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「最近さ、ねむれないんだよね」
「え、そうなんですか?」
「うん。明け方にやっと寝れるんだけど、あんまり寝た気しない」

きっかけは名前さんがぽつりと漏らした言葉。「ねむれない」か。別に彼女自身は世間話くらいのもので、深刻に捉えてないんだろうけど。しかしながらこっちとしては、それ続いてたら結構やばいんじゃないの?と心配になる。思わず「寝れるまで一緒にいましょうか?」なんて言ってしまうくらいに。普段そんなこと言ったことなかったもんだから、あとから何言ってるんだ恥ずかしい!とかなり後悔した。したけれども。ふわふわした笑顔でありがとうと言われてしまっては今更断れない。そうして彼女との半同棲がはじまった。浮かれていないと言えば、嘘だ。

「………」
「いつきくん、いーつきくん!」
「えっ」
「樹くんもいる?ホットミルク」
「あ、はい、飲みたいです」

名前さんの呼びかける声ではっと我にかえる。あ、やばい、上の空だった。それも見抜かれていたようで、彼女は口元に手を当ててくすくすと笑う。

「じゃあ、マグカップとって」
「了解です」

ええと、カップは確かキッチンの上の棚の中だった。かちゃかちゃ、と音を立てる色違いのそれは付き合い始めたころにプレゼントしたものだった。本当はもっと高いものだってよかったのに、実用的なものでいいからと頑として譲らなかったんだっけ。俺が年下だから気を遣ったのかと勘繰ったこともあったけど、最近では単にそっちの方が欲しかったんだろうな、とも思う。そういう人なんだ。

赤と青のマグカップを並べて置いて、彼女が牛乳を注いでいく。それから甘さを加えるためにとろり、と蜂蜜をすくって垂らした。白の中にきらきらが混じって、しばらくすると見えなくなる。スプーンでかき混ぜる姿を見届けるとふたつを電子レンジに入れた。ピッと電子音がして、温め開始。これだけできあがり。お手軽ですね、と言うと、そうだね、と返ってきた。それだけなのになんだか嬉しくなる。ふと昔国語の授業で習った「寒いね」と言うと、の短歌を思い出して、あああれはこんな気持ちなのかなって。

「あーあったかい」
「…こぼさないようにしてくださいね」
「大丈夫だいじょーぶ」
「なんか心配だな」

彼女はマグカップに手のひらを当てる形で持つと、暖をとるようにしてリビングへ向かう。その足元は淡いピンクのもこもこ靴下で覆われていて、どこか幼さが感じられた。それを眺めつつ俺も自分のカップを持って後を追う。

「あーおいしい」
「でも、ちょっと甘すぎませんか?」
「私はこれくらいで普通。樹くんのは今度から控えめにしよっか」
「ありがとうございます」
「いえいえ、どういたしまして」
「あ、」
「なに?」
「あれ鳴さんが好きな女優さん」
「そうだっけ?もっと違う感じじゃなかった?」
「なんか、最近好み変わったらしいですよ」
「なるほどね」

ふたりでソファに座って、バラエティ番組を見ながらホットミルクを啜る。お互い口数が多いわけじゃないからぽつぽつと喋るような、そんな夜。先輩たちに言ったらそんなんだから平凡なんだとバカにされてしまいそうだけど、何が悪い、それで充分だ。ごくり、最後の一口を味わうころにはもう23時近くになっていた。今日はあったかくして早めに寝ようと決めていたので、急いで歯磨きをして、ベッドに入る。布団からふわりと彼女の香りがして、いつも自分が寝ている場所と違うんだということを実感してしまう。ああ、もう。

「名前さん、奥どうぞ」
「どうも」

シングルベッドに大人二人の体はいっぱいいっぱいだ。ましてや片方は運動をしていてがっちりした体格。ふたりで仰向けは落っこちてしまいそうになる。だから自然と身体を彼女の方に向けて、彼女も俺の方を向く形になった。ドキドキドキドキ、鼓動が速くなるのが分かる。きっと顔も真っ赤で見せたくないような感じになっているんだろう。隠したくてさっさとリモコン操作で電気を消した。見えるのはオレンジの小さな明かりだけ。急に暗くなったのに驚いたのか名前さんは身じろぎをした。それに合わせて毛布ももそもそと動く。

「……いつきくん、電気」
「明るくしてたら興奮して寝れないらしいっすよ」
「そうだけど、さあ」

折角近くにいるんだからもうちょっと明るくてもよかったな、なんて。薄ぼんやりとした明かりだけじゃ彼女がどんな表情でその言葉を紡いだのか到底わかるはずはないのだけれど、ぎゅうと胸を鷲掴みにされる。そんなこと言われたらこっちが寝れそうにない。そんな気持ちを知ってか知らずか彼女の手が俺の手に触れる。…びっくりした。さっきまであたためていたはずの手が、今やひんやりを通り越して冷たい。すごい温度差だ。こっちはあつくて仕方が無いというのに。

「わ、あったかい!」
「ちょっと、手、冷たいんですけど」
「冷え症だから、すぐつめたくなっちゃうんだよなあ」
「手、貸してください」
「手?…はい」

名前さんの両手を包み込むと思っていたより小さいことに気づく。冷たい手に温かさを分けてあげる、気分はさながらそんな感じだった。そうするうちに自分の手も熱いからぬるいに変わっていって、ふたりの手の温度が同じになるのが分かった。
ふふ、と彼女が笑うので、思わずどうしたのかと尋ねずにはいられなくなる。もしかして背伸びしすぎたのをからかわれるのか、とか。

「ううん、私が幸せ者すぎて。ありがとう」
「…別に、好きでやってるんですから」
「そっか」
「はい」
「あのさ」
「なんですか?」
「今夜ねれなくたっていいんだけどさ、もう一つお願いしてもいい?」
「いいですよ」
「……うーん、でもなあ」
「何勿体ぶってるんすか」
「………ぎゅってして」

えっ。ぎゅ…ぎゅってして?こそばゆくなるような囁き声だったけど確かに耳に届いた。いつも年上という気兼ねがあるのか、はたまた性格がそうなのかあまり甘えてこない彼女からそんな言葉が聞けるだなんて。思わずごくり、と生唾を飲む。心臓は相変わらずばくばくとうるさい。ここで口を開いたら、声が震えるか変なことを言ってしまうかもしれない。だから、何も言わないで、名前さんを抱き寄せた。

そうして彼女は俺の胸の辺りに顔を埋める形になる。そんなことをしたら今度は理性との闘いになってしまうわけで。ふと「え?寝れないなら運動すればイイじゃん!夜の」なんていう鳴さんのいつまで思春期真っ盛りなんだと言わんばかりの言葉が頭を掠める。いや、いやいやいや。そんな不純な気持ちは捨ててしまおう。いや、でも。彼女を腕に抱く男は誰しもこんな葛藤をするんだろうか。自分一人で悶々としているのが耐えられなくなって、声を発する。

「名前さん」
「…………」
「俺も、幸せです」
「…………」
「……あれ?」

何で返事がないのだろう。めいっぱい格好つけたというのに。無視をされたのだとしたらなかなか辛い。様子を伺うと、すうすうと規則正しい寝息が聞こえる。

「なんだ、ちゃんと寝れるじゃないですか」

こっちは恥ずかしい思いしたっていうのに。寝てるだなんて、拍子抜けというかなんというか。でも、寝れて良かったですね。腕の中で眠るあたたかい存在が愛おしくなって、そっと髪の毛に唇を落とした。

キスでおねむり