと、今までで一番小さな声で返事がきた。
「夢じゃない?」
「それ、俺の台詞」
 それから俺は苗字を家に送り届けて苗字の親に叱られ、寮に帰って門限を過ぎたことを寮監に叱られ、と散々な目に遭う。けどそんなもん気にならないくらいに俺は幸せだ。ケータイのアドレス帳には『苗字名前』の文字が登録された。その文字を見てるだけでニヤける俺はちょっと危ない気がする。ベッドで転がって意味もなくニヤニヤとケータイを眺めてると、画面に『苗字名前』と表示され、メールを一件受信した。急いでメールを開くと、苗字らしいちょっと固い文章が表示された。
『月曜日から、よろしくお願いします』
 最後に付けられたぴこぴこ動く絵文字が、苗字みたいに照れ笑いを浮かべてる。あんまりにも可愛くて枕に突っ伏しながらチクショウと声を出したら、うるせーよと先輩にベッドを蹴られた。
 ああ俺、幸せで死にそう。



おまけ
「名前ちゃんも金丸君も、わかりやすく両思いなのに焦れったかったよねー」
「春乃の嘘はナイスだったわね! 名前は信じちゃったし、金丸も嘘に合わせてたし! 打ち合わせでもしてたの?」
「ううん、全然」
「ほんと良かったねー。二人とも無事に付き合えて」
「でも大変なのはここからよね。金丸野球部だし」
「何とかなるよー。ね、春乃! 春乃とおんなじ野球部だし!」
「そこまでは責任持てないかな……」
 女子ってこえーな。聞こえてきた会話は、そう思わずにいられない内容だった。
「金丸君?」
「ん? 何でもねえ。それより次の予定決めようぜ」
「うんっ」